第24話「蜜の深淵」
蹴り開けられた扉が激しい音を立てて左右に弾け飛び、藤壺の御殿の内部が露わになった。
しかし、そこに広がっていたのは、きらびやかな宮廷の調度品ではなく、視界をねっとりと遮る「濃ピンク色の霧」に満たされた、底知れぬ深淵のような空間だった。
「――あら。まさか本当に、男の方がここまで入ってこられるなんてね」
霧の奥から、幾重にも垂れ下がった薄紫色の帳をかき分けて、如月の君が姿を現した。
その姿は、数日前に朝葉たちの前に現れた時よりも、さらに妖艶さを増していた。
肌は透き通るように白く、その瞳は怪しく濡れたような光を放っている。
彼女が手にする特製の大きな香炉からは、人間の理性を根こそぎ奪い去る「相愛の水」の原液が、凄まじい勢いで燻じられていた。
景光は一歩足を踏み入れた瞬間、全身の毛穴が収縮するほどの強烈な悪寒に襲われた。
彼の「神の鼻」が捉えたのは、これまでに嗅いだどの毒よりも濃厚で、暴力的なまでに脳の快楽中枢を刺激してくる香気だった。
薔薇の甘美さ、麝香の淫らさ、そして――脳の芯を強制的に壊死させる、あの死人花(曼珠沙華)の極毒の臭気。
それらが完璧な比率で調合され、吸い込んだ者を一瞬で「絶対的な服従」へと叩き落とす、完璧な『精神の檻』を作り出していた。
「くっ……!」
景光は咄嗟に袖で口元を覆ったが、霧は皮膚からも染み込んでくるかのように彼の神経を侵食し始める。
自ら噛み切った舌の激痛すらも、この圧倒的な濃度物質の前では、薄い膜のように掻き消されそうになっていた。
脳裏に、激しい熱情の波が押し寄せる。
衣服から漂うはずのない綾子の白梅の香りが、幻聴ならぬ「幻香」となって鼻腔の奥で狂い咲き、景光の理性をドロドロに溶かそうと誘惑してくる。
「無駄よ、天才薬師さん。お前がどんなに優れた鼻を持っていようと、この『神蜜』の中では、すべての人間が私の奴隷になるの。あのお人形になった可愛い女の子たちと同じようにね」
如月の君がクスクスと笑いながら、景光の胸元にそっと手を伸ばしてきた。
彼女の指先からは、直接原液が滴っているかのような、めまいを覚えるほどの香りが放たれている。
「お前たちの脳を狂わせ、私の足元で這いつくばらせる。そうしてこの国の中枢をすべて私の『香り』で満たした時、誰も私を裏切ることはできなくなる……! さあ、ひざまずきなさい」
「……断る、と言ったら?」
景光は激しく息を荒くしながらも、ギラついた目で如月の君を凝視した。
その瞳からは、まだ正気の光が失われてはいなかった。
「何……?」
如月の君の笑みが微かに凍りつく。
この濃度の霧の中にいて、平然と言葉を返してくる人間など、彼女の経験上、一人も存在するはずがなかった。
「お前の調合は確かに見事だ。新羅の金氏や唐の李よりも、人間の『欲』という脳の弱点を正確に突いている。……だが、完璧すぎる調合だからこそ、一箇所でも『不純物』が混ざれば、その連鎖は一瞬で瓦解する」
景光は血の滲む唇を歪め、不敵に笑った。
彼は背負っていた薬箱の底から、一本の小さな黒い薬瓶を取り出していた。
「何をする気よ……!」
如月の君が警戒して一歩退がろうとしたが、景光の手の方が早かった。
景光は瓶の栓を歯で引き抜くと、中に詰まっていた「どす黒い液体」を、如月の君が持つ香炉の中へ向かって迷いなく注ぎ込んだ。
「しまっ――」
ジュゥゥゥゥッ! と、肉を焼くような凄まじい怪音が香炉から響き渡った。
直後、部屋を満たしていた美しい濃ピンク色の霧が、まるで泥水を混ぜられたようにどす黒い紫色へと変色し、激しく泡立ち始めた。
「キャァァァッ! 何よこれ! 私の神蜜が……香りが死んでいく!?」
如月の君が悲鳴をあげて香炉を床に投げ捨てた。
景光が注ぎ込んだのは、彼が二日間寝食を忘れて研究していた、死人花の成分を強制的に凝固・拒絶させる『極悪の酸性生薬抽出液』だった。
完璧な比率で保たれていた媚薬の分子構造が、景光の調合した「不純物」によって一瞬で破壊され、理性を惑わす香気から、ただの「ただれた生臭い煙」へと成り下がったのだ。
「ゴホッ、ゴホッ! おのれ……おのれ薬師ぃ!」
霧が晴れていく密室の中、如月の君はこれまでの妖艶な美女の顔をかなぐり捨て、般若のような形相で景光を睨みつけた。
彼女は懐から、原液が詰まった最後の結晶の小瓶を取り出し、それを直接景光の顔へ叩きつけようと腕を振り上げた。
「遅い」
景光の冷徹な声と同時に、御殿の障壁がダイナミックに打ち破られた。
「そこまでだ、狐女ァ!」
地響きと共に突入してきた坂上厳馬の巨大な拳が、如月の君の腕を容赦なく薙ぎ払った。
ガラス瓶が手元から弾け飛び、空中を舞う。
「清重!」
景光の叫びに応じ、後方から滑り込んできた源清重が、空中を見事に舞った最後の原液の小瓶を、衣服の袖を使って傷一つつけずに鮮やかにキャッチした。
「確保いたしました、景光殿」
清重が静かに小瓶を景光へと手渡す。
厳馬によって床にねじ伏せられた如月の君は、「私の……私の国が……!」と絶望の叫びをあげていたが、男たちの目はすでに彼女には向いていなかった。
景光は手に入れた原液の小瓶を強く握りしめ、その匂いを一瞬だけ深く嗅いだ。
「……解毒の比率は、完全に掴んだ。厳馬、そいつを検非違使庁の地下へぶち込め。清重、典薬寮へ急ぐぞ! 二人の命のタイムリミットまで、あと数刻もない!」
黒幕を討ち果たした天才薬師は、勝利の余韻に浸る間もなく、大切な仲間たちの命を救うため、夜明けの光が差し込み始めた後宮を全力で駆け戻っていった。
第24話「蜜の深淵」 了




