選択
雨は、さらに強くなっていた。
フロントガラスを叩く水滴が、外の世界を歪ませる。視界の向こうで、“それ”がゆっくりと動いている。
コートの男。
殺したばかりの男のスマートフォンを手にしたまま、無造作に立っている。
「……どうか、しました……?」
歪んだ声が、再び響いた。
翔太は耳を塞ぎたくなった。だが、できない。視線も逸らせない。恐怖で体が固まっている。
——逃げなきゃ。
頭の中では、何度も叫んでいるのに。
その時だった。
遠くから、また別のエンジン音が聞こえてきた。
「……っ!」
翔太の目が見開かれる。
ヘッドライト。
今度は、少し大きめの車——ミニバンだった。
「やめろ……来るな……!」
思わず呟く。
だが、その願いは届かない。
ミニバンは減速し、異様な光景を前に停止した。
運転席と助手席、二つの影が動く。
「おい、なんかあったんじゃないか?」
「事故……?」
ドアが開く。
男女だった。二人とも二十代後半くらい。状況を理解していない、普通の人間。
その“普通”が、ひどく場違いだった。
「すみませーん、大丈夫ですかー?」
男の方が声を張り上げる。
その瞬間。
コートの男の首が、ゆっくりと傾いた。
声の方向へ。
「……出るな……!」
翔太は叫んだ。
だが、その声は雨にかき消される。
「え? なに?」
女性が不安そうに周囲を見回す。
「ちょっと様子見てくる」
男が一歩踏み出す。
「私も行く」
女も遅れて車から降りる。
その足元に、血が広がっていることにも気づかずに。
「——っ、後ろ!」
翔太は再び叫ぶ。
だが、遅い。
コートの男が、動いた。
——速い。
さっき見たそれと同じ。巨体とは思えない加速。
「な——」
車から降りた男性の言葉は、最後まで続かなかった。
——シャキン。
空気を切る音。
次の瞬間、男の腕が宙を舞った。
「え?」
理解が追いつかないまま、数拍遅れて血が噴き出す。
「う、うわあああああ!!」
女性の絶叫。
「きゃーーーー!!」
男は倒れ込み、のたうち回る。
コートの男は、動かない。
ただ、見ている。
苦しむ様を。
「いや……いやあああああ!!」
女性が後ずさる。
「ユウターーー!!」
その名前。
その瞬間だった。
コートの男の喉が、びくりと震えた。
ゆっくりと、口が開く。
「……ユ……タ……?」
濁った音。
歪んだ声。
それは確かに、今呼ばれた名前だった。
「いや……やめて……」
女性が涙を流しながら首を振る。
だが、もう遅い。
「……ユウタ……」
今度は、はっきりと。
だが“壊れている”。
男はゆっくりと、女性へと歩き出した。
カツン。
カツン。
「来ないで……来ないでぇぇ!!」
女性は走り出した。
だが、足場は最悪だった。雨で滑る路面。
数歩でバランスを崩し、転倒する。
その背後に、影が覆いかぶさる。
翔太は見ていた。
見ていることしかできなかった。
助ける? 無理だ。
逃げる? どこへ?
その時。
視界の端に、別のものが映る。
二人が乗ってきたミニバン。
エンジンがかかっている。
ライトも点いたまま。
「……」
呼吸が止まる。
頭の中で、何かが弾けた。
——今しかない。
怪物は、別の獲物に夢中になっている。
あの車に乗れば。
ここから、逃げられる。
だが——
「……」
女性の悲鳴が、耳に刺さる。
助けられるか?
いや、無理だ。
あれは人間じゃない。
行けば、自分も死ぬ。
でも——
「……くそ……!」
翔太はドアに手をかけた。
震える指。
ロックを外す。
カチッ、という音が、やけに大きく響いた。
深呼吸。
一度だけ。
そして——
ドアを開けた。
冷たい雨が、一気に車内へ流れ込む。
足が動かない。
怖い。
無理だ。
だが——
翔太は走り出した。
一直線に、ミニバンへ。
背後では、何かが潰れる音がした。
振り返らない。
振り返ったら終わりだ。
ドアを開ける。
運転席へ滑り込む。
キーはそのまま。
「うわぁっ……マニュアル車か……」
ギアをいれる。
「走れ……!」
アクセルを踏み込む。
エンジンが唸る。
その瞬間——
慣れないマニュアル車でエンジンが止まる……エンストだ……。
そのとき――
背後から、声がした。
「……ユウタ……?」
すぐ、後ろで。
翔太の手が止まる。
ゆっくりと、バックミラーを見る。
そこに映っていたのは——
血に濡れた顔の女。
そのすぐ後ろに立つ、コートの男。
そして。
その口が、再び動く。
「……ショウタ……?」
——見つかった。




