第27話「千年の風、白梅の香」
宮廷の空は、おぞましい桃色の濁流に支配されていた。
風下から押し寄せる甘美極まりない香気は、吸い込んだ衛士や公家たちの理性を次々と内側から焼き尽くし、獣のような狂戦士へと変えていく。
かつてない規模のパンデミック。
宮中は阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
「――急げ! 奴らを豊楽殿に近づけるな!」
清重の鋭い怒号が響く。
豊楽殿へ続く長大な回廊。
そこへ、虚ろな目で大刀を構えた十数人の傀儡の衛士たちが不気味な足取りで迫っていた。
「ここは俺と清重で食い止める! 薬師、お前らは早く奥へ行けッ!」
厳馬が咆哮し、愛用の大刀の背で、突進してきた傀儡の衛士を力任せに叩き伏せる。
痛覚を失った狂戦士たちを相手に、清重もまた、峰打ちと巧みな足捌きを駆使して、命を奪うことなく無力化していく。
だが、数が多い。回廊の床は暴徒たちの足音で激しく震えていた。
「恩に着る!」
景光は叫び、綾子と朝葉の細い手をそれぞれ強く引いて、回廊の奥へと疾走した。
二人の手を握る景光の掌には、かつてないほど熱い汗が滲んでいる。
だが、その瞳には一厘の迷いもなかった。
「こちらですわ!」
朝葉が先頭に立ち、宮中の複雑な隠し通路の扉を次々と開けていく。
彼女の情報網が、暴徒の波を完璧に避ける最短ルートを導き出していた。
そしてついに、三人は豊楽殿の広大な中庭へと辿り着いた。
そこには、かつて綾子の父が疫病を祓うために設計したという、大人の背丈を遥かに超える巨大な青銅製の「大香炉」が、沈黙を保ったまま鎮座していた。
「綾子、起動の手筈は!」
「大香炉の底にある九つの気門を開けて、北風を取り込むの! でも、そのためには……これが必要よ!」
綾子が懐から、古びた、しかし美しく磨かれた鉄製の鍵を取り出した。
香道の名門に伝わる、大香炉を起動するための秘鍵。彼女が鍵を香炉の心臓部へと差し込み、両手で力強く回すと、ゴゴゴ……と地鳴りのような音を立てて、青銅の巨体が目覚め始めた。
「朝葉、炭を! 最高温度まで一気に上げる!」
「任せなさいな!」
朝葉が用意していた特殊な揮発油と備長炭を香炉の底へと投げ込み、火を放つ。
瞬時に、真っ赤な焔が大香炉の内部を包み込んだ。
「景光、準備はいい!?」
綾子が叫びながら、己の全ての持ち金と技術をはたいて集めた「極上の白梅の香粉」を、すり鉢の上へと広げた。
「ああ。これで、如月の君の『神蜜』の構造を、京の空ごと完全に分解する」
景光は手に入れたばかりの、如月の君の「最凶の原液」をすり鉢の中央へと垂らした。
どす黒い桃色の液体が、白梅の粉と混ざり合う。
通常なら、ここで再び最悪の媚薬が完成するはずだった。
「白梅の比率は三、竜脳を一、そして――冬虫夏草を五厘!」
景光の指先が、神業のような速度と正確さで生薬を配合していく。
彼自身の「神の鼻」が、香炉の熱気、現在の北風の強さ、そして上空の湿度のすべてをリアルタイムで計算し、調合比率をミリ単位で微調整していた。
「――混ぜろ、綾子!」
「はいっ!」
二人の手が、一つのすり鉢の上で重なり合う。
その瞬間、景光の脳裏に、かつて父たちが唐の李の陰謀を阻んだという十五年前の残像が重なった。
今、彼らは父たちの世代を超え、新たな時代を自分たちの手で切り拓こうとしていた。
「完成だ……! いけぇッ!」
景光は練り上げられた、強烈な青みを帯びた白梅の薬塊を、真っ赤に燃え盛る大香炉の最上部へと一気に放り込んだ。
――ズドォォォォンッ!!
