第20話「現身の傀儡」
いつも『香薬奇譚』をお読みいただき、本当にありがとうございます!
第三章「媚薬編」、いよいよ第二話(第二十話)の幕開けです。
今回は文字数を大幅にボリュームアップし、情景やキャラクターたちの細やかな心理描写、そして緊迫のバトルシーンまでじっくりと濃厚にお届けします。
前話で朝葉が持ち込んだ、人間の理性を奪う桃色の媚薬。
その流行の裏で、前衛を担う検非違使・坂上厳馬が京の裏路地で遭遇した「異様な光景」とは――。
景光の元へ担ぎ込まれる新たな犠牲者と、宮廷を揺るがす不穏な足音をお楽しみください!
月が薄雲に隠れ、墨を流したような闇が京の市街を包み込む夜。
普段ならば静寂が支配するはずの、鴨川近辺のうらぶれた下魚棚の裏路地から、獣のような荒い息遣いが響いていた。
「――おい、待ちやがれと言ったのが聞こえなかったか、この足の早いドブネズミめ」
地響きのような低い声と共に、暗闇の奥から一人の巨漢が姿を現した。
検非違使の執事、坂上厳馬である。
肩に担いだ無骨な大刀の鞘が、月光を浴びて鈍く光っている。
彼の視線の先には、襤褸をまとった小柄な薬売りの男が、恐怖に顔を歪めて壁際に追い詰められていた。
「ひ、ひぃっ……! 検非違使の荒馬……!」
「へっ、俺の顔を知ってるなら話が早い。おい、そこの荷袋の中に隠してる、あの桃色の怪しい水を全部ここに吐き出しな。あれのせいで、宮中の世間知らずな若君どもが何人も頭を狂わせて、身代を潰しかけてんだよ」
厳馬が威圧するように一歩踏み出した、その時だった。
薬売りの男の背後の闇から、ぬっと別の「人影」が音もなく立ち上がった。
「……あ?」
厳馬が眉をひそめる。
現れたのは、仕立ての良い狩衣をまとった、どこからどう見ても高貴な身分の「若君」だった。しかし、その様子は一様ではない。
衣服は泥に汚れ、何よりその目は完全に焦点が合っておらず、虚ろに開かれた瞳からは大粒の涙と涎が垂れ流されていた。
「邪魔、するな……。あのお方の……あのお方の蜜を……お前が奪うのか……!」
若君はそう呟くと、腰の飾り太刀を抜いた。その構えは無茶苦茶だったが、全身から立ち上る「殺気」だけは異常なほどに膨れ上がっている。
「おいおい、冗談だろ? そいつはどこぞの公家の上等な坊んちじゃねえか。なんでそんな奴が、薬売りの盾になって――」
厳馬の言葉が終わるより早く、若君が弾かれたように突進してきた。
その速度は、人間の肉体の限界を完全に無視したものだった。
骨が軋むような音を立てながら、若君は凄まじい怪力で太刀を振り下ろしてくる。
キィィィン――!
厳馬が咄嗟に大刀の鞘で受け止めるが、強烈な衝撃が彼の腕を痺れさせた。
唐の毒煙を耐え抜いた厳馬の剛腕を、ひ弱なはずの公家の若君が力任せに押し込んでいるのだ。
「ガアアアアッ! 蜜を! 蜜をくれぇぇ!」
若君の口から漏れたのは、もはや人間の言葉ではなく、飢えた獣の咆哮だった。
その皮膚の奥の血管が、不気味に黒く浮き上がっている。
(こいつ、正気じゃねえ……! 唐の毒の時とも違う、まるで命を前借りして動いてるような気味の悪さだ!)
