第7話① 買い占めは罪ではございません
「……あと四日ですか」
王宮の一室。
僕は牧場から届いた手紙を見つめていた。
先日訪れた牧場では、干し草が不足している。
新しい仕入れ先が見つからなければ、あと四日で蓄えがほとんどなくなってしまうらしい。
もちろん、放牧地にも草は残っている。
しかし、安全な場所の草は牛たちがほとんど食べてしまった。
このままでは、また森の近くへ連れていかなければならない。
……困ったな。
「ねえ、トルーキン!」
机の向こうから、エクレシア王女殿下が顔を覗き込んだ。
「はい」
「牛たちのご飯、まだ見つからないの?」
「これから調べるところでございます」
「じゃあ、私も行く!」
「殿下。本日は礼法の授業がございます」
「ええーっ!」
殿下が頬を膨らませた。
「でも、牛たちが困ってるんだよ!」
「はい。ですから、まずは私が仕入れ先を調べてまいります」
「一人で?」
「その予定でございます」
「……ずるい!」
……何がずるいんだ。
「殿下。今回は商人の方々からお話を伺うのが目的でございます」
「私だってお話できるよ!」
「もちろん存じております。ただ、商売に関するお話が中心になるかと」
「……数字がいっぱい?」
「おそらく」
「……むぅ」
殿下はしばらく考え込んだ。
「じゃあ、私が干し草を刈ってきた方が早いんじゃない?」
「干し草は、草を刈ればすぐにできるわけではございません」
「えっ?」
「乾燥させる必要がございます」
「じゃあ、いっぱい刈って、乾かせばいいんだ!」
「それでは、本日は殿下一人で何頭分の餌を用意できるか、計算してみましょうか」
「……やっぱり、数字?」
「はい」
「ええーっ!」
……まったく。
元気のよいお方だ。
「調べたことは、戻り次第ご報告いたします」
「ほんと!?」
「はい」
「じゃあ、頑張ってね!」
「承知いたしました」
「悪い人がいたら、私がやっつけるから!」
……。
できれば、そのような方とは出会いたくないものだ。
◇
「……倍近い値段ですね」
王都の商業地区。
僕は、飼料を専門に扱うオルセン商会を訪れていた。
店先には、大量の干し草が積まれている。
先日、牧場主から借りた注文記録と、現在の販売価格を比較する。
ひと月ほど前から、干し草の値段は急激に上昇していた。
そのうえ、注文しても届かないことが増えている。
「最近は、どのお客様も同じことをおっしゃいます」
そう言って苦笑したのは、店主のオルセンだ。
四十代半ばほどの男で、身なりはよく、物腰も柔らかい。
「仕入れ値が上がっているのでしょうか?」
「ええ。それもございます」
「ほかにも理由が?」
「……商売でございますからな」
オルセンが笑った。
「安く仕入れたものを、高く売る。そういうこともございます」
……ほう。
実に正直な商人だ。
「では、国境での問題を予測して、事前に買い付けておられたのですか?」
オルセンの眉が、わずかに動いた。
「……よくご存じで」
「ルーフェン帝国との国境で、緊張が高まっておりますので」
「ええ。もし戦いが始まれば、軍は大量の物資を必要とします。軍馬の飼料も例外ではございません」
「そこで、値段が上がる前に仕入れたと」
「そのとおりです」
オルセンは頷いた。
「もっとも、予想が外れていれば、私は損をしていたでしょう」
「在庫を保管するにも、費用がかかりますからね」
「ええ。干し草は、積んでおけばよいというものでもございません」
湿気を避け、傷まないよう管理する。
倉庫の維持にも、従業員の給金にも金がかかる。
大量に仕入れても、売れなければ損失になる。
その危険を引き受けて利益を得ようとしている。
……正当な商売だ。
「牧場の方々は、お困りのようですが」
僕が言うと、オルセンは頷いた。
「存じております。しかし、私どもにも従業員がおりますので」
「ええ。その点は理解しております」
「……意外ですな」
