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香薬奇譚〜神の鼻を持つ毒殺回避の天才薬師、宮中の陰謀をすべて嗅ぎ暴く〜  作者: 優涼


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第26話「蜜月の果て」

 

 「――朝葉! 耐えろ!」


 景光の鋭い怒号が、再び朝葉の鼻腔へと特製の解毒剤を押し当てた。


 清重と厳馬が、暴れる彼女の細い手足を必死に押さえつける。


脳裏に巣食う偽りの快楽と、現実の激痛を伴う「白梅と冬虫夏草」の強烈な刺激。


その二つの波が、朝葉の華奢な肉体の中で激しくせめぎ合っていた。


 「あ、ぐ……、ああぁぁぁッ!」


 朝葉の口から、悲痛な叫びが漏れる。


 だが、その瞳の奥に、怪しく揺らめいていた「濃ピンク色の光」が、白梅の清涼な薫香によって一歩、また一歩と押し戻されていくのが景光には見えた。 


 「戻ってこい、朝葉……! お前のその無駄に鋭い情報網がなければ、私は宮廷の闇を嗅ぎ分けることすらできん。私を、ただの偏屈な薬師に戻す気か!」


 景光が、彼女の額に汗まみれの手を当てて叫ぶ。


 その言葉が、朝葉の魂を辛うじて現世へと繋ぎ止めた。


 「……ごほっ、げほっ……!」


 朝葉が激しく咳き込み、綾子と同じように、体内の毒素を含んだ黒い体液を床に吐き出した。


 彼女の頬に広がっていた不気味な曼珠沙華の痣が、みるみるうちに白磁のような白い肌へと吸い込まれるように消えていく。 


 「……はぁ、はぁ……。まったく、……相変わらず、手荒な、治療ですこと、景光様……」


 息を乱しながらも、朝葉の瞳にいつもの抜け目のない、賢しげな光が戻っていた。


 「間に合っ……たな」


 景光はその場にドサリと座り込んだ。


 全身の力が抜け、噛み切った舌から再びじわりと血が滲む。


清重と厳馬も、大きく安堵のため息を吐きながら、それぞれの武器を床に置いた。


 「よくやったな、薬師。一時はどうなるかと思ったぜ」


 厳馬が景光の頭をわしづかみにして揺らす。


 「……よせ、厳馬。頭に響く」


 景光は鬱陶しそうにその手を払いのけたが、その表情には、確かに深い安堵が広がっていた。


 長椅子の隣同士で横たわる綾子と朝葉は、互いに弱々しく手を伸ばし、その指先を重ね合わせた。


 「朝葉様……」


 「ええ、綾子。私たち、とんでもない悪夢を見ていましたのね……」


 二人の衣服からは、かつてないほどに清らかな、混じり気のない白梅の香りが、朝の光に溶けるように漂っていた。



 しかし、救出劇の余韻は、ほんの半刻(約一時間)も持たなかった。


 典薬寮の扉を激しく叩き、一人の検非違使の伝令兵が転がり込んできたのは、太陽が完全に東の山から顔を出した頃だった。


 「し、失礼いたします! 坂上執事、源隊長! 大変です! 検非違使庁の地下独房に収監した『如月の君』ですが……!」


 「何だ、逃げ出しでもしたのか!?」


 厳馬が身を起こし、大刀を掴む。


 「いえ、違います! 彼女は独房の中で、自らの懐に隠し持っていた『最後の香炉』を叩き割り……そこから噴き出した、これまでとは比較にならない規模の『桃色の煙』が、地下から検非違使庁の庁舎全体、そして風下にある『内裏(宮中)』の南側へと一気に拡散しております!」


 「何だと……!?」 


 清重の顔が瞬時に引き締まる。


 「すでに庁舎内にいた衛士の半数以上が正気を失い、互いに刃を向け合っております! さらに、内裏の南側――公卿たちが集まる朝堂院ちょうどういんでも、煙を吸い込んだ若君や役人たちが暴徒化し、帝のまします紫宸殿ししんでんへ向かって進軍を開始しているとの報告が……!」


 「あの狐女……! 自分が捕まるのを見越して、京そのものを道連れにする気だったのか!」


 厳馬が床を強く踏み鳴らした。 


 景光はゆっくりと立ち上がり、格子窓の外を見た。


 確かに、宮廷の南東の空が、朝焼けとは明らかに異なる「おぞましい桃色」の霞に覆われ始めている。


風が運んでくる空気の中には、すでにあの脳を麻痺させる死人花の甘い匂いが、微かに、だが確実に混ざり合っていた。


 「奴の目的は最初からこれだったんだ」


 景光の「神の鼻」が、宮中全体に広がる巨大な毒の網を完全に立体視プロットしていた。


 「如月の君は、自分が敗れた時のための『最後の起爆剤』として、京の空気全体を媚薬の温床に変える仕組みを整えていた。……放置すれば、数刻のうちに宮中の半数以上の人間が傀儡となり、帝を暗殺、あるいは国の中枢を物理的に壊滅させるだろう」


 「景光殿、解毒剤の量は?」


 清重が冷静に尋ねる。 


 「今作った量では、せいぜい数人分だ。宮中全体に浴びせるなど、逆立ちしても足りん」


 絶望的な状況。


 しかし、長椅子から身を起こした綾子が、微かに震える声で言った。


 「……あります。景光。宮中全体に、私たちの薬を届ける方法が」


 景光が振り返る。


綾子の瞳には、先ほどまでの虚弱さは消え、香道の名門としての誇りが満ちていた。


 「内裏の北西にある『豊楽殿ぶらくでん』の庭には、宮中全体の空気の流れを制御するための、巨大な『大香炉だいこうろ』があります。……かつて、私の父が宮中の疫病を祓うために設計したものです。あそこに、景光が調合した解毒の煙を乗せれば、秋の北風に乗って、宮中全体の毒煙を一瞬で相殺できるはずです!」


 「豊楽殿の大香炉か……!」


 景光の脳内で、宮中の立体図と風の流れが完全に噛み合った。


 「よし。清重、厳馬。私をあの大香炉まで送り届けろ。朝葉と綾子はここで待機――」


 「いいえ、私も行きますわ、景光様」 


 朝葉が立ち上がり、不敵に笑う。


 「大香炉を起動するには、宮中の複雑な鍵の仕組みを知る者が必要ですわ。それに、私の情報網がなければ、暴徒化した衛士たちの配置を避けて進むことは不可能です」


 「私も行かせて、景光。白梅の香粉を大香炉の比率に合わせるには、香道の調合の知識が必要よ。私はもう、あなたの背中を見ているだけの女の子じゃないわ」


 綾子もまた、自らの薬箱をしっかりと胸に抱えて立ち上がった。 


 景光は四人の仲間たちを見回した。 


 誰一人として、怯えている者はいない。


 「いいだろう。……行くぞ。この京を包む偽りの蜜月を、私たちの香りで叩き割る!」


 天才薬師と仲間たちの、すべてを賭けた「最終作戦」が、ついに幕を開けた。


第26話「蜜月の果て」 了

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