「深夜二時の訪問者」
深夜二時。国道一五二号線は、飲み込まれそうなほどの深い闇に包まれていた。
街灯もまばらな峠道。アスファルトを叩く激しい雨音が、瀬戸翔太の苛立ちをさらに増幅させていた。
「……だから、さっきから言ってるだろ! あれはただの同僚だって!」
車内のスピーカーフォンから、恋人の陽菜のキンキンと響く怒声が漏れ出す。
『嘘ばっかり! じゃあなんであんな時間にLINEが来るの? 翔太、前もそうやって誤魔化したじゃない!』
「ああ、もう! 今は仕事の帰りなんだよ。疲れてるんだ。いい加減にしてくれ!」
翔太はハンドルを叩いた。メーターパネルに目をやると、燃料警告灯が不吉なオレンジ色の光を放っている。山越えのショートカットを選んだのは失敗だった。ガソリンスタンドなんて一軒も見当たらない。
「くそ! 街までもつかな……」
最悪だ。仕事のミスを上司に絞られ、帰り道にはガス欠の危機。その上、電話の向こうでは終わりの見えない痴話喧嘩。
その時、前方に二つの赤い光が見えた。古びた、車高の低い大型トラックだった。荷台には錆びついた鉄板が歪に張り合わされ、泥除けがアスファルトを擦るような音を立てて走っている。時速はせいぜい四十キロ。
「チッ、こんな時に……」
翔太はアクセルを踏み込んだ。対 向車が来ないことを確認し、強引に右側からトラックを抜き去る。追い抜きざま、苛立ちに任せてクラクションを長く鳴らし、窓越しに中指を立てた。
一瞬だけ視界に入ったトラックの運転席。
そこには、座席からはみ出すほど巨大な、黒い影が座っていた。顔が見えないのに目線だけ感じる気がした。
「……死ねよ、ノロマ」
吐き捨てるように呟き、翔太は速度を上げた。バックミラーに映るトラックのライトが、みるみるうちに小さくなっていく。
『ちょっと! 今の音なに!? 聞いてるの!?』
「うるさいな、変な車がいたんだよ。それよりさ……」
ふと、バックミラーに違和感を覚えた。小さくなっていたはずの二つの光が、突如として消えたのだ。
「……消えた?」
故障か、それとも脇道にでも逸れたのか。そう思った直後だった。
間もなくして、ドォォォォォン!という重低音と共に、翔太の乗用車が激しく前方に押し出された。
「うわっ!?」
衝撃で首が鞭のようにしなる。
スピーカーからは陽菜の声が聞こえる。
『何?なんの音?』
バックミラーを見た翔太は、心臓が凍りつくのを感じた。
ライトを消したまま、あの巨大なトラックが、バンパーが触れんばかりの距離で背後に張り付いていた。
闇の中から、鉄の塊が巨大な獣のように牙を剥いている。
「な、なんだよ……なんだよ、こいつ!」
『どうしたの?』
「陽菜、少し黙ってて、車をぶつけられた」
トラックは翔太の車を押し続ける。翔太は仕方なく必死にアクセルを踏み込む。
煽り運転は、五分、いや六分ほど続いていた。だが、体感ではそれ以上に長く感じられた。
「陽菜、変なトラックに煽られてる」
『え?何? トラック?』
坂道に差し掛かった途端、エンジンがガクガクと異音を立て始めた。
「嘘だろ……ここでかよ!」
無情にも、エンジンが停止した。慣性で進む車を、翔太は必死に路肩へ寄せた。
トラックは、数メートル通り過ぎたところで、ゆっくりと停車した。
雨音だけが支配する静寂。
スピーカーからは、状況の掴めない陽菜の声が微かに漏れている。
『……ねえ、翔太? どうしたの? ねえってば!』
「陽菜、静かにしてくれ……頼む……」
翔太は声を殺し、窓の外を見つめた。
トラックの運転席のドアが開いた。ギィィ……と錆びついた蝶番が悲鳴を上げる。
降りてきたのは、人間とは思えないほど巨大な「何か」だった。
それは、九月とは思えない異様な姿だった。裾が地面に触れるほどの、黒いロングコート。
広い肩。深くかぶった、古びたカウボーイハット。顔は――影に沈み、まったく見えない。
死神……。
そんな言葉が、翔太の脳裏をよぎった。
カツン……。
カツン……。
雨音を切り裂くように、重い靴音が響く。
男は走らない。ただ、一定の歩幅で、まっすぐに車へと近づいてくる。街灯の下を通り過ぎた、その瞬間。
翔太は息を呑んだ。
