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来訪者

 その男が革製のグローブでガラスをこじ開けようする。

 ミシ、ミシ、と嫌な音がフロントガラスの内側に響いていた。


 蜘蛛の巣状に走った亀裂。その中心に、男の異様に長い指が食い込んでいる。力を込めるたびに、ガラスがわずかに内側へ歪んだ。


「やめろ……やめろ……!」

 声にならない声が漏れる。


 翔太はシートに背中を押しつけたまま、必死にキーを回し続けていた。

 キュル……キュル……。


 虚しく空回りするだけのエンジン音。燃料はない。奇跡なんて起きない。


 視界の向こうで、男の“影”が揺れる。

 ぐ、とさらに圧がかかる。

 ミシィッ——!

 亀裂が一段と広がった。


「くそ……っ」

 震える手でスマートフォンを掴む。


 警察。とにかく警察だ。指がうまく動かない。画面を何度も滑らせ、ようやく通話アイコンに触れた、その瞬間——


 ふっ、と。

 男の気配が消えた。

「……え?」

 思わず顔を上げる。


 フロントガラスの向こう。さっきまで張り付いていたはずの巨体が、そこにはない。

 雨だけが、激しく世界を叩いている。


 静寂。


 いや、違う。

 遠くから、光とエンジン音が近づいてくる。


「……車?」

 ヘッドライトが、闇を裂いた。

 対向車線の奥から、一台の軽自動車がゆっくりと近づいてくる。白いボディが雨に濡れ、鈍く光っていた。


 翔太の胸が、跳ねる。

「た、助け……!」

 声が裏返る。


 車は減速し、翔太の車と、少し先に停まっているトラックの異様な配置に気づいたのか、その場で停止した。


 数秒の間。


 やがて、運転席のドアが開く。

 傘も差さず、一人の男が降りてきた。三十代半ばくらいだろうか。パーカー姿の、どこにでもいそうな男だった。


「どうかしました?」

 雨音に負けじと、声を張り上げる。


 翔太は慌てて窓に身を寄せた。

「た、助けてください! 変なやつが——」


 言い終わる前に、違和感が走る。

 その男の背後。

 トラックの影。

 そこに、“立っている”。

 黒いコート。

 帽子の影。

 いつの間に回り込んだのか。音もなく、すぐ後ろに。


「う、後ろ……!」

 叫んだ。


 だが、男は気づかない。

「え?」


 振り返ろうとした、その瞬間だった。

 ——シャキン。

 雨音を裂く、乾いた金属音。


 次の瞬間、男の体が不自然に揺れた。


「……え?」


 自分の身に何が起きたのか、理解できていない顔。

 胸元に、横一線の“線”が走っている。


 じわり、と赤が滲む。

 遅れて——

 ぶしゃっ、と。

 血が噴き出した。


「ぁ、あ……?」

 男の膝が崩れ落ちる。


 そのまま、泥の上に倒れ込んだ。

 ドサッ、という鈍い音。

 動かない。


「……っ」

 翔太の喉が、引きつる。

 息ができない。

 目の前で、人が——

 殺された。


 男は、何事もなかったかのようにハサミを閉じた。

 滴る血が、雨に洗われていく。


 そして。

 ゆっくりと、顔を上げた。

 帽子の奥の“影”が、こちらを向く。

 目が合った気がした。

 全身の血が、凍る。


 男は一歩、こちらへ踏み出す。

 カツン。

 もう一歩。

 カツン。

 逃げ場はない。車は動かない。ドアのロックなど、意味を持たない。


 ——そのとき。

 倒れた男のポケットから、電子音が鳴った。


 ピリリリリ……。

 スマートフォン。

 着信音。


 男は足を止めた。

 ゆっくりと、視線だけを落とす。

 震動するポケット。鳴り続ける音。


 そして——

 男の喉が、ぐにゃりと歪んだ。

 口が開く。

 そこから漏れたのは。

「……もしもし……?」

 たった今、殺された男と、同じ声だった。

 歪んだ音程で。

 濁った呼気を混ぜながら。

 雨音の中に、不快に溶けていく。

 翔太の背筋を、氷の針がなぞった。

 ——これは、聞いてはいけない音だ。


 男は、ゆっくりとスマートフォンを拾い上げる。

 画面を見る。


 そして。

 もう一度、口を開いた。

「……どうか、しました……?」


 それは、さっきこの男が発した言葉。

 だが、もう。

 “人間の声”ではなかった。


私からのお願い。

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