第13話② その薬は本物ですか?
「早く道を開けろ!」
グラントが怒鳴った。
その手には短剣が握られ、刃先はエルナの首に押し当てられている。
衛兵たちは武器を構えたまま、動けずにいた。
……まずいな。
相手は人質を取っている。
不用意に近づけば、エルナの命が危ない。
「監督官!早く衛兵を下がらせろ!」
「グラント殿。まずは落ち着いてください」
「うるさい!俺の言うことを聞け!」
グラントは興奮している。
エルナを抱え込んだ腕にも、かなり力が入っている。
「痛い……!」
エルナが小さく声を上げた。
「黙ってろ!」
……。
これ以上、刺激するのは危険だな。
僕はゆっくりと息を吐いた。
さて、どうする。
相手は短剣を持っている。
こちらには衛兵がいる。
そして、エクレシア殿下もいる。
戦力だけを比較すれば、こちらが圧倒的に有利だ。
だが、今回は単純な戦いではない。
何よりも優先すべきなのは、エルナを無事に救出することだ。
僕は《算神》を発動した。
グラントとエルナの位置。
短剣の向き。
衛兵たちとの距離。
そして、倉庫内の木箱の配置。
……ふむ。
難しい計算をする必要はない。
まず、守らなければならない条件を一つ決める。
エルナを傷つけないこと。
あとは、その条件を満たしたうえで、グラントを止める方法を考えるだけだ。
言葉にすれば簡単だが、実行するのは難しいな。
「ねえ、トルーキン」
殿下が小さな声で呼びかけてきた。
「はい」
「……エルナさん、助けられる?」
殿下はエルナを見つめている。
いつもの元気な声ではなかった。
「方法を考えております」
「……うん」
「ですので、まだ動かないでください」
「わかってる」
殿下は小さくうなずいた。
……なるほど。
以前なら、真っ先に飛び出していたかもしれない。
だが、今は僕の言葉を待ってくれている。
ありがたいことだ。
「おい! 何をこそこそ話してやがる!」
グラントが怒鳴った。
「俺を逃がす気があるのか!?」
「もちろん、エルナ殿の安全を最優先に考えております」
僕は落ち着いた声で答えた。
「ですから、まずは短剣を離していただけませんか?」
「馬鹿にするな!」
グラントが怒鳴り返す。
「そんなことをしたら、すぐに捕まえるつもりだろうが!」
……まあ、そう考えるだろうな。
「でしたら、少なくともエルナ殿を傷つけないでください」
「うるせえ!」
グラントは短剣を握り直した。
「俺は何も悪いことなんかしてねえんだ!」
……何?
「たかが薬草を少し替えただけだろうが!何がそんなに問題なんだ!」
監督官の表情が険しくなった。
「グラント殿。それは契約違反です。患者の治療にも影響を及ぼしかねない行為ですぞ」
「だから何だ!」
グラントが怒鳴り返す。
「救護院の連中なんぞ、まともに金も払えねえくせに薬ばかり要求しやがる!」
「……!」
殿下が息をのんだ。
「……お金がないから?」
小さな声だった。
グラントが殿下へ目を向ける。
「ああ、そうだよ!金を払えねえ連中に、高い薬を使ってやる必要なんかねえだろ!」
「……でも、病気の人たちが苦しんでるんだよ?」
「そんなもの、俺の知ったことか!」
……。
ひどい言い分だな。
そもそも、救護院への薬草は契約に従って代金が支払われている。
患者自身が費用を負担できないことなど、粗悪品を納める理由にはならない。
それを承知で、この男は不正を続けていたのだろう。
「……ミーナちゃんも」
殿下が、ぽつりとつぶやいた。
「何だと?」
「ミーナちゃんも、苦しんでたんだよ」
グラントは顔をしかめた。
「誰だ、そいつは」
「救護院にいた女の子だよ」
「知らねえな!」
「……まだ八歳なんだよ」
殿下の声が、少し震えた。
「ずっと熱があって、苦しそうで……」
「だから何だってんだ!」
「元気になったら、お外で遊びたいって言ってた」
……。
殿下は、拳を握りしめていた。
「……外で遊びたいだけなんだよ」
その声には、怒りだけではない何かが混ざっていた。
僕は、思わず殿下を見る。
「まだ、やりたいことがいっぱいあるんだよ」
「そんなこと知るか!」
「……お母さんだって」
殿下が、唇を噛んだ。
「ずっとそばにいて、心配してるんだよ」
……。
僕は少し驚いた。
殿下の表情が、これまで見たことのないものになっていたからだ。
「自分の子供が苦しんでるのに、何もしてあげられないんだよ……」
殿下の目に、うっすらと涙が浮かんでいた。
「どんなに苦しくても、代わってあげられないんだよ……」
……殿下?
