表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
香薬奇譚〜神の鼻を持つ毒殺回避の天才薬師、宮中の陰謀をすべて嗅ぎ暴く〜  作者: 優涼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
21/29

第21話「如月の御殿」


 秋の夜風が、内裏の長い渡り廊下を吹き抜けていく。


 昼間の暑さが嘘のように冷え込む中、菅原朝葉と綾子の二人は、絹の衣が擦れ合う微かな音だけを響かせながら、後宮の奥深くへと足を進めていた。


 「――綾子、大丈夫? 足元が震えていますわよ」


 前を歩く朝葉が、振り返らずに囁いた。


 彼女は菅原の血筋という表の顔を使い、夜御殿よんべどこへと向かう女房たちの列に紛れ込む手筈を整えていた。


その手には、景光から密かに渡された、あの青く染まる「特製の匂い袋」が握られている。


 「う、うん……大丈夫。でも、やっぱりここから先は、清重様や厳馬様も助けに来られないと思うと……」


 綾子は胸元に手を当て、自らの衣服から漂う白梅の香りを確かめるように深く息を吸った。


 男たちの立ち入りが厳しく制限された後宮。


もしここで新羅の時のように監禁されれば、今度こそ誰も助けには来られない。


景光の「神の鼻」でさえ、幾重にも張られたとばりと、女たちが焚き染める無数の香料の壁に阻まれるはずだった。


 「安心なさいな。景光様は『危なくなったらすぐに引け』と仰いましたけれど……裏を返せば、私たちが証拠を持ち帰るのを、あの典薬寮で首を長くして待っているということですわ。あのお方の役に立てるのですもの、この程度の危険、なんてことありませんわ」


 朝葉の横顔には、恐怖を塗りつぶすような強い意志――そして、景光に対する執着に似た熱が浮かんでいた。


 綾子はそれを見て、胸の奥が小さくズキリと痛むのを感じた。


 (朝葉様は、本当に強いな……。私なんて、景光の足を引っ張ってばかりなのに)


 二人が目指すのは、新参の女御・如月の君が住まう「藤壺ふじつぼの御殿」の一角だった。


 帝が渡られるのを待つその御殿の周辺には、他の御殿とは明らかに異なる、異様な空気が漂っていた。


 「……っ、この匂い……」


 綾子が咄嗟に袖で鼻を覆った。


 御殿の御簾みすの隙間から、這い出てくるように漏れ出している香り。


それは、昼間に景光の調薬室で嗅いだ、あの桃色の媚薬の匂いそのものだった。


しかし、ここではさらに「熟成された蜜」のような、頭の芯がとろけるほどの甘美さが加わっている。


 「やはりここね。行きましょう」


 朝葉は迷わず、御殿の重い御簾をくぐり抜けた。



 御殿の内部は、薄暗い灯台の光の中に、紫色の薄絹が幾重にも垂れ下がった、妖艶な空間だった。


 香炉からは、ねっとりとした濃密な煙が絶え間なく立ち上っている。


 「――どなたかしら? 私の眠りを妨げるのは」


 帳の奥から、鈴を転がすような、あまりにも美しい声が響いた。


 現れたのは、夜着の上に薄い絹を羽織っただけの、絶世の美女だった。


彼女こそが如月の君。その瞳は妖しく潤んでおり、その唇はまるで熟れた果実のように赤く湿っている。


 朝葉は一瞬、その美しさに息を呑んだが、すぐに居住まいを正して一歩前に出た。


 「如月の女御様。夜分遅くに失礼いたします。中務省の若君が市井で暴行を働き、検非違使に捕らえられました。その若君が、女御様から賜ったとされる『髪紐』を所持しておりましたの。……これに、見覚えはございませんか?」


 朝葉は懐から、昼間に没収したあの薄紅色の髪紐を突きつけた。


 如月の君は、その髪紐を見ると、隠そうともせずにクスクスと妖しく笑った。


 「ああ、あの哀れな坊やのことね。私の『蜜』を一滴与えただけで、犬のように私の足元を舐め、私のために何でもすると誓ったわ。……それがどうしたの? 菅原の娘さん」


 「やはり、貴女が宮中に媚薬を流し、公家たちを操っていたのですね! 帝にまでその毒を吸わせ、一体何を企んでいるのです!」


 朝葉が激しく糾弾する。


 しかし、如月の君は怯えるどころか、ゆっくりと朝葉と綾子の方へ歩み寄ってきた。彼女が動くたびに、部屋を満たす甘い香りが、まるで物理的な質量を持って二人の身体にまとわりついてくる。


 「企む? 私はただ、愛されたいだけよ。この『相愛の水』はね、人間の心の奥にある『一番欲しいもの』を暴き出し、それを叶えてくれる奇跡の薬。……ねえ、あなたたちも欲しくないかしら?」


 「な、何を……」


 朝葉が気圧されて一歩退がろうとしたが、その時、如月の君が手にした小さな扇をパッと広げた。


 扇の隙間から、目に見えるほどの「濃ピンク色の粉末」が、二人の顔めがけて鮮やかに舞い散った。


 「――しまっ……!」


 朝葉が袖を顔に当てたが、時すでに遅かった。


 濃縮された媚薬の粉が、二人の鼻腔を直接、暴力的に突き刺した。


 「あ、うあ……っ」


 綾子は、その場に激しく膝をついた。


 視界が真っ赤に染まり、全身の血液が沸騰したように熱くなる。心臓が早鐘を打ち、呼吸がまともにできなくなる。


 (熱い……身体が、溶けちゃいそう……)


 脳の奥が麻痺していく中で、綾子の頭の中に、ある「幻覚」が鮮烈に浮かび上がった。


 それは、いつも冷徹で、薬のことしか見つめていないあの景光の姿だった。


 幻覚の中の景光は、いつもとは全く違う、ひどく熱っぽく優しい瞳で綾子を見つめ、その細い指先で彼女の頬を愛おしそうに撫でていた。


 『――綾子。私は、お前だけがいればいい。お前の白梅の香りが、私には必要なんだ』


 (景光……景光、私……)


 あまりの幸福感と快楽に、綾子の理性が崩壊寸前まで追い込まれる。


 隣を見ると、朝葉もまた、床に伏せたままで虚ろな目をし、激しく息を乱していた。


彼女の脳裏にも、景光が自分を強く抱きしめる幻覚が、生々しく映し出されているのだろう。


 「ふふふ……さあ、愛しい薬師の元へお帰りなさい」


 如月の君が、二人の耳元で甘く囁いた。


 「そして、その身体に染み付いた私の香りで、あの傲慢な『神の鼻』を誘惑するのよ。あの男が私の薬の奴隷になった時……この国の医学も、典薬寮も、すべて私のものになるわ」


 理性を完全に奪われかけた綾子と朝葉は、操られる人形のように、ふらふらと立ち上がった。


 二人の瞳からは正気の光が消え、衣服からは、如月の君と同じ、最凶の「媚薬の残り香」が、ねっとりと立ち上り始めていた――。


           第21話「如月の御殿」 了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