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香薬奇譚〜神の鼻を持つ毒殺回避の天才薬師、宮中の陰謀をすべて嗅ぎ暴く〜  作者: 優涼


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第25話「命の薫香」


 東の空が、夜の帳をわずかに押し広げるように、薄い白気しらげを帯び始めていた。


 京の街が目覚める前の、最も冷え込む時間。典薬寮の調薬室は、まるで戦場のような緊迫感に包まれていた。


 「――綾子! 朝葉!」


 荒々しく引き開けられた扉。


滑り込んできた景光の顔は、かつてないほどに蒼白だった。


 長椅子に横たわる二人の容態は、数刻前よりも劇的に悪化していた。


呼吸は浅く、喉を鳴らすような不快な音が部屋に響く。


何より、二人の首筋や頬に浮かび上がった「曼珠沙華の痣」は、すでに毒々しい黒紫色へと変色し、まるで皮膚のしたを這う蠢く蜘蛛のように、その不気味な根を伸ばしていた。


 「熱が、下がらん……! 脳の壊死が始まろうとしている!」


 景光は倒れ込むように綾子の傍らに膝をつき、その額を触った。


驚くほどの熱が、彼の冷え切った指先を打つ。


 いつもなら、瞬時に脳内であらゆる成分を計算し、冷徹に、精密機械のように調合を進めるはずだった。


しかし、今この瞬間の景光の指先は、不自然なほどに激しく震えていた。


 (落ち着け。調合比率は頭にある。如月の君の原液を核に、酸を中和させ、死人花の分子を分解する……。落ち着け、私……!)


 「景光殿、原液を!」


 清重が、懐からあの薄紅色の小瓶を差し出した。


景光はそれを奪い取るように掴み、栓を引き抜く。


 溢れ出た最凶の原液の香りは、すでに如月の君の部屋で嗅いだものと同じ。


だが、今の景光の鼻には、それが二人を死へと引きずり下ろす「死神の爪」にしか感じられなかった。


 「……くそっ、なぜ手が震える! これでは一滴の狂いが生じる!」 


 景光はすり鉢に原薬を注ごうとするが、その手が、どうしても定まらない。


 心臓が耳元でうるさいほどの早鐘を打っている。


 脳裏をよぎるのは、物心ついた時からいつも自分の隣にいて、どんなに鬱陶しがられても「景光!」と笑いかけてくれた綾子の姿だった。


自分の偏屈な性格を「天才薬師様」とからかいながらも、誰よりも自分を信じてくれた、あの白梅の香り。


 もし、調合を一滴でも間違えれば。

 もし、自分の鼻がこの極限状態で見誤れば。


 この温かい身体が、冷たい骸へと変わってしまう。


十五年前、父を失ったあの夜と同じ、あの喪失の暗闇が、再び景光の目の前に大きく口を開けていた。 


 「おい、薬師! しっかりしやがれ!」


 背後から、厳馬が景光の肩を力任せに掴んで揺さぶった。


 「お前がそんなツラしてどうすんだよ! 俺たちはその『神の鼻』を信じて、命がけでここまで走ってきたんだ! その鼻は、飾りか!? 違うだろうが!」 


 「厳馬……」


 「景光殿。私を、厳馬殿を、そして何より、あなたを信じて命を賭けた二人を信じてください」


 清重が静かに、だが鋼のように強い瞳で景光を見つめた。


 景光は、一度強く目を閉じた。


 そして、自らの唇を、口いっぱいに鉄の味が広がるほどに再び噛み締めた。


 痛みによって視界が、脳が、急速に冷え渡る。


 「……ああ、そうだ。私は薬師だ。誰が死なせるか」


 その瞬間、景光の瞳から焦燥が消え、底知れぬ「怒り」と「執念」が灯った。


 死という理不尽な境界線に対する、薬師としての、そして一人の男としての、猛烈な反逆の意志。


 「清重、厳馬! 二人の身体を押さえろ! これから『脳を直接叩き起こす』。激しい拒絶反応が出る!」


 景光の指先が、信じられないほどの速さで動き始めた。


 如月の君の原液を器に注ぎ、そこに『白梅の香粉』、そして神経を強制活性化させる『竜脳』と『冬虫夏草』の極微量を、一厘の狂いもなく正確に調合していく。


 薬が混ざり合うたび、すり鉢からは、どこまでも冷たく、それでいて力強い、あの『真実の白梅の香り』が立ち上った。


 景光は完成したばかりの、猛烈な刺激を持つ中和液を自らの手のひらに注ぎ、まずは綾子の鼻口へと強く押し当てた。


 「綾子……! 目を覚ませ! お前がまとう白梅は、こんな安っぽい媚薬に屈するほど弱くはないはずだ!」


 普段の景光からは想像もつかない、魂を揺さぶるような咆哮だった。


 「あ……、あ……!」


 綾子の身体が、雷を打たれたように大きく跳ね上がった。


 清重が必死に彼女の肩を押さえる。


綾子の瞳がカッと見開かれ、その瞳孔が激しく収縮と拡大を繰り返した。脳の中で、如月の君の甘い呪縛と、景光が送り込んだ冷徹な白梅の薫香が、互いの領土を奪い合って激しく衝突していた。



 「綾子……! 戻ってこい! 私を、一人にするな!」


 景光の、悲痛とも言える叫び。


 その声が、綾子の脳の深淵、暗闇の奥底に閉ざされていた「本当の記憶」へと届いた。


 「――が、はっ……!」


 綾子が大きく息を吸い込み、口からどす黒い胃液を吐き出した。 


 その瞬間、彼女の首筋に広がっていた曼珠沙華の痣が、みるみるうちにその赤みを失い、枯れるように消え去っていく。


 「景光、……様……?」 


 弱々しく焦点が合った綾子の瞳に、涙が滲む。


 景光は、その瞬間、自分がひどく安堵していることに気づいた。しかし、休む間は一秒もなかった。


 「次は朝葉だ。厳馬、押さえろ!」 


 「おうよ!」


 景光は残りの解毒剤を朝葉の元へと運び、同じように彼女の精神の檻を打ち砕くために手を伸ばした。


 夜明けの光が、典薬寮の格子窓から一筋、差し込んでくる。


 それは、最凶の媚薬に挑んだ男たちの、そして初めて感情を剥き出しにした天才薬師の、執念の夜が明ける瞬間だった。



第25話「命の薫香」 了

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