第23話「男たちの逆鱗」
夜明け前の典薬寮は、死の底のような静寂に包まれていた。
調薬室の長椅子には、気絶させられた綾子と、清重によって固く縛り上げられた朝葉が横たえられている。
二人の呼吸は浅く、肌は内側から燃えるような熱を帯びていた。
時折、夢にうなされるように「景光……様……」と、その名を呼ぶ声が切なく響く。
景光はその傍らで、二人の首筋に浮き出た「曼珠沙華の痣」をじっと見つめていた。
痣の赤みは、数刻前よりも確実に濃くなっている。
毒が血流に乗り、脳の芯へと確実に歩みを進めている証拠だった。
「――二日、だな」
背後から、低く硬い声がした。
源清重が、太刀の柄をきつく握りしめたまま、景光の背中に言葉を投げかける。
その端正な顔立ちは、いつも以上の冷徹さと、底知れない怒りを秘めていた。
「ああ。如月の君が持つ最凶の『原液』、あるいは彼女の調合の出元を直接叩き潰し、その成分をこの鼻で分解しなければ、明後日の夜明けには二人の脳は完全に壊死する」
景光は立ち上がり、振り返った。
その目は血走り、自ら噛み切った舌の痛みに耐えるように、口元には固まった血の跡が残っている。
「だが、相手は藤壺の女御だ。男の我々が近づくことすら、本来なら一族郎党巻き添えの死罪に値する」
「ルールの話なら、もう耳にタコができてんだよ」
部屋の隅、影の中からぬっと現れたのは、坂上厳馬だった。
彼は愛用する大刀をギラリと抜き放ち、その刃をじっと見つめながら、獰猛な獣のように歯を剥き出しにした。
「検非違使の看板だろうが、公家の掟だろうが、知ったことか。俺をコケにした新羅の毒、そして今回は俺たちの身内を人形に変えやがった。あの藤壺の狐女の首、俺のこの大刀で叩き切ってやらなきゃ腹の虫が収まらねえ」
「厳馬殿の言う通りです」
いつもなら「待て、暴走するな」と厳馬を止めるはずの清重が、静かに、しかし明確に同意した。
「後宮への不法侵入は国家への反逆。ですが、源氏の名にかけて、私は景光殿の『鼻』を如月の君の元へ届ける。惟忠殿には、私がすべての責任を負うと文を残してきました。今夜、検非違使の精鋭から私の直属の私兵、十数名を動かします」
景光は二人を見た。
本来なら孤独に、薬草と匂いだけを頼りに生きてきた変人薬師の背後に、今や命を共有する「仲間」が揃っていた。
「……感謝はしないぞ」
「へっ、お前に感謝されたら雹が降るわ」
厳馬が笑う。
⸻
数刻後、深夜。
月が天頂に上る頃、景光、清重、厳馬の三人は、夜の御所の外壁を静かに見上げていた。
清重の私兵たちが、あらかじめ買収した門衛の手引きにより、後宮の北側にある「建礼門」の影へと音もなく滑り込む。
「藤壺の御殿の周辺には、すでに如月の君の媚薬を浴びて、まともな思考を失った『傀儡の衛士』たちが配置されているはずです」
清重が小声で告げる。
「彼らは痛覚を失い、死を恐れません。まともに戦えばこちらの消耗が激しくなる」
「なら、私の出番だな」
景光が、薬箱からいくつかの特製の薬玉を取り出した。
「これは『極純の薄荷』と『大蒜の精油』を練り込んだ、超高濃度の刺激香だ。痛覚は麻痺していても、嗅覚を通じて脳の呼吸中枢を強制的に混乱に陥らせる。吸えば、三分は涙と嘔吐が止まらなくなる」
「相変わらずえげつねえ薬を作る。最高だぜ」
厳馬がにやりと笑い、大刀を構えた。
「行くぞ。二人の命が尽きる前に、あの狐を檻から引きずり出す」
清重の合図とともに、男たちは漆黒の闇に包まれた後宮――禁忌の絶対領域へと、迷いなく飛び込んでいった。
それは、宮廷の歴史を揺るがす、天才薬師による「香りの復讐劇」の始まりだった。
第23話「男たちの逆鱗」 了




