第21話「如月の御殿」
秋の夜風が、内裏の長い渡り廊下を吹き抜けていく。
昼間の暑さが嘘のように冷え込む中、菅原朝葉と綾子の二人は、絹の衣が擦れ合う微かな音だけを響かせながら、後宮の奥深くへと足を進めていた。
「――綾子、大丈夫? 足元が震えていますわよ」
前を歩く朝葉が、振り返らずに囁いた。
彼女は菅原の血筋という表の顔を使い、夜御殿へと向かう女房たちの列に紛れ込む手筈を整えていた。
その手には、景光から密かに渡された、あの青く染まる「特製の匂い袋」が握られている。
「う、うん……大丈夫。でも、やっぱりここから先は、清重様や厳馬様も助けに来られないと思うと……」
綾子は胸元に手を当て、自らの衣服から漂う白梅の香りを確かめるように深く息を吸った。
男たちの立ち入りが厳しく制限された後宮。
もしここで新羅の時のように監禁されれば、今度こそ誰も助けには来られない。
景光の「神の鼻」でさえ、幾重にも張られた帳と、女たちが焚き染める無数の香料の壁に阻まれるはずだった。
「安心なさいな。景光様は『危なくなったらすぐに引け』と仰いましたけれど……裏を返せば、私たちが証拠を持ち帰るのを、あの典薬寮で首を長くして待っているということですわ。あのお方の役に立てるのですもの、この程度の危険、なんてことありませんわ」
朝葉の横顔には、恐怖を塗りつぶすような強い意志――そして、景光に対する執着に似た熱が浮かんでいた。
綾子はそれを見て、胸の奥が小さくズキリと痛むのを感じた。
(朝葉様は、本当に強いな……。私なんて、景光の足を引っ張ってばかりなのに)
二人が目指すのは、新参の女御・如月の君が住まう「藤壺の御殿」の一角だった。
帝が渡られるのを待つその御殿の周辺には、他の御殿とは明らかに異なる、異様な空気が漂っていた。
「……っ、この匂い……」
綾子が咄嗟に袖で鼻を覆った。
御殿の御簾の隙間から、這い出てくるように漏れ出している香り。
それは、昼間に景光の調薬室で嗅いだ、あの桃色の媚薬の匂いそのものだった。
しかし、ここではさらに「熟成された蜜」のような、頭の芯がとろけるほどの甘美さが加わっている。
「やはりここね。行きましょう」
朝葉は迷わず、御殿の重い御簾をくぐり抜けた。
御殿の内部は、薄暗い灯台の光の中に、紫色の薄絹が幾重にも垂れ下がった、妖艶な空間だった。
香炉からは、ねっとりとした濃密な煙が絶え間なく立ち上っている。
「――どなたかしら? 私の眠りを妨げるのは」
帳の奥から、鈴を転がすような、あまりにも美しい声が響いた。
現れたのは、夜着の上に薄い絹を羽織っただけの、絶世の美女だった。
彼女こそが如月の君。その瞳は妖しく潤んでおり、その唇はまるで熟れた果実のように赤く湿っている。
朝葉は一瞬、その美しさに息を呑んだが、すぐに居住まいを正して一歩前に出た。
「如月の女御様。夜分遅くに失礼いたします。中務省の若君が市井で暴行を働き、検非違使に捕らえられました。その若君が、女御様から賜ったとされる『髪紐』を所持しておりましたの。……これに、見覚えはございませんか?」
朝葉は懐から、昼間に没収したあの薄紅色の髪紐を突きつけた。
如月の君は、その髪紐を見ると、隠そうともせずにクスクスと妖しく笑った。
「ああ、あの哀れな坊やのことね。私の『蜜』を一滴与えただけで、犬のように私の足元を舐め、私のために何でもすると誓ったわ。……それがどうしたの? 菅原の娘さん」
「やはり、貴女が宮中に媚薬を流し、公家たちを操っていたのですね! 帝にまでその毒を吸わせ、一体何を企んでいるのです!」
朝葉が激しく糾弾する。
しかし、如月の君は怯えるどころか、ゆっくりと朝葉と綾子の方へ歩み寄ってきた。彼女が動くたびに、部屋を満たす甘い香りが、まるで物理的な質量を持って二人の身体にまとわりついてくる。
「企む? 私はただ、愛されたいだけよ。この『相愛の水』はね、人間の心の奥にある『一番欲しいもの』を暴き出し、それを叶えてくれる奇跡の薬。……ねえ、あなたたちも欲しくないかしら?」
「な、何を……」
朝葉が気圧されて一歩退がろうとしたが、その時、如月の君が手にした小さな扇をパッと広げた。
扇の隙間から、目に見えるほどの「濃ピンク色の粉末」が、二人の顔めがけて鮮やかに舞い散った。
「――しまっ……!」
朝葉が袖を顔に当てたが、時すでに遅かった。
濃縮された媚薬の粉が、二人の鼻腔を直接、暴力的に突き刺した。
「あ、うあ……っ」
綾子は、その場に激しく膝をついた。
視界が真っ赤に染まり、全身の血液が沸騰したように熱くなる。心臓が早鐘を打ち、呼吸がまともにできなくなる。
(熱い……身体が、溶けちゃいそう……)
脳の奥が麻痺していく中で、綾子の頭の中に、ある「幻覚」が鮮烈に浮かび上がった。
それは、いつも冷徹で、薬のことしか見つめていないあの景光の姿だった。
幻覚の中の景光は、いつもとは全く違う、ひどく熱っぽく優しい瞳で綾子を見つめ、その細い指先で彼女の頬を愛おしそうに撫でていた。
『――綾子。私は、お前だけがいればいい。お前の白梅の香りが、私には必要なんだ』
(景光……景光、私……)
あまりの幸福感と快楽に、綾子の理性が崩壊寸前まで追い込まれる。
隣を見ると、朝葉もまた、床に伏せたままで虚ろな目をし、激しく息を乱していた。
彼女の脳裏にも、景光が自分を強く抱きしめる幻覚が、生々しく映し出されているのだろう。
「ふふふ……さあ、愛しい薬師の元へお帰りなさい」
如月の君が、二人の耳元で甘く囁いた。
「そして、その身体に染み付いた私の香りで、あの傲慢な『神の鼻』を誘惑するのよ。あの男が私の薬の奴隷になった時……この国の医学も、典薬寮も、すべて私のものになるわ」
理性を完全に奪われかけた綾子と朝葉は、操られる人形のように、ふらふらと立ち上がった。
二人の瞳からは正気の光が消え、衣服からは、如月の君と同じ、最凶の「媚薬の残り香」が、ねっとりと立ち上り始めていた――。
第21話「如月の御殿」 了




