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「何かが近くに来ている」
フレッドはそう言って、剣を抜いた。体が強張るのが自分でもわかる。今までそれなりの数のゾンビと相対してきたが、ここまで肌がひりつくような空気を感じることはなかった。
今現在、彼らは中庭に面した廊下にいる。中庭は広く、綺麗に刈られた芝生がほとんどだ。敵から逃げるには有利かもしれないが、灯りの乏しい夜では視界が不明瞭で無暗に入るのは非常に危険だ。
「エスター、キャリー嬢、下がって」
言われるがまま少女二人はフレッドの後ろに回った。それだけ、彼の声が切羽詰まっていたからだった。
「おいフレッド。お前エスターによくも」
「殿下、下がりやが……ください」
一瞬とんでもない言葉遣いになりかけたアッシュが、ミシェルの腕を引き、代わりに自分が一歩前に出た。既に腰の剣を抜き放っている。いつでも、どこから敵が襲って来ても対処できるように、全神経を集中させている。
エスターは、先ほどの斬撃で血がこびりついているアッシュの剣に、素早く浄化の魔法をかけた。彼は視線だけで礼をいい、次の瞬間叫んだ。
「中庭だ!」
そしてそれは、唐突にやってきた。
それは人間よりわずかに大きい、醜い異形の生物だった。
体表は黒く、思わず生理的嫌悪を抱かせるような薄気味の悪い鱗に覆われていた。幼体だった頃の名残といえば、目も鼻もなく、鋭い牙がびっしり生えている口。その巨大な口から、尋常ではないほど長い舌を、蛇のようにチロチロと出し入れしている。幼体が蛇に似ていたから、そのせいかもしれない。
体は爬虫類を思わせる癖に、形だけは人間に似ていた。筋肉がびっしりついた、それでいてスレンダーな、いかにも素早く動きそうな体。しかし腕だけは丸太の様に太い。恐らく、あの巨大な爪を振り下ろすためだ。
そいつは二本足でしっかりと床を踏みしめていた。両足の間からは、トカゲのような尻尾がゆらゆらと揺れている。その尻尾も、体と同じ鱗に覆われている。あれで薙ぎ払われたら、それだけで傷だらけになるだろう。
「化け物……」
誰かが呟いた。そいつは、まさに化け物という言葉でしか言い表せないような風体だった。そして、その言葉に恥じないおぞましさを持ち合わせていることは明白だった。長い舌はどす黒い血にまみれており、奴が人だかゾンビだかを喰った直後ということは明らかだった。
ゼノと呼ばれる、禁じられた魔法が生んだ、忌むべき魔物だった。ついに恐れていた成体へと成長したらしい。
フレッドとアッシュが、互いに目配せし、次の瞬間、二人は弾かれたように、互いの反対方向へ飛び退った。そのまま離れた位置からゼノめがけて同時に攻撃を繰り出す。
ゼノはフレッドの剣を、その逞しい腕で薙ぎ払い、アッシュには背を向けたことで、鱗に覆われた強靭な尻尾によって、彼の攻撃を防いだ。
尻尾は鞭のようにしなやかに風を切った。実際は、鞭というよりも鉄製の鎖のような重量感があった。アッシュは攻撃から回避に転じたが、それが正解だった。石壁にできた大きなひびを見て、彼は戦慄した。咄嗟に避けなかったら、今頃彼は大怪我を負って戦うどころではなかっただろう。
「キシャアアアアアッ」
蛇のような咆哮を上げ、ゼノが腕を振り上げた。身の程をわきまえずに自分に攻撃を仕掛けてきた人間どもに対する怒りと、生きた獲物を前にしたことによる興奮を滲ませた、捕食者の声だった。
剣を弾かれ、体勢を大きく崩したフレッドめがけて、ゼノは爪を振り下ろそうとした。が、できなかった。それより先に、どこからか放たれた鉄の矢が、その腕に深々と突き刺さったためだ。
苦痛の声を上げるよりも先に、第二、第三の矢がゼノにめがけて放たれた。二本目はその頭部に、三本目は人間だったら心臓がある部位へ。恐ろしく正確な射撃だった。
怒り狂ったゼノが一歩前に踏み出した瞬間、その大腿部に四発目の矢が突き刺さった。
