第22話「狂おしき白梅」
深夜の典薬寮。
静まり返った調薬室で、景光は一人、行灯の薄明かりを頼りに古文書を紐解いていた。
厳馬が連れてきた傀儡の若君は、清重の見張る救護所で未だ昏睡を続けている。
死人花の毒。その進行を止める薬の比率を割り出そうと、景光の指先は墨で黒く汚れていた。
(……遅いな)
景光はふと、格子窓の外、後宮へと続く闇を見つめた。
朝葉と綾子が潜入に向かってから、すでに数刻が経過している。
いくら情報収集に時間がかかっているとはいえ、引き際の良さを知る朝葉がこれほど無警戒に長居するとは思えない。
胸の奥に、ざらりとした不快な予感が走った、その時だった。
静まり返った廊下から、衣の擦れる音が近づいてきた。
一人は、軽やかで気品のある絹の音。
もう一人は、いつも聞き慣れた、少しおぼつかない歩調の足音。
ガラリ、と調薬室の御簾が押し開けられる。
「――景光様。ただいま戻りましたわ」
最初に入ってきたのは朝葉だった。
いつもなら「大変なことが分かりましたわ!」と大袈裟に報告してくるはずの彼女が、今夜は妙に静かだった。
その瞳は潤んでおり、頬は桃色に上気している。
「景光……」
続いて入ってきた綾子が、細い声で彼の名を呼んだ。
綾子は胸元を少しはだけ、肩で息を荒くしている。
その目は焦点が合っておらず、夢遊病者のようにふらふらと景光の元へ歩み寄ってきた。
景光の「神の鼻」が、一瞬で爆発的な警告音を脳内で鳴り響かせた。
「……っ!」
強烈な、あまりにも強烈な**「蜜の匂い」**。
昼間に朝葉が持ってきた瓶の比ではない。
薔薇と麝香、そして死人花の甘美な麻痺成分が、二人の衣服、髪、そして吐息の隅々にまで完全に染み付いていた。
しかし、何より景光の心を冷えつかせたのは、綾子の衣服から漂う「白梅の香り」だった。
いつもなら心を落ち着かせるはずのその気高い香りが、最凶の媚薬と混ざり合い、人間の理性を内側からドロドロに溶かすような『淫らな凶器』へと変貌を遂げていたのだ。
「下がれ! 触るな!」
景光は椅子を蹴立てて立ち上がり、咄嗟に机の向こう側へと大きく距離を取った。
「あら、つれないことですわ、景光様……」
朝葉が、妖艶な笑みを浮かべて机を回り込んでくる。
彼女の手には、いつの間にか水の入った湯呑みが握られていた。
その水からは、どす黒いほどの桃色の煙が(常人には見えない微量なものだが)立ち上っている。
「私、気づいてしまいましたの。貴方をお慕いするこの気持ち、もう抑えられませんわ。このお水を飲んで……私だけの景光様になってくださいな」
「朝葉、正気に戻れ! お前たちは如月の君に脳を焼かれている!」
景光は叫びながら、懐から強烈な刺激臭を持つ薬草「竜脳」の粉末を掴み、朝葉の顔めがけて投げつけた。
パッ、と白い粉が舞う。
常人なら一息で涙を流してうずくまるほどの激痛を伴う刺激。
しかし、朝葉は顔をしかめることすらせず、不気味な笑みを浮かべたまま湯呑みを突き出してきた。
如月の君の薬が、彼女の「痛覚」を完全に消し去っているのだ。
「景光……」
背後から、柔らかい肉体が景光の背中にしがみついてきた。
綾子だった。彼女の細い腕が、驚くほどの怪力で景光の腰を締め上げる。
「熱いの……頭が、おかしくなりそうなの……。ねえ、私を見て。私の白梅の香り、好きって言ってくれたでしょう……?」
綾子の吐息が、景光の首筋に吹きかかる。
濃厚な媚薬と混ざり合った白梅の香りが、景光の鼻腔から直接、彼の脳の防壁を容赦なく殴りつけてきた。
(くっ……これは、まずい……!)
景光の目の前が、一瞬だけ激しく火花を散らしたように歪んだ。
彼の脳裏に、いつもは鬱陶しいとしか思っていないはずの綾子の笑顔や、朝葉の艶やかな姿が、異常なほどの色彩を持って浮かび上がる。
「このまま、すべてを投げ出して二人を抱きしめてしまえば、どれほど楽か」
――そんな、およそ景光の理性的な思考からは生まれるはずのない『獣の欲求』が、泥水のように足元から湧き上がってくる。
「が……はっ……!」
景光は自分の舌を、思い切り血が出るほどに噛み切った。
口いっぱいに広がる鉄の味と、凄まじい激痛。その痛みが、辛うじて彼の脳の芯にある「薬師の正気」を繋ぎ止める。
「俺を……誰だと思っている」
景光は血を吐き出しながら、ギラついた目で二人を睨みつけた。
「人間の欲を弄ぶだけの出来合いの毒に……私の鼻が、屈するわけがないだろう!」
景光は腰にしがみつく綾子の腕の「秘穴」へ、迷いなく指頭を突き立てた。
気絶を誘発する経穴だ。
「あ……」
綾子は短い声を残し、糸が切れた人形のように景光の背中から崩れ落ちた。
「まぁ、綾子をそんな風に扱うなんて、酷いお方」
朝葉がなおも湯呑みを迫らせる。
景光は調合台の上の、まだ完成していない死人花の解毒中の液(強烈な酸性を持つ苦い生薬の汁)を掴むと、朝葉の手元へ向かって叩きつけた。
ガシャァン! と湯呑みが砕け散り、桃色の水が床に広がる。
「清重! 厳馬! 入ってこい!」
景光が声を限りに叫ぶ。
異変を察知して外で見張っていた清重と厳馬が、即座に御簾を破って踏み込んできた。
「景光殿!? これは……!」
「うおっ、なんだこのエグい匂いは! 鼻が曲がりそうだぜ!」
「朝葉を押さえろ! 痛覚を失っている、怪我をさせずに拘束しろ!」
景光の指示に、清重が電光石火の動きで朝葉の背後に回り、その両腕を極めて無力化した。
朝葉はなおも景光を見つめながら、「景光様、景光様……」とうわ言のように呟き続けている。
景光は床に倒れた綾子を抱き起こした。
彼女の耳の裏を見ると、昏睡する若君と同じ、不気味な「花の形の痣」が微かに浮かび上がり始めていた。
「三日……いや、この濃度なら二日だ。二日以内に、如月の君の『原液』を奪って解毒剤を作らなければ、この二人も脳が腐って死ぬ」
景光は抱きしめた綾子の、乱れた白梅の髪をきつく握りしめた。
大切な仲間を、その心ごと冒涜した如月の君への、静かな、だが底知れない怒りが、薬師の目の奥で黒く燃え上がっていた。
第22話「狂おしき白梅」 了




