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キャリーの身に起きた忌まわしい出来事を知る人間は、ごく少数だった。
さすがに男のギルバートでは、できることはわずかだったせいもある。ギルバートは自分の上着を彼女に着せ、急いで教師を呼んだ。女性教師と、学園専属の医師を連れてきたのは最良の選択ではあったが、恐怖と屈辱で興奮するキャリーにとっては辛い時間でもあった。マルコス学園が誇る校医は、腕は確かだが、年のいった男性で、彼の姿を見た瞬間、彼女は悲鳴を上げるほどだった。
身を清めさせてもらい、ある程度の処置を施され、ようやく口が利ける状態になって初めて、彼女は一体彼女の体に何が起きたのか、誰がそんな目に遭わせたのかを、女教師におずおずと尋ねられた。
「……見てないんです。突然袋をかぶせられて。夜道は暗かったし、後ろからいきなり襲われたんです」
彼女の顔を覆っていた布は、ギルバートが回収して既に学校に提出済みだったが、それは学校支給のストールだった。男女兼用で、学年ごとに色分けされる。わかったことは(それが盗まれた物でなければ)相手はキャリーと同じ三年生だということだけだ。しかも、このストールは予備用に校内の売店でも売られており、校内の者なら、誰でも容易に手に入れることができる。
「でも声は聞いています。『平民のくせに逆らうな』とか言ってました」
その言葉に、女教師の顔が青ざめるのがわかった。ただでさえ面倒臭い事態が、さらに面倒になったのだ。そりゃ顔も青ざめるだろうと、キャリーは皮肉な考えを抱いた。
相手はお貴族様だ。しかも、その声の主を、キャリーは知っていた。その人物を知らない者など、この学園内には一人としていないだろう。
「声で誰かはわかります。ですが、私たちなどでは、本来口を利くことすら烏滸がましく、許されないお方でした」
その言葉に、教師の顔色は青を通り越して、紙のように白くなっていた。彼女は、キャリーの言外に匂わせた真意に気付いたのだろう。
本来、学園内において身分差はないと表向きはなっている。もちろんある程度わきまえる必要はあったが、学園内では基本的に、不敬罪は適応されないのだ。
だから、今回のような件では、きちんと証拠さえあれば、相手が貴族であろうと訴えることができる。が、相手がただの貴族なら、の話だ。
「……無理だとわかってはいます」
もとより、相手が誰であろうが、相手を糾弾し、その罪を認めさせ、償わせるなど、できるとは思っていなかった。キャリーにできることは、諦めて何もかも忘れることしかない。それは、そう難しくはないような気がした。母と生活することで、諦めることは日常茶飯事だった。あの出来事は一瞬だったし、正直自覚もないまま終わったのだ。
(ゆっくり眠って朝起きたら忘れられるのではないかしら)
現実逃避だと自覚しつつも、彼女は自分に言い聞かせていた。
しかし、現実は忘れさせてくれなかった。彼女は、自分の母親が彼女を攻撃する、格好の材料を見つけたことを知らなかった。
次の日、キャリーは授業を休んだ。卒業までに必要な単位は既に取得していたし、就職先もほぼ決まっていた。学校側は、大事にしないでくれたキャリーに後ろめたさがあったのか、いくらでも休んでくれていいと暖かい言葉をかけてくれたし、彼女への配慮として、病気の生徒や教師が使う隔離室の一つを譲ってくれた。寄宿舎の部屋は、誰に会うかわからない。おかげで彼女はゆっくりと体を休めることができたし、見舞いに来る人物を彼女が選ぶことができた。尤も、キャリーの見舞いに来ようと思う者は、ギルバートしかいなかったが。
そうして緩やかな時間の中、あれは悪い夢だったのだと彼女が思い込めるようになったころ、唐突にそれはやってきた。
彼女のドアをノックする音がするまで、キャリーは小説を読んでいた。ギルバートが退屈しているだろうと、たわいもない大衆小説を何冊か、図書館から借りてきてくれたのだった。
ノックの音がしたので、キャリーは読んでいた「ウルサルの猫」をベッド横のキャビネットに置いた。無抵抗な猫を殺した者への酸鼻を極める復讐は、ささくれだった心には、大層心地よかった。その後の結末も爽快だった。
「はい」
思ったより明るい声が出たことに安堵しつつ、キャリーが返事をすると、おずおずと女教師が入ってきた。事件の日、キャリーに親身になってくれた教師だった。
「あのね、ブラックさん。あなたのこと、ご家族にご報告しないわけにはいかないでしょう?だから……」
彼女が最後まで言い終えるより先に、横から誰か、小柄な年かさの女が無遠慮に部屋に入ってきた。
彼女の濁った灰色の瞳が、自分を睨み据えた時、キャリーは自分の体がみっともなく縮こまるのを感じた。それは、彼女が十数年の習慣によって身についたくせのようなものだった。
「男をその貧相な体で誘ったんだって?結婚前にみっともないこと」
その言い分に、キャリーよりも女教師の方が顔を青ざめさせた。
「ブラックさん、何てことを!」
母は教師の存在など視界にも入らないのか、ずかずかと乱暴にキャリーの前に来て、侮蔑するような目で見た。
「ち、ちがっ」
「何が違うの。どうせ、だらしない格好で男に色目を使ったんだろう。自業自得だってのに大げさに騒ぎ立てて。みっともないったらありゃしない」
キャリーの頬が恥辱で赤く染まった。そんなわけがないのに。あの一件でキャリーに非など、あるはずもないのに。それなのに喉は嗄れ、鼻の奥がツンと痛み、反論する言葉が出ないのだった。
「ブラックさん!出て行ってください!」
教師が叫ぶように言った。彼女はようやく、自分がとんでもないことをしでかしたのだと理解した。世の中には、傷ついた子供を優しく包みこむ親ばかりじゃないことを、彼女は身をもって知ったのだった。それは、あまりに遅すぎる理解だった。
「このあばずれ!淫売が!そんな若い、結婚前の身で男に身を任せるなんて――」
「それはあなたでしょう?ブラックさん」
低い、怒りのこもった声に顔を上げれば、そこにはギルバートが立っていた。
「あ、あんたは……」
母の唇が小刻みに震えている。彼女は眼を見開き、手をせわしなく動かしながらおどおどと後ずさった。あからさまに挙動不審な態度に、キャリーは恥辱と屈辱も一瞬忘れた。母が、こんなに怯えるのを見たのは初めてだった。
逃げるように部屋を出ようとする母の手をギルバートが掴んだ。
「何をするのよ!」
ヒステリックに叫ぶ母に、何事か彼は囁いた。それは小声だったが、なぜかキャリーには嫌にはっきりと聞こえた。
「彼女に言ったことは全部、あなたのことじゃないですか。すべてはあなたの選択の結果でしょう?いい加減娘に八つ当たりするのやめません?みっともない。そんなことをしても、あなたが愛されなかった事実は変わりませんよ」
母が獣じみた悲鳴を上げて飛び上がった。そのまま逃げるように部屋を出ていくのを、キャリーは呆然と見送った。
それ以降、母がキャリーに接触してくることはなかった。その後は祖父母がこっそり見舞いに来て、母の行動を阻止できなかったことを詫び、キャリーの身に起きた悲劇を悲しんでくれた。キャリーは、自分が母に会うことはもうないだろうなと不意に思った。
すでに、母とは永久に他人になったのだと彼女は悟った。たぶんそれは、彼女がこの世に生まれた時から、ずっとそうだったのだ。




