番外編(2) 今度こそ、幸せになりたい
僕には、子供の頃から夢があった。
お金持ちになることだ。
大きな家に住み、好きなものを食べ、欲しいものを我慢しなくてもいい生活を送る。
そして、休日には昼まで眠る。
そんな暮らしに、ずっと憧れていた。
……別に、贅沢がしたかったわけではない。
ただ、お金がないという理由で、何かを諦める人生が嫌だったのだ。
◇
井上定助。
それが、前世の僕の名前だった。
僕は、日本の貧しい家庭に生まれた。
父も母も一生懸命働いていたが、生活に余裕はなかった。
小学生の頃、母と靴を買いに行ったことがある。
それまで履いていた靴は、すっかり傷んでいた。
雨の日には水が染み込み、靴下まで濡れてしまう。
「定助、好きなのを選んでいいよ」
「ほんと!?」
「うん。新しい靴、必要だからね」
僕は嬉しくなって、店の中を歩き回った。
そして、かっこいい靴を見つけた。
青い線の入った、少し高そうな靴だった。
「お母さん! これがいい!」
「どれどれ?」
母が値札を見た。
その瞬間、ほんの少しだけ表情が曇った。
……あっ。
子供だった僕にも、その意味はわかった。
「……やっぱり、こっちにする!」
僕は慌てて別の靴を手に取った。
値段は、さっきの半分ほどだった。
「定助、さっきのがよかったんじゃないの?」
「ううん! こっちの方が走りやすそう!」
「……そう?」
「うん!」
母は少し困ったように笑った。
そして、僕の頭を撫でた。
「……ごめんね」
「何が?」
「ううん。何でもない」
僕は、何も言わなかった。
母が悪いわけではない。
父だって、毎日遅くまで働いている。
それでも、欲しいものを自由には買えない。
その日の夕食は、母の作った卵焼きだった。
甘い味付けの、僕の大好物だ。
「定助、おいしい?」
「うん!すっごく!」
「そう。よかった」
母は嬉しそうに笑った。
僕は、その笑顔を見ながら思った。
……いつか、絶対にお金持ちになろう。
そうすれば、母に謝らせずに済む。
父にも、少しは楽をしてもらえるだろう。
その日から、僕は真剣に勉強するようになった。
◇
僕は、勉強が嫌いではなかった。
新しいことを知るのは楽しかったし、問題が解けるようになると嬉しかった。
学校の授業だけでは物足りず、図書館で本を借りては読みふけった。
もちろん、友達と遊びたい日もあった。
だが、そのたびに自分へ言い聞かせた。
今、頑張ればいい。
勉強して、よい大学に入って、よい会社に就職する。
そうすれば、将来は好きなだけ遊べる。
僕は、そう信じていた。
中学校でも高校でも、成績は上位だった。
そして、大学受験。
僕が目指したのは、東大だった。
当然、簡単な道のりではない。
毎日のように勉強し、苦手な問題を何度も解き直した。
模擬試験の結果に落ち込んだこともあった。
それでも、諦めなかった。
そして、ついに。
「……合格した」
掲示板に表示された受験番号を見て、僕はしばらく動けなかった。
何度も番号を確認する。
間違いない。
僕は、東大に合格したのだ。
すぐに母へ電話をかけた。
「母さん!受かったよ!」
『……えっ?』
「東大!合格した!」
電話の向こうが静かになった。
「……母さん?」
『……よかった』
母の声が震えていた。
『本当に、よかったねえ……』
「うん!」
『頑張ったね、定助』
その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなった。
……ああ。
努力してきて、よかった。
これで、ようやく人生が変わる。
僕は、本気でそう思っていた。
◇
大学生活が始まっても、僕は忙しかった。
勉強はもちろんだが、生活費を稼ぐ必要もあったからだ。
そこで始めたのが、家庭教師のアルバイトだった。
東大生という肩書きのおかげで、仕事を見つけるのにはそれほど苦労しなかった。
最初は、効率のよいアルバイトだと思っていた。
自分が得意な勉強を教えて、お金がもらえる。
こんなにありがたい仕事はない。
ところが、実際に始めてみると、意外なことがわかった。
自分が問題を解けることと、人に教えられることは、まったく別なのだ。
特に印象に残っている生徒がいる。
中学二年生の男の子だった。
数学が苦手で、テストの点数はいつも三十点前後。
僕は最初、普通に勉強を教えた。
公式を説明し、例題を解いてみせる。
そして、同じような問題を解いてもらう。
「ここまではわかった?」