なぜ、そこまで。
この方は、確かに優しい。
困っている人を見れば、放っておけない性格だ。
だが、今の言葉には、単なる同情とは違う切実さがあった。
まるで、ご自身が同じ苦しみを知っているかのような。
「……ねえ」
殿下が、グラントを見つめた。
「病気の人だって、生きたいんだよ」
「……」
「お母さんだって、子供が元気になるのを待ってるんだよ」
その声は、震えていた。
「それを、お金にならないからって……」
殿下が、ぎゅっと拳を握りしめる。
「……ひどいよ」
グラントは鼻で笑った。
「だったら、おまえが金を出してやればいいだろうが!」
「……っ!」
「薬が効かずに死んだって、俺のせいじゃねえ!」
その瞬間。
殿下が、一歩前へ出ようとした。
「殿下」
僕が声をかける。
殿下は、ぴたりと足を止めた。
……。
「……わかってる」
静かな返事だった。
その拳は、まだ下ろされていない。
だが、殿下は動かなかった。
……よし。
今は、それでいい。
僕は、倉庫の中をもう一度見回した。
グラントの背後には、薬草の入った木箱が積み上げられている。
右手には通用口。
僕たちのいる搬入口の左側にも、大きな木箱がある。
……ふむ。
《算神》で距離と位置関係を整理する。
グラントまで、正面からはおよそ七歩。
だが、搬入口の左側に積まれた木箱の陰なら、三歩ほどの距離まで近づける。
問題は、グラントに気づかれることだ。
……いや。
木箱の位置をよく見れば、それも避けられそうだ。
僕は、グラントの目線と木箱の角を確認した。
視線は、木箱の向こう側までは届かない。
つまり、グラントから見えない範囲があるということだ。
……なるほど。
図形として考えれば、さほど難しい問題ではない。
グラントの位置と木箱の角を結ぶ。
その線の向こう側が、相手から見えない場所になる。
前世では、もっと複雑な数学にも取り組んできた。
だが、今役に立つのは、基本的な幾何学だった。
正面から七歩。
木箱の陰からなら三歩。
殿下の身体能力を考えれば、その差は大きい。
ただし、距離が短くなったからといって、すぐに攻撃できるわけではない。
エルナの首に短剣が突きつけられている以上、危険なことに変わりはない。
……ならば。
その位置で、機会を待つことにしよう。
「殿下」
僕は小さな声で呼びかけた。
「……なに?」
「あちらの木箱の陰へ移動してください」
「……どうして?」
「そこからなら、グラントに近づく距離が短くなります」
「……そっか」
「ただし、私が合図するまでは絶対に動かないでください」
「……うん。わかった」
殿下が、しっかりとうなずいた。
僕は監督官へ目を向ける。
そして、殿下を下がらせるという意思を身振りで伝えた。
監督官も小さくうなずく。
「グラント殿。王女殿下を危険な場所からお下がりいただきます」
僕が声をかけると、グラントがこちらを睨みつけた。
「勝手にしろ!ただし、妙な真似をするなよ!」
「承知いたしました」
僕は殿下を促した。
「殿下。こちらへ」
「……うん」
殿下は、ゆっくりと木箱の陰へ移動する。
グラントは一度こちらを見たが、すぐに監督官へ視線を戻した。
「早く通用口の衛兵をどかせろ!」
……よし。
殿下の姿は、木箱に隠れている。
僕は《算神》で位置を確認した。
グラントからは、殿下がどこにいるのかわからないはずだ。
一方、僕からはグラントの姿が見える。
……さて。
これで準備は整った。
あとは、エルナ殿が危険にさらされない瞬間を待つだけだ。
