「模倣の檻」
雨脚は弱まるどころか、叩きつけるような激しさを増していた。
ミニバンの運転席で、翔太は凍りついていた。バックミラーに映る光景は、もはや現実のものとは思えない。フロントガラスの亀裂の向こう、怪物が陽菜の声で自分の名を呼んでいる。
「……ショウタ……?」
その声は、スマホのスピーカー越しに聞いていた陽菜の、あの少し鼻にかかった甘い響きを完璧に再現していた。機械的な模倣ではない。怪物は、陽菜という人間そのものを咀嚼し、声として吐き出しているようだった。
「……っ、あああ!!」
翔太は叫びながら、車のキーを回した。
キュルルルッ、キュルルルッ……。
セルモーターの虚しい音が響く。左足がガタガタと震え、クラッチの重みが鉄の塊のように感じられた。
「頼む……動け……動いてくれよ!!」
半クラッチを探り、アクセルを僅かに踏み込む。ガクン、と車体が前に揺れた。
(いける……!)
希望が脳裏をよぎった瞬間、再びエンジンが沈黙した。エンスト。
絶望が、冷たい水のように翔太の全身を浸していく。
怪物は、焦る様子もなくゆっくりと歩を進めてきた。
その手には、巨大な裁断バサミ。滴る血が雨に洗われ、黒い筋となってアスファルトに流れていく。
怪物はミニバンのサイドに回り込み、運転席の窓ガラスにその長い指を添えた。
カリ、カリカリ……。
爪がガラスを引っ掻く、嫌な音が車内に響く。
「……ネエ、ショウタ。ナゼ……ニゲルノ?」
陽菜の声だ。だが、その言葉の後ろには、何千もの悲鳴を押し潰したような、あの重低音のノイズが混じっている。
「やめろ……来るな……来ないでくれ……」
翔太は助手席の方へ体を倒し、怪物から距離を取ろうとした。
その時、怪物の後ろで何かが動くのが見えた。さっきユータを入れた麻袋は、まだ道路に置いてあった。
その麻袋が激しく蠢いている。
「……ガハッ……ア……」
袋の口から、漏れ出たのはユータの声だった。まだ生きている。彼は袋の中で、自分の死を待つ時間の恐怖にのたうち回っているのだ。
怪物は、翔太を見つめたまま、空いている左手を無造作に後ろへ伸ばした。
そして、まだ動いているユータの入った袋を、ハサミの先で軽く突いた。
グチャッ。
嫌な肉の音がし、袋の動きが止まった。
そして、怪物は翔太の車を覗き込む。
「……ショウタ。……イッショニ、イコウ?」
陽菜の声で誘いながら、怪物は巨大なハサミを開いた。
シャキィィィィィィン。
冷たい金属音が雨音を切り裂く。
怪物は一歩下がると、躊躇なくその剛脚を振り抜いた。
――ガドォォォンッ!
鼓膜を震わせるほどの轟音。
逃げ場のない陽菜の目の前で、サイドドアがくの字にへこむ。
続けざまに放たれた一撃。
――ベキィッ!
鉄板が悲鳴を上げ、窓枠が歪む。事故現場の残骸さながらに、ドアは原型を留めないほどに変形した。
その時だった。
遠く、山道の入り口付近から、新たな光が差し込んだ。
一台の乗用車のヘッドライト。
車が近づいてくる、あの車種は――それは紛れもなく、陽菜の車だった。
彼女の車は、GPSが示す地点——まさにこの地獄の入り口に向かって、迷いなく進んできている。
(陽菜……陽菜、来ちゃダメだ! 逃げろ!!)
翔太は窓を叩こうとした。だが、怪物の目が、そのライトの方を向いた。
帽子の影から覗く、獲物を見つけた獣の目が、爛々と輝く。
怪物は、ミニバンから少し離れた。
そして、近づいてくる光に向かって、ゆっくりと、だが確実な足取りで歩き出した。
「……マッテテ、ハナ」
今度は、翔太の声で。
怪物は、さっきまで翔太が叫んでいた絶望のトーンを、その喉で完璧に再現してみせた。
翔太は震える手で、ドアを開けようとしたが、ドアの歪みで開かない。
窓を開けようとした。だが、パワーウィンドウのスイッチは、エンジンがかかっていない車内では何の反応も示さない。
陽菜の車が、すぐそこまで来ている。
彼女は、翔太の車を見つけ、安堵して車を止めるだろう。
そして、車を降りた瞬間、そこに立つ“翔太の声で喋る死神”と対面することになる。
「陽菜……陽菜!!」
翔太は喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
だが、その声は厚いガラスと激しい雨音に阻まれ、外には一滴も漏れ出さない。
「あ!?」
翔太は驚く、怪物の方に視線を向けると
――さっきまで道路に立っていた怪物はユータの入った麻袋と共にいつの間にか消えていた。
――その闇の中に、黒いロングコートの影が、恋人を迎える旧友のような仕草で立ちはだかっていた。
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