「……うん」
「じゃあ、次の問題をやってみよう」
「……はい」
ところが、彼の手は止まってしまった。
「どうした?」
「……わかんない」
「さっき説明したところだよ?」
「……うん」
彼は俯いた。
「……ごめんなさい」
その言葉に、僕は戸惑った。
別に、謝ってほしいわけではない。
ただ、なぜできないのかわからなかった。
僕は、何度も同じ問題を解けばできるようになると考え、宿題を増やした。
だが、次のテストでも成績はほとんど変わらなかった。
ある日の授業中。
彼が、小さな声で言った。
「……先生」
「何だい?」
「僕、頭が悪いんだと思う」
「……えっ?」
「だって、先生が何回教えてくれても、できないから」
……。
そのとき、僕は初めて考えた。
僕は、ずっと勉強すればできるようになると思っていた。
実際、自分はそうだった。
努力して、成績を上げて、東大に合格した。
だから、誰でも同じように頑張ればできるようになると信じていた。
……でも。
それは、本当に正しいのだろうか。
「……ねえ」
「はい」
「数学の、どこが難しい?」
「……全部」
即答だった。
……なるほど。
これは、なかなか手ごわい。
僕は少し考えた。
そして、教科書を閉じた。
「じゃあ、今日は好きなことを教えてよ」
彼は驚いた顔をした。
「……好きなこと?」
「うん。何でもいいよ」
「……電車」
「電車?」
「路線図を見るのが好きなんだ」
話を聞いてみると、彼は駅の名前や路線を驚くほど覚えていた。
どの駅で乗り換えれば早く目的地に着くのか。
どの道を通れば近いのか。
そんなことなら、いくらでも説明できるらしい。
これは、面白い。
僕は紙に簡単な路線図を描いた。
「じゃあ、この駅からあの駅まで、どれくらいかかる?」
「急行なら二十分くらい」
「途中で五分待つとしたら?」
「二十五分!」
「正解」
彼が少し笑った。
僕たちは、そんな問題を何度も繰り返した。
やがて、移動時間や距離を使って、数学の問題を考えるようになった。
最初は簡単な計算から。
慣れてきたら、少しずつ難しくする。
わからなければ、別の説明を考える。
すると、ある日。
「あっ!」
彼が声を上げた。
「先生!わかった!」
「本当?」
「うん!これって、こういうことなんだ!」
彼は、自分の力で問題を解いた。
僕は、思わず笑ってしまった。
「すごいじゃないか!」
「……やった!」
彼は照れくさそうに笑った。
それから、少しずつ成績が上がり始めた。
そして、ある日の授業。
「先生!」
「どうした?」
「これ!」
彼がテスト用紙を差し出した。
そこには、六十八点と書かれていた。
「初めて六十点超えた!」
「おお!すごいじゃないか!」
「先生のおかげだよ!」
……。
僕は、胸が温かくなるのを感じた。
自分が試験で高得点を取ったときとは、少し違う喜びだった。
彼が努力して、できなかったことをできるようになった。
その成長を、間近で見られた。
……そうか。
人に何かを教えるというのは、こんなに楽しいことだったのか。
そして、僕は大切なことを学んだ。
努力は必要だ。
だが、誰もが同じやり方で成長できるわけではない。
得意なことも、苦手なことも、人それぞれ違う。
だからこそ、その人に合った方法を考える必要があるのだ。
この経験は、僕にとって大きな財産になった。
◇
やがて、大学生活も終わりに近づいた。
僕は就職活動を始めた。
東大を卒業すれば、希望する会社に就職できる。
そこで努力して出世すれば、きっと豊かな生活が手に入る。
そう思っていた。
だが、現実は違った。
世の中は就職氷河期だった。
僕も例外ではない。
書類選考で落とされる。
面接で落とされる。
最終面接まで進んでも、不採用になる。
何社受けたのか、途中から数えるのをやめてしまった。
……おかしい。
僕は、ずっと頑張ってきた。
勉強して、東大に合格した。
大学でも成績は悪くなかった。
それなのに、希望する会社から内定がもらえない。
……。
初めて、努力だけではどうにもならないことがあると知った。
結局、僕は希望していた企業とは別の会社に就職した。
……まあ、仕方ない。
入社できたのだから、そこで頑張ればいい。
努力して実績を上げれば、きっと出世できる。
そう考え、僕は働き始めた。
◇
仕事は、想像以上に厳しかった。
朝早く出社し、夜遅くまで働く。
仕事が終わらず、毎晩のように終電で帰る。