◇
「道を開けろ!」
グラントが再び叫んだ。
「俺はこの女を連れて出ていく!」
監督官が慎重に答える。
「わかりました。ですが、エルナ殿を傷つけないと約束してください」
「そんなもん、俺の知ったことか!」
……まずいな。
興奮が収まる様子はない。
グラントはエルナを引きずるようにして、通用口へ向かおうとした。
しかし、そこには衛兵がいる。
「どけ!」
グラントが怒鳴る。
「早くどかねえと、この女を殺すぞ!」
監督官が、衛兵へ少し下がるよう指示した。
グラントは、じりじりと移動を始める。
……ふむ。
木箱との位置関係も変わってきたな。
僕は、グラントと殿下の距離を確認した。
……三歩。
殿下なら、一瞬で詰められる距離だ。
だが、まだ駄目だ。
短剣はエルナの首元にある。
そのとき、エルナが苦しそうに声を上げた。
「……お願いです」
「黙れ!」
「……もう、やめてください」
「うるせえ!」
グラントが怒鳴り返す。
「全部、おまえのせいだ!」
「……っ!」
「余計なことを調べやがって!」
グラントの顔が、怒りで歪んでいた。
「おまえが黙っていれば、こんなことにはならなかったんだ!」
エルナは、震えながら答えた。
「……でも、患者さんたちが……」
「黙れと言ってるだろうが!」
グラントが、突然エルナを突き飛ばした。
「きゃっ!」
エルナの身体が、床へ倒れ込む。
次の瞬間。
グラントが短剣を振り上げた。
「死ねえっ!」
……まずいな。
刃先が、倒れたエルナへ向けられる。
だが、僕には一つだけ確かなことがわかった。
短剣が、エルナの首から離れた。
そして、グラントの身体も彼女から離れている。
……今だ。
「殿下」
殿下に声をかけた。
「今でございます」
木箱の陰から、小さな身体が飛び出した。
……速い。
エクレシア殿下は、一瞬でグラントとの距離を詰めていた。
「……っ!?」
グラントが目を見開く。
殿下は、短剣を握った腕を下から押し上げた。
刃先が、エルナから外れる。
ガキンッ!
短剣が近くの木箱に当たり、乾いた音を立てた。
「な、何だ!?」
グラントが叫ぶ。
その隙に、殿下はエルナの前へ回り込んだ。
「エルナさん!」
倒れた彼女を守るように立つ。
「早く、こちらへ」
僕も駆け寄った。
衛兵がエルナを抱え起こし、安全な場所へ下がらせる。
よし。
エルナ殿は、ひとまずグラントから離れた。
だが、まだ終わっていない。
「この……!」
グラントが、怒りに顔を歪ませる。
「邪魔しやがって!」
そして、再び短剣を構えた。
今度は、目の前のエクレシア殿下へ刃を向ける。
「殺してやる!」
……まったく。
どこまで愚かな男なのだろうか。
人質は、もういない。
衛兵たちも、すぐに動ける。
それでもなお、武器を捨てるつもりはないらしい。
「グラント殿!短剣を捨てなさい!」
監督官が叫んだ。
しかし、男は聞く耳を持たなかった。
「うるせえ!」
短剣を振り上げ、殿下へ向かってくる。
……。
これ以上、話し合いで止めるのは難しそうだな。
僕は、殿下を見た。
エクレシア殿下は、グラントをまっすぐに見つめている。
その表情に、迷いはなかった。
「殿下」
「はい!」
「今こそ、拳をお上げください」
「……うん!」
殿下が、ぐっと拳を握った。
そして、グラントの振り下ろした短剣をかわす。
「……っ!?」
グラントが目を見開いた。
殿下は、その懐へ踏み込む。
「や、やめてー!」
小さな拳が、情けない声を出すグラントの腹部へ叩き込まれた。
ドンッ!