胸から腹部にかけては筋肉に覆われているため、鱗に覆われている背部より柔らかい。筋肉によって急所には到達していないものの、それなりにダメージを与えられたようだ。
今までずっと沈黙していた護衛が、援護してくれたのだ。
分が悪いと思ったのか、ゼノはわずかに後退し、今度は、既に態勢を整えて鉤爪で構えているフレッドに、その長い舌を飛ばした。
「うお!」
その舌は、どうやら凶器にもなるらしい。道理で長いわけだ、とフレッドはかろうじてよけながら思った。
「はっ!」
気合のこもった声と共に、アッシュがその舌を横から斬り落とした。
これで奴の手持ち武器が一つ減った。
「二人ともどいて!」
エスターが叫び、その横ではサミュエルが赤い魔方陣を作り上げている。キャリーもまた、いつでも攻撃できるよう緑の魔法陣を作り、サミュエルの魔法陣に重ねていた。
瞬時に二人は後方へ跳び、それと同時にゼノめがけて魔法が放たれた。先程ホールで繰り出した爆発よりだいぶ劣るが、いかにゾンビより強いといえど、ゼノは一体だ。その爆発はゼノに十分なダメージを与えた。
傷口から、やたら毒々しい色の、血なのか体液なのかわからない液体を噴き出しつつ、ゼノが大きく体勢を崩した。その隙を逃すフレッドとアッシュではない。
今度こそ二人はそれぞれの武器でもって、両サイドから攻撃を加えた。アッシュは剣で、なおもフレッドに振り下ろそうとする腕を斬りつけた。さすがに斬り落とすことはできなかったが、筋肉を削ぐことはできたのか、奴はだらりと腕を下げた。これでは、自慢の爪で攻撃することはもうできないだろう。
フレッドは、その頭部に鉤爪を差し込み、胸元まで一気に引き裂いた。
「あいつ、切り刻まれても再生するんじゃないか」
アッシュが誰に言うでもなく呟いた。幼体の時の、頭数を増やすために、自らの体を斬りつけて分裂する、あの強烈な光景は未だ彼の目に焼き付いている。
「それはないね。あれは、体の造りがものすごく単純じゃなければできないわ」
エスターが自信をもって言いのけた。
「そうなの?」
「いくら禁呪で作られた魔物と言っても、生き物は生き物よ。その常識から逸脱することは無理」
「すでに常識を大きく破ってる気はするが……」
アッシュの危惧とは裏腹に、倒れたゼノが再び立ち上がる気配はない。その体はピクピクと痙攣しており、醜悪な口元からは、弱った声が聞こえてくる。多くの犠牲者を出した怪物の断末魔にしては、いやにお粗末だ。かろうじて息はあるが、それが止むのは時間の問題だろう。
「念のため燃やしておきます」
フレッドがそう言って、廊下にあるランタンを持ってきた。
静かに燃えてゆくゼノの体を憎々しげに見ながら、サミュエルは「これで仇が取れた」と呟いた。
「そうか、さっきの」
「ええ。あっちの廊下でいきなり襲い掛かってきたんです。そのせいであいつは俺を庇って……。あ、あんな、おぞましい物を埋め込まれて」
「ちょっと待って!」
黙って怪物が萌えてゆくのを見ていたエスターが割り込んできた。
「ごめん、辛いこと訊いてしまうけど……、その人は、まさか、幼体を埋め込まれたの?」
「ああ……そういうこと、になるかな?ただ、その時出てきた幼体はサミュエルとキャリー嬢がきちんと倒したから、とりあえずは問題ないぞ」
答えたのはサミュエルではなくアッシュだった。彼は、サミュエルの友人という人物が、どういう死に方をしたのかよく覚えている。そして、彼の体を食い破って出てきた幼体の恐ろしさも。
「どうかしたのかエスター?」
「とんでもないことだわ」
エスターが、震える自分の体を抱きしめつつ、フレッドを見た。
「つまり、その時点でゼノは成体になっていていたということよ。もし、奴が他に生存者を見つけていたら、確実に幼体を植え付ける」
「まさか」
彼女の言いたいことが伝わったのか、一同は互いに顔を見合わせた。
「まだ、どこかにゼノから幼体を植え付けられた人がいるかもしれない。そして、新たなゼノが生まれているかもしれない」
遠くで誰かの悲鳴が聞こえた。それは、果たしてゾンビに襲われたことによるものか、それとも。