休日にも出勤することがあった。
「井上君、これも頼むよ」
「……はい」
「明日の朝までにできる?」
「……わかりました」
僕は、断ることが苦手だった。
頼まれた以上、何とかしようと考えてしまう。
実際、これまではそうしてきた。
努力すれば、何とかなったからだ。
しかし、身体は少しずつ悲鳴を上げていた。
朝、起きるのがつらくなった。
食欲がなくなった。
休日は、眠るだけで終わるようになった。
それでも、僕は働き続けた。
……もう少し頑張ればいい。
昇進すれば、給料も上がる。
そうすれば、今より少しは楽になるはずだ。
その言葉を、何度も自分に言い聞かせた。
ある夜、母から電話がかかってきた。
『定助、元気にしてる?』
「うん。元気だよ」
『ちゃんとご飯食べてる?』
「食べてるって」
『寝てるの?』
「大丈夫だよ」
母は、少し黙った。
『……定助』
「何?」
『あんまり無理しなくていいんだよ』
……。
東大に合格したときも、同じことを言われた気がする。
「うん。もう少し頑張ったら、休みを取るから」
『そう。じゃあ、そのときは帰っておいで』
「うん」
『久しぶりに、卵焼きでも作ろうか』
「……いいね」
『定助、昔から好きだったものね』
「うん。楽しみにしてるよ」
電話を切ったあと、僕は時計を見た。
もう、日付が変わろうとしていた。
明日も早い。
……さて。
寝るか。
だが、仕事は終わらなかった。
翌日も、その翌日も。
僕は、毎晩のように終電で帰宅した。
そして、ある夜。
駅の階段を上っている途中で、突然、胸が苦しくなった。
足が止まる。
……あれ?
おかしいな。
手すりを握ろうとした。
だが、うまく力が入らない。
視界が揺れる。
……まずい。
そう思ったときには、身体が崩れ落ちていた。
冷たい床の感触。
遠くから聞こえる、誰かの声。
……何だろう。
……母さん。
ごめん。
結局、何も恩返しできなかったな。
また、帰るって約束したのに。
……。
そう思ったところで、僕の意識は途切れた。
◇
次に覚えているのは、見知らぬ天井だった。
粗末な木の板でできた天井。
薄い毛布。
そして、周囲から聞こえる子供たちの声。
……何だ、ここは?
身体を起こそうとして、違和感を覚えた。
手が小さい。
足も短い。
……えっ?
どうやら、僕は子供になっていたらしい。
しかも、周囲の人々は日本語ではない言葉を話している。
なのに、不思議なことに意味は理解できた。
……もしかして、転生というやつだろうか。
その場所は、孤児院だった。
僕の名前は、トルーキン・レッドゲート。
どうやら、この世界での僕の名前らしい。
それにしても。
周囲を見渡す。
薄い寝具。
古びた家具。
そして、食事は固いパンと薄いスープ。
……。
前世より貧乏じゃないか!
せっかく生まれ変わったというのに。
どうして、またこんな環境なのだろうか。
……まったく。
神様がいるなら、一度くらい文句を言ってやりたい。
だが、嘆いていても仕方がない。
せっかく、もう一度人生をやり直せるのだ。
今度こそ、成功してやる。
僕は、そう決めた。
◇
それから、僕は勉強を始めた。
もちろん、最初は文字を覚えるところからだった。
前世の知識はあっても、この世界の文字や歴史を知らなければ意味がない。
院長先生に本を借り、わからないことを尋ねた。
孤児院に本は多くなかったが、町の教会でも書物を見せてもらうことができた。
僕は、時間を見つけては勉強を続けた。
この国では、王宮で働くことができれば、比較的安定した暮らしが望めるらしい。
しかも、王族に認められれば、平民でも出世できる可能性があるという。
……よし。
目標は決まった。
王宮で働くのだ。
そのためには、王立学院に入学し、優秀な成績で卒業する必要がある。
僕は、ますます勉強に励んだ。
そんなある日のこと。
「トルーキン!」
孤児院の年下の男の子が、僕のところへやってきた。
「これ、教えて!」
差し出されたのは、簡単な計算問題だった。
「どこがわからない?」
「……全部!」
……。
何だか、聞き覚えのある答えだな。
僕は思わず笑ってしまった。
「じゃあ、一緒にやろうか」
「うん!」
僕は、小さな石をいくつか集めた。
石を並べたり、分けたりしながら、計算の仕組みを説明する。
すると、少年が声を上げた。
「あっ!わかった!」
少年は嬉しそうに笑った。
……。
何だろう。
この感じ。
どこか、懐かしい。
……ああ、そうか。