「ぐはっ!」
グラントの身体が、くの字に折れ曲がる。
短剣が手から離れ、床を転がった。
男はその場に膝をつき、苦しそうに息を吐く。
「がっ……はっ……」
そして、そのまま横倒しになった。
やはり一撃か。
だが、殿下は力を抑えたようだ。
それでも、普通の人間が耐えられる威力ではない。
「衛兵!」
監督官が叫ぶ。
「取り押さえろ!」
「はっ!」
衛兵たちが駆け寄り、グラントを拘束した。
落ちた短剣も回収される。
……よし。
これで、ひとまず事件は収まった。
「呼吸はあります!」
グラントの状態を確認していた衛兵が報告する。
「意識もございます。治療師を呼びます!」
……それは何よりだ。
いくら悪人であっても、命を奪ってよいわけではない。
「殿下」
僕は、エクレシア殿下のもとへ向かった。
「お怪我はございませんか?」
「うん!私、大丈夫!」
「それは何よりでございます」
……まったく。
心臓に悪いことだ。
もっとも、今回は殿下のお力がなければ、エルナ殿を無事に救出できたかどうか。
「……トルーキン」
「はい?」
「ちゃんと、力を抑えたよ」
殿下が、小さな声で言った。
「殺しちゃ駄目だもんね」
……。
僕は、殿下を見つめた。
「……お見事でございました」
「……えへへっ」
殿下が、少し照れくさそうに笑う。
そして、ふと思い出したように顔を上げた。
「……あっ!」
「どうなさいました?」
「エルナさん!」
殿下が、床に座り込んでいたエルナのもとへ駆け寄った。
「大丈夫!? 怪我してない!?」
エルナは、近くにいた衛兵に支えられていた。
「は、はい……」
震える声で答える。
「怖かったですが……大丈夫です」
首元には、短剣が触れた小さな傷ができていた。
幸い、深い傷ではないようだ。
だが、念のため治療を受けてもらう必要があるだろう。
「……痛い?」
殿下が尋ねる。
「……少しだけ」
「そっか……」
殿下は、そっとエルナの手を握った。
「怖かったよね」
「……はい」
エルナの目から、涙がこぼれた。
「……本当に、ありがとうございました」
声が震えている。
「もう、駄目かと思いました……」
「……うん」
殿下は、エルナの手を両手で包み込んだ。
「でも、もう大丈夫だよ」
「……はい」
「もう、あの人は何もできないから」
エルナは何度もうなずいた。
その姿を見て、殿下もようやく笑顔を見せた。
「……よかった」
小さな声だった。
僕は、その横顔を見つめていた。
……なるほど。
殿下は、グラントを倒したことを喜んでいるわけではない。
エルナ殿を守れたことに、安心しているのだ。
……。
この方の拳は、以前よりもずいぶん変わったのかもしれない。
◇
その後、グラントは衛兵によって連行された。
倉庫で見つかった帳簿からは、救護院への納品に関する不正を裏づける記録が見つかった。
正規品の薬草を別の取引先へ高値で販売し、救護院には安価な類似品を納めていたらしい。
しかも、救護院へ請求していたのは、正規品を納めた場合と同じ金額だった。
……なるほど。
品質を落とした分だけ、余分な利益を得ていたわけだ。
監督官は正式な調査を進めるとともに、ほかの救護院や施療施設にも同じような不正がないか確認することを決めた。
グラント商会との取引についても、調査が終わるまで停止されるという。
……ひとまず、不正の拡大は防げそうだ。
ただ、今回の問題は商会主一人を捕まえれば終わりというものではない。
「監督官殿」
「はい」
「今後は、納品された品物の品質についても確認する仕組みが必要でしょう」
「……確かに、そのとおりですな」
「帳簿上の数量が一致していても、品物そのものが違っていては意味がございません」
