第19話「蜜の雫」
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サブタイトルを『〜神の鼻を持つ毒殺回避的天才薬師、宮中の陰謀をすべて嗅ぎ暴く〜』としてお送りする『香薬奇譚』、いよいよ待望の「第三章」が開幕します!
今回のテーマは、人間の理性を惑わす【媚薬】。
平穏を取り戻したはずの京の街、そして宮中に、一滴で心も身体も狂わせる不穏な薬が蔓延し始めます。
いつもより一話の描写を濃厚に、じっくりと張り巡らされる陰謀の糸を描いていきます。
景光の「鼻」が次に挑む、甘く危険な謎解きをどうぞお楽しみください!
秋の足音が近づく京の街は、どこか浮ついた熱を帯びていた。
市井の噂を運んでくる菅原朝葉が、典薬寮の調薬室に滑り込んできたのは、西日が美しく格子窓を染める刻限のことだった。
「――景光様。大変なものが流行り始めておりますわ」
朝葉は周囲の目を気にするように御簾をきつく閉めると、懐から小さな薄紅色のガラス瓶を取り出した。
ガラスは、日の光を浴びて妖しく揺らめく、淡い桃色の液体を満たしている。
「何だ、それは」
景光はすり鉢の手を止めず、眉をひそめて一瞥した。
「市井の香煎屋や薬売りの間で、密かに取引されている『相愛の水』……要するに、殿方と女子の情を爆発的に燃え上がらせる【媚薬】ですの。最初は花街の遊女たちが客を繋ぎ止めるために使っていたようなのですが、ここ数日、それが恐ろしい速さで、宮中の女房や若い公家たちの間にまで広がっているのです」
「ふん、下らん。ただの気付け薬の類か、あるいは酒に幻覚剤でも混ぜたものだろう」
冷淡に言い放つ景光の隣で、干した薬草の仕分けをしていた綾子が、興味深そうに首を傾げた。
「でも朝葉様、宮中で流行っているって……誰か困っている人でもいるの?」
「ええ、それが……」
朝葉は声をさらに潜めた。
「ある有力な権力者のお身内である若い若君が、この薬を飲まされて以来、ある特定の女房の言うことしか聞かなくなり、家財を注ぎ込んで正気を失いかけているとか。さらに、後宮でも、この水を一滴垂らした香を焚き、帝の寵愛を強引に惹きつけようとする不穏な動きが噂されているのですわ」
景光はすり鉢を置くと、朝葉の手にあるガラス瓶を奪い取るように掴んだ。
栓を引き抜いた瞬間、調薬室の空気が一変する。
「……っ!」
景光の「神の鼻」が、激しく危険信号を発した。
それは、薔薇や麝香といった甘美な香りを限界まで濃縮したような、脳の奥の『本能』を直接鷲掴みにしてくる匂いだった。
だが、景光の鼻はその奥底に、人間の理性を強引に麻痺させ、依存性を生み出す「ある禁忌の毒草」の腐ったような残臭を嗅ぎつけた。
「ただの媚薬ではない。これは……脳を破壊する劇薬だ。一度でも口にすれば、その『匂い』を発する者に絶対的な服従を誓うようになる、精神の奴隷化の薬だ」
「そんな……そんな恐ろしいものが、宮中に?」
綾子が怯えたように声を漏らす。
「それだけではありませんわ」
朝葉が、どこか妖艶な笑みを浮かべて景光の顔を覗き込んだ。
「この薬、ほんの一滴で、どれだけ冷徹で偏屈な殿方でも、目の前の女子に生涯の愛を誓うようになるとか。……ねえ、景光様? もしこれを、貴方のお茶に混ぜたら、少しは私に優しい言葉をかけてくださるかしら?」
「冗談でもつまらん。その前に、お前の胃袋をすべて解毒剤で洗い流してやる」
「まぁ、相変わらずつれないお方」
朝葉はクスクスと笑うが、その目はどこか真剣だった。
朝葉が去った後、調薬室には奇妙な沈黙が流れた。
景光は没頭するように別の調合を始めたが、綾子は手元の薬草を見つめたまま、微かに顔を赤らめていた。
(一滴で、生涯の愛を……)
綾子は、いつも自分の衣服から漂う「白梅の香り」を思い出す。
景光は自分の香りを「相殺の鍵」として認めてくれたが、それはあくまで薬師としての信頼だ。もし、あの桃色の液体が本物なら……。
景光を落とす、などという大それたことは考えていない。
ただ、いつもぶっきらぼうで、薬のことしか頭にない幼馴染が、ほんの少しでも自分だけを特別に見てくれたなら――そんな甘い妄想が、綾子の胸をかすめた。
しかし、二人はまだ知らなかった。
その「媚薬」の流行の裏には、物部、新羅、そして唐の残党すらをも巻き込む、宮中の権力図を完全に塗り替えるための、冷徹な『巨大な陰謀』が蠢いているということを。
その夜、検非違使庁の裏路地。
完全復活を遂げた坂上厳馬が、不審な薬売りを捕らえようと踏み込んだが、そこで彼が見たのは、これまでとは全く異なる「宮廷の闇」だった――。
第19話「蜜の雫」 了
第三章、ついに開幕いたしました!
今回はいつもの陰謀劇にプラスして、綾子や朝葉の「景光への秘めたる想い」が、媚薬というテーマを通して少し妖しく、そしてコミカルに交錯していきます。
しかし、景光の鼻が察知した通り、この薬の裏には「精神の奴隷化」という恐ろしい闇が隠されています。
全10話で駆け抜けるこの第三章、次回は検非違使の厳馬が現場で掴んだ「最初の犠牲者」、そして宮中へと浸食する媚薬の恐怖が描かれます。
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