前世で家庭教師をしていたときと同じだ。
自分が知っていることを教える。
相手が理解する。
そして、嬉しそうに笑う。
世界が変わっても、こういうことは変わらないらしい。
僕は、少しだけ嬉しくなった。
◇
やがて、僕は王立学院へ入学した。
もちろん、簡単な道のりではなかった。
入学試験に向けて必死に勉強し、合格を勝ち取った。
しかし、学院に入ってからも苦労は続いた。
周囲には、貴族の子供たちが大勢いた。
彼らの中には、平民出身の僕を見下す者もいた。
「孤児院育ちが、王立学院に?」
「どうせ、卒業しても大した仕事には就けないだろう」
……。
言いたいことは、いろいろあった。
だが、相手にしても仕方がない。
僕には、やるべきことがある。
今度こそ、お金持ちになる。
安定した仕事に就き、立派な家に住む。
そして、好きなものを食べて、休日には昼まで眠るのだ。
……そのためなら、少しくらい馬鹿にされても構わない。
僕は勉強を続けた。
思うように成績が上がらず、悔しい思いをしたこともあった。
それでも、諦めなかった。
そして、卒業の日。
僕は、王立学院を首席で卒業した。
王宮の採用試験にも合格していた。
そして、王族付きの執事として働くことが決まった。
……素晴らしい。
安定した職場。
将来の出世も期待できる。
今度こそ、僕の人生は順調に進む。
そう信じていた。
◇
……。
目を開けると、見慣れた天井があった。
王宮にある、僕の自室だ。
窓の外から、鳥の鳴き声が聞こえてくる。
僕は、ゆっくりと身体を起こした。
まだ、朝は早い。
もう少し眠っていてもよさそうだ。
だが、目はすっかり覚めてしまった。
……井上定助、か。
ずいぶん懐かしい名前だ。
僕は、ベッドの端に腰掛けた。
前世では、努力さえすれば何でもできると思っていた。
そして、その考えが正しくないことを、嫌というほど思い知らされた。
だが、努力すること自体が間違っていたとは思わない。
努力したからこそ、東大に合格できた。
家庭教師の仕事にも出会えた。
今世でも、王立学院を首席で卒業し、王族付きの執事になれた。
……そう考えれば、悪くない人生なのかもしれない。
もっとも。
王宮での仕事は、想像していたものとはずいぶん違った。
配属初日に、王女殿下が石柱を粉砕するところを目撃した。
救護院の不正を暴き、騎士団の騒動に巻き込まれ、洗濯機まで作ることになった。
最近では、播種機の開発や王位継承問題にまで関わっている。
……。
おかしい。
僕が望んでいたのは、もっと平穏な生活だったはずだ。
少しずつ出世して、給料を増やし、大きな屋敷に住む。
そして、休日には昼まで眠る。
ただ、それだけだったのだ。
……まったく。
どうして、こんなことになってしまったのだろうか。
だが、不思議と嫌な気分ではなかった。
ふと、エクレシア殿下の顔が浮かんだ。
初めて難しい計算問題を解けたときの笑顔。
洗濯機が動いたときの歓声。
播種機の試験が成功したときの、嬉しそうな姿。
そして、農民たちと一緒に喜んでいた顔。
……そうか。
何だか、前世で家庭教師をしていた頃に似ている。
できなかったことが、できるようになる。
わからなかったことを理解する。
そして、少しずつ成長していく。
僕は昔から、そういう姿を見るのが好きだったのだ。
もっとも、殿下の場合は少々事情が違う。
勉強の途中でお菓子を食べたがるし、隙あらば拳を振るおうとする。
しかも、今や王位継承をめぐる争いの中心に立たされようとしている。
……。
ずいぶん手のかかる生徒を受け持ってしまったものだ。
だが、あの方には、あの方にしかできないことがある。
僕の役目は、彼女の長所を伸ばす手助けをすることなのだろう。
とはいえ、僕は自分の夢を諦めたわけではない。
今度こそ、出世して金持ちになる。
大きな屋敷に住み、好きなものを食べて、できれば綺麗な女性と結婚し、休日には昼まで眠る。
その夢は、今でも変わっていない。
ただ、前世のように身体を壊してまで働くつもりはない。
今度こそ、長生きしてやる。
……。
僕は、窓の外へ目を向けた。
朝日が、ゆっくりと王宮を照らし始めている。
……よし。
今日も頑張るとしよう。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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