「専門知識を持つ者の協力が必要になりますな」
「そうでございますね。納品時に確認する担当者を決め、記録を残すだけでも、同じ不正を防ぎやすくなるかと存じます」
監督官がうなずいた。
「承知いたしました。救護院の責任者とも相談いたします」
「お願いいたします」
……さて。
もう一つ、考えるべきことがある。
救護院で使っていた薬草の六割以上が、契約とは違う品物だった。
それらをすべて正規品に替える必要がある。
しかし、別の商会から一度に調達できるとは限らない。
「監督官殿。各商会の在庫と、救護院が必要とする薬草の量を確認していただけますか?」
「それは構いませんが……」
「もし一か所で必要量を賄えない場合でも、複数の商会から少しずつ仕入れれば、早く揃えられるかもしれません」
「……なるほど」
「どこから、どれだけ仕入れるか。輸送にかかる時間も含めて計算すれば、効率のよい組み合わせを見つけられるでしょう」
監督官が感心したようにうなずいた。
「確かに、それなら一つの商会を待つ必要はありませんな」
……ふむ。
こうした数量や距離の問題は、僕の得意分野だ。
数字を整理すれば、解決策が見えてくることも多い。
もちろん、実際に薬草を運ぶのは人間だ。
最後は商人や治療師たちの協力が必要になる。
……まあ。
それも含めて、皆で力を合わせればよいだろう。
◇
数日後。
僕とエクレシア殿下は、再び救護院を訪れた。
不正のあった薬草に代わり、複数の商会から正規品が届けられたという。
エルナも、すでに仕事へ復帰していた。
「エルナさん!」
殿下が嬉しそうに駆け寄る。
「もう大丈夫!?」
「はい。おかげさまで、傷もほとんど治りました」
「よかったぁ!」
殿下が満面の笑みを浮かべた。
……まったく。
こういうときは、本当に嬉しそうだな。
「殿下。本日は、ミーナの様子も見ていかれますか?」
エルナが尋ねる。
「うん!」
殿下が大きくうなずいた。
「ミーナちゃん、元気になった!?」
「まだ治療は続いておりますが、少しずつ落ち着いてきております」
「ほんと!?」
「はい。今朝は、少し食事も取れました」
「やったぁ!」
殿下が両手を上げた。
……。
僕も、少し安心した。
もちろん、薬草が正規品に戻ったからといって、それだけですべての病気が治るわけではない。
だが、必要な治療ができるようになったことは、間違いなくよいことだ。
◇
ミーナは、以前と同じ寝台に横になっていた。
まだ少し顔色は悪いが、前に会ったときよりも表情は明るい。
「ミーナちゃん!」
殿下が声をかける。
女の子が顔を上げた。
「……あっ、王女様!」
「こんにちは!」
殿下が笑う。
「具合はどう?」
「……ちょっとよくなった」
「ほんと!?」
「うん。今日は、ご飯も食べられたよ」
「よかったぁ!」
殿下が嬉しそうに笑った。
寝台のそばには、母親が座っていた。
以前よりも、少し表情が明るくなっている。
「エクレシア殿下……」
母親が深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます」
「えっ?」
「殿下のおかげで、娘はまた治療を受けられるようになりました」
「……ううん」
殿下が首を振った。
「私だけじゃないよ」
そして、エルナへ目を向ける。
「エルナさんも、ずっと頑張ってたんだよ」
「……殿下」
「それに、ほかの治療師さんたちも!」
殿下が笑う。
「みんなで頑張ったんだよ!」
母親は、目に涙を浮かべながらうなずいた。
「……はい」
そのとき、ミーナが小さく手を伸ばした。
「王女様……」
「なあに?」
「私、早く元気になりたいな」
「……うん」
「元気になったら、お外で遊べるかな?」