大香炉から、天を突くような「純白の煙の柱」が爆発的に立ち上った。
それは、どこまでも清らかで、凛とした、魂の奥底まで洗い流すような白梅の香りだった。
ちょうどその時、宮廷の北西から、冷たく強い秋の北風――「千年の風」が吹き抜けた。
大香炉の気門から取り込まれた北風は、純白の白梅の煙を乗せて、瞬時に宮廷全体、そして京の市街全域へと、怒涛の勢いで拡散していった。
「……あ?」
回廊で狂乱の衛士たちと戦っていた厳馬が、思わず大刀を止めて空を見上げた。
鼻腔をくすぐる、あまりにも優しく、涼やかな白梅の匂い。
「ははっ……やるじゃねえか、薬師」
厳馬が笑う。
その煙を吸い込んだ傀儡の衛士たちは、一瞬だけ激しく身震いすると、まるで毒気が抜けたように、その場にばたばたと崩れ落ち、泥のような深い眠りへと落ちていった。
後宮の奥深く、紫宸殿の前で帝の御簾へと迫っていた暴徒たちも、京の路地裏で狂気に悶えていた人々も、その白梅の風を胸いっぱいに吸い込んだ瞬間、一様に涙を流し、自らの正気を取り戻していった。
空を覆っていたどす黒い桃色の霧が、白梅の純白の煙によって、みるみるうちに浄化され、秋の青空がその姿を現していく。
⸻
豊楽殿の中庭。
大香炉から立ち上る煙を見上げながら、景光、綾子、朝葉の三人は、その場に座り込んでいた。
回廊での激闘を終えた清重と厳馬も、満身創痍ながらも晴れやかな顔で合流する。
「終わったな……」
景光がポツリと呟いた。
その首元を通り抜ける秋風は、ひどく心地よかった。
「ええ。本当に、終わったのね……」
綾子が、そっと景光の隣に腰を下ろした。彼女の肩はまだ微かに震えていたが、その表情は、これまでで最も美しく輝いていた。
景光はふと、隣の綾子を見つめた。
今回の媚薬の一件で、彼女が自分に対して抱いている「本当の想い」の断片を、彼は嫌というほど突きつけられた。
いつも鬱陶しがっていた幼馴染。だが、彼女の白梅の香りがなければ、自分はとうに如月の君の毒煙に敗れていただろう。
「……綾子」
「なぁに、景光?」
「お前の白梅の香り……。その、悪くなかったぞ」
景光が、ぷいっと顔を背けながら、不器用極まりない口調で言った。
綾子は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに顔を真っ赤に染めて、この上なく嬉しそうに微笑んだ。
「もう、相変わらず一言多いんだから!」
「あらあら、随分と熱いことですわね。私を差し置いて、なんだか良い雰囲気に」
朝葉が、いつもの妖艶な笑みを浮かべて二人の間に割り込んできた。
彼女は景光の腕を強引に抱きしめると、耳元で悪戯っぽく囁いた。
「ねえ、景光様? 今回のことで、私の心にもかなり強力な『景光様への媚薬』が残ってしまいましたの。……いつか、解毒してくださるかしら?」
「お前のはただの我がままだ。解毒の必要はない」
「まぁ、つれないお方!」
朝葉がクスクスと笑い、綾子が「ちょっと、朝葉様! 景光から離れてください!」と頬を膨らませる。
その騒がしい光景を見ながら、厳馬は「がはは!」と豪快に笑い、清重は静かに微笑んで太刀を鞘に収めた。
京を揺るがした最凶の媚薬は、千年の風と白梅の香りによって、完全に消え去った。
神の鼻を持つ天才薬師と、彼を支える頼もしい仲間たち。
彼らの調和するそれぞれの香りは、今日もまた、この美しくも混沌とした平安の宮廷を、優しく包み込んでいくのだった。
──平安香薬奇譚「神の鼻を持つ毒殺回避の天才薬師、宮中の陰謀をすべて嗅ぎ暴く」
第三章・完──