厳馬は舌打ちをすると、大刀の柄で若君のみぞおちを容赦なく強打した。
ドッ、と鈍い音が響き、若君は白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
しかし、その隙に薬売りの男は闇の奥へと完全に姿を消していた。
「ちっ……逃がしたか。おい、坊んち、しっかりしやがれ!」
倒れた若君の胸元から、ふわりと、あまりにも甘美でねっとりとした香りが漂ってきた。
薔薇と麝香、そして――脳の髄を痺れさせる、あの桃色の媚薬の匂いだった。
「――ひどい熱だな。五臓の脈が狂ったように暴走している」
深夜の典薬寮。
担ぎ込まれた若君の首筋に指を当て、景光は冷徹な声で告げた。
部屋には、厳馬に叩き起こされた清重、そして寝着の上に羽織を引っ掛けただけの綾子と朝葉が集まっていた。
景光はゆっくりと屈み込み、昏睡する若君の口元、そして衣服の匂いを深く吸い込んだ。
「景光、何が分かる?」
清重が刀の柄に手をかけたまま、硬い声で尋ねる。
「前話で朝葉が持ってきた『相愛の水』……その成分が、この男の血肉にまで完全に染み付いている。だが、市井に流れているものより遥かに濃度が高い。奴らはこの薬を使い、ただの男女の情を操るだけでなく、人間の『痛覚』と『恐怖』の感情を完全に消し去り、命令に忠実な兵隊――傀儡を作り出しているんだ」
「傀儡、ですか……」
朝葉が顔を青くした。
「この若君は、中務省の有力な公卿のご子息ですわ。もし、このような高貴な血筋の者たちが次々と薬の奴隷になれば、宮中の命令系統は一瞬で麻痺します」
「ああ。そして、これほど精巧な精神破壊の薬、ただの市井の薬売りが作れるはずもない」
景光は若君の胸元を開いた。
その皮膚、心臓の真上のあたりに、不気味な「花の形をした痣」が浮かび上がっているのを見落とさなかった。
「……曼珠沙華。死人花の痣だ。奴らは、この毒草の根から抽出した極毒を、脳を狂わせる甘い香料で包み込んでいたんだ」
「そんな……そんな毒が体に入っていたら、この若君はどうなってしまうの?」
綾子が悲痛な声をあげ、若君の額の手拭いを替える。
「三日と持たずに脳の芯が腐り、狂い死ぬだろうな」
景光は吐き捨てるように言った。
「だが、この痣の形、そして調合の『癖』……新羅の金氏も、唐の李もすでに捕らえたはずだ。これほどの技術を持つ者が、まだこの京に潜んでいるというのか」
重苦しい沈黙が調薬室を支配する中、朝葉がふと、昏睡する若君の手元を見つめた。
その手には、一本の薄紅色の美しい髪紐が固く握りしめられていた。
その髪紐からは、若君の体臭を上書きするほどの、あの強烈な媚薬の香りが放たれている。
「この髪紐……見覚えがありますわ」
朝葉の目が、鋭く見開かれた。
「今、後宮で急速に帝の寵愛を受け始めている、新参の女御――『如月の君』が好んで身につけている織物ですわ。もしや、彼女がこの若君を操り、そして帝をも……」
「ほう、面白くなってきやがったな」
厳馬が拳を鳴らし、獰猛に笑う。
「その『如月』とかいう女の御殿に踏み込んで、薬の壺ごとぶっ壊してやりゃあいいんだろ?」
「待て、厳馬殿。相手は帝の寵愛を受ける女御だ。確たる証拠もなしに動けば、今度こそ我々の首が飛ぶ」
清重が厳しくそれを制する。
景光は髪紐を指先でつまみ、その匂いをもう一度、深く脳裏に刻み込んだ。
「証拠なら、この鼻がいくらでも見つけてやる。だが、今回の敵は人間の『欲』を突いてくる。一度でもその香りに魅了されれば、清重、お前であっても刃を向ける先を失うぞ」
景光の言葉に、清重は無言で顎を引いた。
「綾子、朝葉。お前たちも、あの『如月の君』の周囲には近づくな。女の執念とこの媚薬が混ざり合えば、どんな解毒剤も追いつかない怪物が生まれる」
「……はい」
二人は同時にうなずいた。
しかし、調薬室を後にする際、朝葉と綾子の視線が、一瞬だけ交錯した。
朝葉の瞳には、危険な陰謀への好奇心と――それ以上に、景光が自分たちの身を「案じた」ことへの、小さな、だが確かな熱が宿っていた。
そして綾子もまた、自分の胸元に忍ばせた、あの白梅の香合をそっと握りしめていた。
(景光を落とす薬……)
もし、その薬の「安全な中和方法」を景光が見つけたなら。
そして、その香りを、自分の白梅の香りと混ぜ合わせることができたなら。
陰謀の影が宮中を覆い尽くそうとする中、理性を狂わせる「蜜の雫」は、確実に彼ら自身の心の奥底にも、甘い毒を滴らせ始めていた。
第20話「現身の傀儡」 了
第二十話、お読みいただきありがとうございました!
文字数を大幅に増やし、媚薬によって肉体の限界を超えた「傀儡」となった若君との戦闘、そして後宮の新たな容疑者「如月の君」の存在まで、一気にお届けいたしました。
人間の理性を奪い、命令に従わせる最凶の媚薬。
そして、景光に少しでも近づきたいと願う綾子と朝葉の心理にも、少しずつその影響が出始めています。
次回、第二十一話(第三章・第三話)では、景光たちがついに後宮の「如月の君」の御殿へと調査のメスを入れます。しかし、そこで待ち受けていたのは、想像を超える『香りの罠』でした。
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