第10話「巨悪の終焉」
物部貞文の本邸から立ち上る匂いは、すでに一国を揺るがす「戦」のものだった。
血の匂い、錆びた鉄の匂い。そして、これまで宮中の各所で景光たちの行く手を阻んできた、あの曼陀羅華と雄黄が混ざり合う、おぞましい毒の匂い。
「――ここが、全ての泥の源流か」
源清重が、物部邸の重厚な門を睨みつけながら低く呟いた。その手には、すでに抜き放たれた太刀が鈍い光を放っている。
「景光、私の後ろから離れないでね。白梅の香りで、少しでもその毒の匂いを誤魔化せたらいいんだけど……」
綾子が景光の袖をきつく握りしめる。
「無駄だ。これだけ濃ければ、鼻を削ぎ落としても匂う」
景光は薬箱を肩にかけ直した。その隣では、賀茂輪狗が数枚の符を指の間に挟み、不敵な笑みを浮かべている。
「陰陽の理を狂わせた罪、その身で償ってもらおう。行くぞ、薬師!」
門を突き破り、一行は邸内へと突入した。
待ち受けていたのは、物部が私的に雇い入れた武装した兵たちだった。夜の静寂を切り裂き、激しい金属音が響き渡る。
「ここは私が引き受ける! 景光殿、奥へ!」
清重の太刀が風を払い、襲いかかる兵の刃を次々と弾き飛ばしていく。極限まで無駄を削ぎ落とした武人の動きが、確実に道を切り開く。
「ふん、呪術の真似事をする不届き者どもめ、これでも喰らえ!」
輪狗が放った符が空中ではじけ、目くらましの白煙と爆音を引き起こす。兵たちが怯んだ隙に、景光と綾子は邸の最奥、物部貞文が拠る主殿へと駆け込んだ。
主殿の御簾の向こう。
大きな香炉を前に、一人の老人が悠然と座していた。公卿の立派な衣装をまとっているが、その目の奥には、狂気と執念の濁った光が宿っている。
物部貞文。
宮中の闇を操ってきた張本人だった。
「……やはり来たか、典薬寮の犬め」
貞文は立ち上がり、不気味に笑った。
「一人の薬師の鼻ごときに、私の描いた『新しき宮中の絵』がことごとく塗り潰されるとはな。だが、もう遅い。この香炉で焚かれているのは、有澄の配合をさらに限界まで高めた、一国を狂わせる究極の毒香だ」
部屋の中に、五感を麻痺させるような、ねっとりとした甘い匂いが急速に広がり始める。吸えば、数息で正気を失うほどの濃度だった。
「景光、息を吸っちゃダメ!」
綾子が叫び、自分の袖で景光の口元を覆おうとする。しかし、景光はその手を優しく、だが断固とした力で拒んだ。
景光は一歩前へ出た。その目は、恐怖に震えるどころか、冷徹な怒りで満ちていた。
「貞文。お前は薬の力を、人の命を弄ぶために使った。それは、薬師の端くれとして、到底許せるものではない」
景光は薬箱から、有澄から取り戻したあの「黒い薬包」と、試薬の結晶を取り出した。
「何をする気だ……?」
貞文の顔に、初めて動揺の色が走る。
景光は迷わず、それらを貞文の前の香炉へと投げ入れた。
一瞬の後、香炉から凄まじい勢いで「紫色の煙」が立ち上り、部屋に満ちていた甘い毒の匂いを、猛烈な勢いで中和し、打ち消していった。
「な、何だと!? 私の毒香が消えていく……!?」
「毒を制するのは、いつも正しい調合だ」
景光は言い放った。
「お前の毒は、桂皮の温熱で拡散していた。私はそこに、極大の寒性を持つ薬種をぶつけた。相殺され、ただの灰に戻る。お前の『絵』は、これで完全に終わりだ」
「そこまでだ、物部貞文!」
背後の障子が激しく引き破られ、返り血を浴びた清重と、息を切らした輪狗が飛び込んできた。
清重の太刀の切っ先が、貞文の喉元でぴたりと止まる。
「検非違使の軍が、すでにこの邸を包囲した。お前の悪行、すべて安倍惟忠殿を通じてお上へ報告された。……大人しく縛に就け」
貞文はその場に崩れ落ち、がたがたと震えながら、白く灰となった香炉を見つめることしかできなかった。
数日後。
事件は完全に収束し、物部一派は宮中から一掃された。
初夏の柔らかな風が吹き抜ける典薬寮の庭で、景光はいつものように、静かに薬草を干していた。
「景光、本当にお疲れ様」
綾子がお茶を運んでくる。白梅の香が、薬草の匂いと調和して、優しく場を包み込む。
「私はただ、自分の鼻が気に食わない匂いを追っただけだ」
景光はぶっきらぼうに答えた。
「相変わらず素直じゃないですね、景光殿」
廊下の影から、清重が穏やかな笑みを浮かべて現れた。
その後ろからは、「おい、薬師! 陰陽寮にまた妙な匂いのする事件が持ち上がったぞ!」と、相変わらず騒々しい輪狗の声も聞こえてくる。
景光はちいさくため息を吐き、干し終えた薬包を手に取った。
宮中の闇は、これからも形を変えて現れるかもしれない。
だが、この「鼻」と、それを支える仲間たちがいる限り、どんな毒の匂いも見落とすことはない。
充満する薬種の匂いの中に、未来へと続く、新しく清らかな風の匂いを、景光は確かに嗅ぎ分けていた。
第10話「巨悪の終焉」 了