袖の奥から覗いた手は、岩のようにごつごつしている。異様に長い指。
その先にこびりつくのは――泥か、血か。黒い汚れだった。
男は、運転席の窓のすぐ外で足を止める。
見上げるしかなかった。
二メートル近い巨体が、車内の翔太を覆い隠すように立っている。
翔太は呼吸を止め、座席に深く沈み込んだ。ドアはロックした。窓も閉まっている。
だが、この薄いガラス一枚が、あの怪物のような男を阻めるとは到底思えなかった。
男は、ゆっくりと手を上げた。
そして、その長い指先で、コン、コン、と窓ガラスを叩いた。
まるで、旧友の家を訪ねてきたかのような、軽いノックだった。
「……っ」
恐怖で喉が震える。
『……翔太? もしもし? もういい加減にしてよ! 黙ってれば済むと思ってるの!?』
陽菜の怒声が、静まり返った車内に場違いに響く。
その瞬間。
帽子の下の「影」が、ゆっくりと傾いた。男は耳を澄ませるように、車内のスピーカーから漏れる声を聞いている。
男は次に、車の周囲をゆっくりと回り始めた。
カツン、カツン。
靴音が車の後方へ回り込み、反対側の助手席側へと移動していく。
その間も、男は一度も声を上げない。ただ、時折窓を指で撫でる。黒い汚れがガラスに引き摺られ、嫌な音を立てる。
『ねえ! 返事しなさいよ! 警察呼ぶわよ!?』
陽菜の言葉に、翔太はハッとした。
(そうだ。警察だ!)
震える手でスマホを掴もうとした、その時。
男が、助手席の窓越しに「中」を覗き込んできた。
帽子の影から、爛々と光る二つの眼光が見えた気がした。
それは人間の目ではなかった。
獲物を品定めする、冷酷な獣の目。
男は懐から、何かを取り出した。それは、古びた、巨大な裁断用のハサミだった。
男はそれを開き、ゆっくりと刃を噛み合わせた。
シャキィィィン……という金属音が、雨音の中でも鮮明に聞こえた。
『翔太! もういい! 別れましょう! 明日、荷物取りに行くから!』
陽菜が絶叫し、一方的に通話が切れた。
プツッ、という無機質な電子音の後、車内は真の静寂に包まれた。
男は、窓ガラスに自分の顔を押し当てるようにして、翔太をじっと見つめている。
そして、ゆっくりと口元を歪めた。
それは笑みだった。
人間を、ただの「肉」として見なしているような、残酷な笑み。
男は再び、トラックの方へと歩き出した。
(助かったのか?)
そう思ったのも束の間。トラックの荷台の扉が、ゆっくりと跳ね上がった。
そこに見えたのは、無数の、中身の詰まった「大きな麻袋」だった。袋はどれも湿っており、不規則にピクリ、ピクリと動いている。
男は一袋を地面に引きずり下ろすと、それをトラックのバンパーに引っ掛けた。
そして、手に持ったハサミで、袋の口を丁寧に切り裂き始めた。
翔太は見た。
袋の中からこぼれ落ちたのは、人間のものと思われる、大量の「髪の毛」と「衣服の断片」だった。
男が、再びこちらを向いた。
——次の瞬間、走り出す。
巨体からは想像もつかない速度だった。重いコートを翻し、一直線に突進してくる。
「あああああああああ!!」
翔太は叫びながら、キーを回した。
かかるはずがないと分かっていても、やめられない。
——ドンッ。
巨大な手が、フロントガラスに叩きつけられた。
ミシミシ、と嫌な音を立てて、ガラスに蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
帽子の奥の“影”が、初めて音を発した。
それは言葉ではなかった。
何千もの悲鳴を、無理やり重ね合わせたような——耳を拒絶する音。
「……ハ……ナ……?」
それは。
さっきまで電話越しに聞いていた、あの名前だった。
男は亀裂に指をかける。
そして——力任せに、引き裂こうとした。
翔太は動けない。真っ暗な山道。
狂ったように、エンジンのかからない車でアクセルを踏み続けることしかできなかった。
夜明けまで、あと四時間。
——着信履歴には、まだ“陽菜”が残っていた。
さっきまで繋がっていた世界は、もうどこにもない。
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