世界のテクスチャが剥がれる音
「……倫? 私の顔、何かついてる?」
凛が小首をかしげる。その動作に合わせて、彼女の輪郭が一瞬だけ、古いテレビの砂嵐のようにザラついた。
俺は息を呑み、必死に動悸を抑えながら首を振った。
「いや……なんでもない。ちょっと、日差しが強すぎただけだ」
嘘だ。日差しのせいなんかじゃない。
俺のポケットにある銀色の筐体――。こいつが「巻き戻し」を実行した結果、この世界のどこかに致命的なエラーを書き込んでしまったのだ。
サークルの拠点であるガレージに戻ると、圭は相変わらず自作PCのファンを唸らせながら、ログの解析に没頭していた。
「おい、圭。少し聞きたいんだが……」
「なんだよ、作業中だぞ。……って、倫、お前その顔どうした。幽霊でも見たような面して」
俺は震える手で、ポケットからあのストップウォッチを取り出し、作業台に置いた。
「これを使った。……そしたら、世界が少しだけ変なんだ」
圭は眉をひそめ、無造作にデバイスを手に取ろうとした。
だが、その指が筐体に触れる直前、パチリと乾いた放電音が響く。
「……痛っ! なんだよ、静電気か?」
圭が指先を振る。だが、俺の目にははっきりと見えた。
圭の指先が触れた瞬間、銀色の筐体から青いノイズが走り、机の上のネジやハンダごての「解像度」が一瞬だけガタガタに低下したのを。
「圭、今の見えなかったか? 机の端が……ドットが粗くなったみたいに……」
「はあ? 何言ってんだ。徹夜のしすぎで脳みそのレンダリングが追いついてないんじゃないか?」
圭は本気で呆れている。どうやら、この「バグ」を視認できるのは、デバイスの所有者である俺だけのらしい。
「そういえば」と圭がキーボードを叩きながら続けた。「涼から連絡来てたぞ。最近ちょっと様子がおかしいって瑠花が心配してたけど、倫は何か知ってるか?」
俺は首を振った。早坂涼。同じ学校の、どこか危うい空気を纏った男だ。最近、確かに顔を見ていない気がする。
「……俺も、ちゃんと連絡取ってなかったな」
「まあ、あいつのことだから大丈夫だろ」
圭は軽く言ったが、俺にはその言葉が、どこか空虚に聞こえた。
俺はガレージの隅で、一人静かに基板を磨いている瑠花に視線を向けた。
彼女は俺と目が合うと、いつも通り感情の読めない瞳でじっとこちらを見つめ、それから短く言った。
「……それ、熱い。倫くん、気をつけて」
「熱い?」
俺が聞き返すと、彼女は自分の右手の指先を、俺のポケットがあった位置に向けて指差した。
「そこだけ、世界の『整合性』が燃えてる。使いすぎると……たぶん、取り返しがつかなくなる」
瑠花の言葉は、いつだって技術的な根拠がない。けれど、彼女の感覚は時として、圭の精密なプログラムよりも正確に真実を射抜く。
俺は再び、銀色の筐体を握りしめた。
デバイスは、確かに微かな熱を帯びている。まるで、世界を無理やり書き換えたことへの、物理的な抵抗のように。
その時、スマホが震えた。凛からのメッセージだ。
『さっきはごめんね。でも、助けてくれてありがとう。明日、お礼にアイス奢らせて!』
画面に表示された彼女のアイコン。その笑顔の端が、一瞬だけ、デジタルノイズに塗りつぶされた気がした。
俺は「ああ」とだけ返信し、ガレージの壁に背を預けた。
救ったはずの命。だが、その代償として、俺はこの世界の「解像度」を少しずつ削り落としている。
次のループが必要になった時、果たしてこの世界は、原型を留めていられるのだろうか。
耳の奥で、キーンという高い電子音が、世界のテクスチャが剥がれる音のように鳴り続けていた。




