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香薬奇譚〜神の鼻を持つ毒殺回避の天才薬師、宮中の陰謀をすべて嗅ぎ暴く〜  作者: 優涼


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第23話「禁忌の攻防戦」


 深い闇に包まれた後宮。その細く入り組んだ渡り廊下を、三つの影が音もなく疾走していた。


 先頭を行く源清重は、一切の無駄がない洗練された身のこなしで周囲を警戒し、その後ろを坂上厳馬が地鳴りのような気配を押し殺して追う。


そして中心には、様々な生薬の匂いを閉じ込めた木製の薬箱を背負った坂上景光がいた。


 普段ならば、華やかな香水の匂いや女房たちの艶やかな笑い声が満ちているはずの空間。


しかし今、景光の「神の鼻」が捉えているのは、ねっとりとした、頭の芯を腐らせるような桃色の媚薬の残香だけだった。


それは、目指す「藤壺の御殿」が近づくにつれて、より濃く、より息苦しいものへと変わっていく。


 「――待て。来るぞ」


 清重が鋭く囁き、右手を上げて二人を制した。


 直後、前方の大きな曲がり角から、ガチャガチャと不自然な金属音を響かせながら、十数人の衛士たちが姿を現した。


 彼らは検非違使や宮廷の警護を担う正規の兵たちのはずだった。


しかし、その様子は完全に常軌を逸している。


 月光に照らされたその顔は土色に変色し、瞳はどこまでも虚ろに開かれている。


口元からは絶え間なく涎が垂れ、誰もが如月の君が放つ最凶の媚薬――「相愛の水」の匂いに引き寄せられるように、一糸乱れぬ異様な足取りで迫ってくる。


その胸元には、綾子や若君の皮膚に浮かび上がっていたものと同じ、不気味な曼珠沙華の痣がはっきりと見えていた。


 「へっ、お出ましだな。噂の操り人形どもが」


 厳馬が大刀をゆっくりと引き抜き、獰猛な笑みを浮かべる。


 「厳馬殿、油断するな。彼らは如月の君の呪縛により、肉体の限界を強制的に引き出されている。骨が折れようが、血が吹き出そうが、こちらの息の根を止めるまで止まらんぞ」


 清重が太刀を正眼に構え、低く警告した。


 「分かってお仕置きよ。だがなぁ、痛みを忘れようが何だろうが、俺のこの大刀で叩き潰されりゃあ、動きたくても動けねえだろうが!」


 衛士たちが三人の存在を認識した瞬間、その虚ろな瞳が血走った赤へと染まった。


 「ウガアアアッ!」と、およそ人間とは思えない獣の咆哮をあげ、一斉に武器を構えて突進してくる。廊下の床板が、彼らの異常な脚力によってミシミシと悲鳴をあげた。


 「景光殿、頼む!」


 清重の叫びに応じ、景光はすでに薬箱から二つの黒い薬玉を両手に握りしめていた。


 「吸え。宮廷の垢をまとめて洗い流してやる」


 景光は迫り来る傀儡の軍勢の足元へ、迷いなく薬玉を叩きつけた。


 パシィィン! と小気味よい音が響くと同時に、周囲の空気が一瞬で「真っ白な煙」によって埋め尽くされた。 


 景光が前夜に調合した、極純の薄荷と大蒜の精油を限界まで濃縮した特製刺激香――通称『脳天穿ち(のうてんうがち)』である。


 それは、匂いというレベルを超えた、物理的な暴力だった。 


 いくら如月の君の薬で「痛覚」を失っていようとも、生物としての「呼吸器」と「嗅覚神経」までは麻痺させられない。


真っ白な煙を吸い込んだ傀儡の衛士たちは、突如として激しい拒絶反応に襲われた。


 「ガハッ!? ゴホッ、オロロロッ!」


 先頭を走っていた数人の衛士が、凄まじい勢いで涙と鼻水を噴き出し、その場に激しく四つん這いになって嘔吐を始めた。


脳の呼吸中枢が強制的にパニックを引き起こし、立っていることすら不可能になったのだ。


 「すげえな、相変わらず悪魔みたいな薬だぜ!」


 厳馬がその煙の隙間を縫うように、巨体を弾ませて突撃した。


 「おおおらぁぁッ!」


 厳馬の放った大刀の一閃が、嘔吐しつつもなお武器を振るおうとした衛士の槍を、根元から粉々に叩き折る。


間髪入れずに放たれた丸太のような蹴りが、二人の衛士をまとめて廊下の高欄ごと吹き飛ばし、下の庭へと叩き落とした。


骨が砕ける鈍い音が響くが、厳馬は容赦なく次の一歩を踏み出す。


 一方で、清重の動きはどこまでも冷徹で美しかった。


 刺激香の薄い上層の空間を跳ぶように進み、正気を失って迫る衛士たちの刃を、最小限の動きで受け流す。


そして、彼らの太刀筋の隙を突き、手首の腱や膝の裏の急所だけを正確に、電光石火の速さで切り裂いていった。


 「くっ……!」


 腱を切られた衛士たちは、痛みを感じないものの、肉体的に自立できなくなり、次々と廊下に崩れ落ちていく。


 「道が開いたぞ! 景光殿、行け!」


 清重が迫り来る残りの兵の攻撃を刀の平で受け止めながら、叫んだ。


 景光は二人の背中をすり抜け、散乱する嘔吐物と刃の嵐の中を、一瞬の躊躇もなく駆け抜けた。


 自ら噛み切った舌の痛みが、刺激香のわずかな逆流から彼の脳を護っていた。


 廊下の突き当たり、ひときわ濃厚な桃色の霧が立ち込める巨大な扉――「藤壺の御殿」の正面入り口が見えてくる。


 景光の鼻は、その扉の向こう側に、綾子と朝葉の命を奪おうとしているあの最凶の『原液』の匂いを、完全に、そして正確に捉えていた。


 「待っていろ、如月の君。お前のその腐った化けの皮、この鼻で根こそぎ剥ぎ取ってやる」


 景光は駆け込んだ勢いのまま、薬箱を抱え、藤壺の重い扉を思い切り蹴り開けた。


 中に待ち受ける、妖艶なる怪物との最終決戦の幕が、ついに上がる。



    ──第23話「禁忌の突破戦」 了──

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