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あの事件から一か月ほど経った頃には、キャリーは授業に出席するようになっていた。
幸い、犯人とは別のクラスであり、顔を合わせることは、気を付けてさえいればまずなかった。向こうから何かしらの接触があることもなかった。教師の方でも、それとなく気を遣ってくれていた。
おそらく、とキャリーは思った。
相手は、自分が襲った相手の名前を知らないのではないだろうか。計画的だったように見えないし、そもそもキャリーがあの時間に一人でいたのはただの偶然だ。そして、事の最中は、ずっと顔をストールで覆われていたのだ。向こうは、下手すると顔すら見ていないのかもしれない。
その彼は、今日もまた、婚約者がいるというのに、学校一の才女に夢中だ。きっと、自分は、あの男が少女に袖にされた腹いせに襲われたのだ。
怒りはあったが、何かができるとも思わなかった。相手が悪すぎたのだ。
だから、キャリーは最初から降参している。勝ち目のない戦いに挑んで、それで人生の何もかもを失うだろうことは目に見えている。それをするには、諦めきれないものが多すぎた。
ギルバートはあれからもキャリーを気遣ってくれた。あの日、母に彼が言ったことの意味を、キャリーは何度も考えた。そうして、ふとキャリーは自分の父親を知りたくなった。母親がキャリーを嫌うわけも知ることができるかもしれない。
そしてそれらは、当たり前の感情なのだ。キャリーは、自分が今まで疑問すら抱くことができなかった、許されなかったことに気付いた。
そうして会いに来てくれた祖父母に無理やりに聞き出した。自分が誕生することになった、馬鹿馬鹿しいほどのあらましもすべて聞いた。初めて母親を憎いと思った。母が彼女を愛さなかったのは、彼女のせいではなかったのだ。
自分は何一つ悪くなかった。母が自分を憎んだのは、母自身の男の見る目のなさと、浅慮のためだ。ギルバートの言う通り、ただの八つ当たりだった。
そんなもののために自分は寂しい少女時代を過ごしたのだ。
「まったく、バカみたいだわ」
食堂でハチミツのたっぷり入った紅茶を飲みながら、彼女はぼそりと呟いた。
「何が?」
ギルバートの方は、温めたビールに砂糖とシナモン、クローブを入れた飲み物を飲んでいた。それは、寒い日の彼のお気に入りだった。
「何もかもよ。私の今までっていったい何だったの。私はあの人の八つ当たり要員じゃないわ」
「そうだね」
「おかげで、今までしなくてもいい苦労ばかりだったわ。いいことなんか一つもなかった……あなたに会えたこと以外」
彼女の言葉に、ギルバートが目を見開いた。よほど驚いたのか、口元にビールの泡がついていることにも気づかないでいる。
「何よ、その顔」
「いや、意外な言葉だったから。まさかとは思うけど、僕に惚れた?」
「なわけないでしょ。血の繋がった兄を好きになれるわけないじゃないの」
できるだけさりげなく、しかし小声で彼女が言うと、ギルバートはばつの悪そうな顔で頬を掻いた。
「さすがに気が付いた?」
「調べたらわかるわ。あなたが話してくれたこと、あれは私たちの父親のことだったのね。あの人にもいろいろ言いたいことはあるけど、もう死んでるんだっけ」
「まあね」
実の父親の話をしているというのに、二人とも冷めた言い方になっていた。キャリーは、かつてギルバートが父親の話をしていた時の、冷淡な態度を思い出していた。今となっては、あの時の彼の気持ちがよくわかる。
「……あなたは、私のことを知っていたのね。どうして?」
「……父が、昔酔った時に話してくれたんだ。あの人、自分の選択を、それは後悔しまくってたからね。そりゃそうだ。真実の愛とやらを見つけたと思っていたのに、彼が望まれていたのは、ただの種馬だ」
下品な例えを臆面もなく言ってのけた彼に、キャリーは少しだけ笑った。実際そうなのだろう。いろいろ思うところはあるが、彼もまた哀れな人間ではあった。
「父は後悔してたし、君の存在をずっと気にかけていた。僕を子爵家に取り上げられてからは、余計にそうだったろうね。君の母親が、彼を本当には愛していなかったのかはわからないけど、少なくとも、子供を奪われた挙句放り出されることは絶対になかったからね」
「全く馬鹿ね」
「ああ、その通り」
二人は一瞬、ありえない情景を見た。父親だった男が、もともとの婚約者とそのまま結婚していた場合。気の強い妻に辟易することは多かったかもしれないが、それを諫める義両親がいて、それなりに裕福な生活が送れただろう。そして、二人の間には子供が二人産まれ、仲のいい兄妹として成長する……。
あるはずのなかったその光景を頭から追い出し、二人は寂しげに笑った。
「そんなことよりもうすぐ卒業パーティーだけど、どうするのさ」
「出ないわ、別に強制参加ってわけじゃないもの」
「出たらいいじゃないか。パートナーなら、僕がいるよ。君は僕相手なら気兼ねしないだろう?それに、僕はこう見えても将来有望って評判なんだ。女子から羨ましがられるかもよ」
彼がそう言って笑うと、キャリーは呆れたように兄を見た。
「羨ましがられる?どっちかというとやっかまれるわ。あんたみたいなのがどうしてって」
「きちんと着飾れば、そうは思われないさ。それに、やっかまれるのっていい気分だよ。だって、その点において、相手より君の方が上だって証明されたようなものじゃないか。人間、自分より下だと思っている相手には、嫉妬しないんだから」
キャリーの兄は、いつだって変に前向きで、途方もない楽観主義者なのだ。
そうして、楽しめるはずのパーティーに参加している間に、あれが起きたのだ。
最初は、あのバカが婚約者に派手に婚約破棄を突きつけているところだった。
キャリーは、あの男の顔を見てもなんとも思わなかった。あの行為の間中、顔を見ていなかったからかもしれない。強烈な印象を残したあの声を聞くと、さすがに体も強張ったが、怯えて逃げ出すのは癪だった。
あの王子の馬鹿げた茶番劇で、間違いなく廃嫡されるだろうと、ギルバートが断言したせいで、少し震えが収まった。
子爵家の彼がそう言うのだ。確かなのだろう。いい気味だ。早く、廃嫡される姿が見たいものだ。おまけに、意中の少女は王子様を嫌っているし、婚約破棄された令嬢は、王子など最初から眼中にないようだった。それもまた、気分がよかった。
そうしているうちに、事態がおかしい方向へ行った。
ギルバートの様子が急におかしくなったのだ。
「どうかしたの?」
「うん。おかしいな、さっき、あいつにもらった飲み物が、体に合わなかったのかな。何だかやけに胸が……」
そこまで言った後、急に彼は目を極限まで見開き、体を激しく震わせた。
彼は、まるで信じられない物を見たかのようにキャリーを見て、それから、何かが彼の体から飛び出てきた。
誰かの悲鳴が上がった。血の洗礼を浴びたキャリーは、唯一無二の親友であり、一生誰にも明かせないが、実は兄だった存在を失ったことに、まだ気づいていなかった。