殿下の表情が、少し変わった。
……おや。
先ほどまで笑っていたのに、急に真剣な顔になっている。
「……うん」
殿下は、ミーナの手を握った。
「きっと、遊べるようになるよ」
「……ほんと?」
「うん!」
殿下が微笑む。
「お外って、楽しいことがいっぱいあるんだよ」
「……うん」
「お日様も気持ちいいし、風も気持ちいいし……」
殿下が、少し言葉を止めた。
そして、ミーナの手を優しく握り直す。
「……自分の足で歩いて、好きなところに行けるのって、本当に嬉しいことなんだよ」
……。
僕は、思わず殿下を見た。
その声が、妙に切実だったからだ。
普段の殿下は、元気いっぱいに走り回っている。
だが、今は違う。
何か、とても大切なことを思い出しているような。
そんな表情だった。
「……王女様?」
ミーナが首を傾げる。
殿下は、はっとしたように顔を上げた。
「あっ、ごめんね!」
そして、いつもの笑顔に戻る。
「元気になったら、いっぱい遊ぼうね!」
「……うん!」
ミーナが嬉しそうに笑った。
◇
そのあと、殿下はミーナの母親へ向き直った。
「ねえ、お母さん」
「……はい?」
「ちゃんと寝てる?」
母親が、少し驚いた顔をした。
「……え?」
「ずっとミーナちゃんのそばにいるんでしょ?」
「……はい」
「夜も、あんまり寝てないんじゃない?」
母親は、少し困ったように笑った。
「娘が心配で、なかなか眠れなくて……」
「……そっか」
殿下が、母親の顔をじっと見つめた。
「……大変だったね」
小さな声だった。
母親の目に、涙が浮かんだ。
「……はい」
「ずっと、心配だったんだよね」
「……はい」
「ミーナちゃんが苦しいと、お母さんも苦しいんだよね」
母親は、とうとう涙をこぼした。
「……そうなんです」
殿下は、そっと母親の手を取った。
「でもね」
「……はい」
「お母さんがそばにいてくれるだけで、ミーナちゃんは嬉しいと思うの」
……。
殿下の声が、少し震えていた。
「何もしてあげられないって思っても……」
そこで、殿下は一度言葉を止めた。
そして、母親の手を握り直す。
「……そばにいてくれるだけで、すごく嬉しいこともあるんだよ」
……。
僕は、少し驚いた。
その言葉が、あまりにも自然だったからだ。
まだ十三歳の少女だというのに。
病気の子供の気持ちも、その親の苦しみも、ずいぶん深く理解されている。
母親は、涙を拭いながら何度もうなずいていた。
「……ありがとうございます」
そして、殿下の手を両手で握った。
「本当に……ありがとうございます……」
殿下は、静かに微笑んだ。
「……うん」
その笑顔は、どこか寂しそうにも見えた。
◇
救護院から戻ると、今回の事件について王宮への報告が行われた。
グラント商会の不正。
救護院への薬草供給に関する問題。
そして、商会主が治療師を人質に取ったこと。
これらは監督官を通じて、正式に報告されることになった。
また、先日救護院を視察されたレオンハルト王太子殿下のもとにも、関係する報告が届けられるという。
王太子殿下にとっても、自ら視察した施設で不正が発覚したことは、無関係ではないだろう。
もっとも、今回の件について、王太子殿下がどのようにお考えになるかはわからない。
僕たちは、まだ直接お会いできていないのだから。
……さて。
いつか、エクレシア殿下とレオンハルト殿下が、今回の出来事について話し合える日が来ればよいのだが。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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