「何がでございますか?」
「王宮からいらした方ですので、てっきり安く売るよう命じられるのかと」
……なるほど。
身分を利用して、無理な要求をする者もいるのだろう。
「私は商売の邪魔をしに来たわけではございません」
「では、何を?」
「なぜ、これほど干し草が不足したのか。それを知りたいのです」
オルセンは僕を見た。
少しだけ、表情が変わった。
「……そういうことでしたか」
◇
商会の倉庫へ案内してもらう。
中には、大量の干し草が積まれていた。
天井近くまで届く束もある。
「随分と仕入れておられるのですね」
「ええ。早めに手配いたしましたので」
「王都近郊の農家から、これほどの量を?」
「いえ。各地から仕入れております」
僕は倉庫を見渡した。
束ね方が違う。
荷札の形も、いくつかに分かれている。
仕入れ先が複数あるのだろう。
だが、奥に積まれた干し草だけは、同じ印の荷札が並んでいた。
「大口の仕入れ先もあるのですね」
「……ええ」
「そちらからの仕入れ量が、最近増えたのでしょうか?」
オルセンが僕を見る。
「……何をお知りになりたいので?」
「特定の仕入れ先から、大量の商品が市場へ出ているのではないかと思いまして」
「申し訳ございませんが、取引先についてはお答えできません」
「承知いたしました」
……当然だ。
商人にとって、仕入れ先は大切な財産である。
簡単に教えてくれるはずがない。
「では、別のことを伺ってもよろしいでしょうか?」
「何でしょう?」
「現在の在庫は、いつ頃まで保管されるご予定ですか?」
「……相場次第でございますな」
「そうでございますか」
「今後、さらに値段が上がる可能性もございますので」
……ふむ。
それも商売だ。
だが、少々気になる。
王都近郊の牧場では干し草が足りず、森の近くまで牛を放牧している。
一方、商人たちは価格の上昇を見込んで在庫を保有している。
もちろん、それ自体が悪いわけではない。
ただ、この状況が続けば、牧場の負担はさらに大きくなるだろう。
「……失礼いたします」
そのときだった。
倉庫の入口から、若い従業員が顔を出した。
「旦那様。お客様がお見えです」
「誰だ?」
「ハルゼン伯爵家の方でございます」
……伯爵家?
オルセンの顔から、笑みが消えた。
「……そうか。応接室へお通ししろ」
「承知しました」
従業員が去っていく。
オルセンは僕へ向き直った。
「申し訳ございません。少々、席を外してもよろしいでしょうか?」
「もちろんでございます」
「ありがとうございます」
そう言って、オルセンは足早に倉庫を出ていった。
……ハルゼン伯爵。
確か、王国軍の飼料調達を任されている人物だったはずだ。
国境での緊張が高まった際、軍馬用の飼料を確保するため、調達事業を担当することになったと聞いている。
その伯爵家の者が、飼料商を訪ねてきた。
……偶然だろうか。
◇
しばらくして。
僕が店先で牧場の注文記録を確認していると、応接室の扉が開いた。
先に出てきたのは、立派な上着を着た男だった。
三十代ほどだろうか。
胸元には、ハルゼン伯爵家の紋章が付いている。
後ろから、オルセンが続く。
「それでは、ご検討のほど、よろしくお願いいたします」
男が穏やかに言った。
「……承知いたしました」
オルセンが頭を下げる。
「伯爵閣下も、今後の取引を大切にしたいとお考えです」
「はい」
「よいお返事を期待しております」
男が出口へ向かう。
そこで、僕に気づいた。
「……おや?」
「こんにちは」
僕は軽く頭を下げた。
男の視線が、僕の服装へ向く。
「王宮の方でございますか?」
「はい。エクレシア王女殿下にお仕えしております」
「……ほう」
男は、わずかに目を細めた。
「これは失礼いたしました」
「とんでもございません」
「本日は、こちらへお買い物に?」
「少々、干し草について調べておりまして」
「……干し草を?」
「はい。先日訪れた牧場で、干し草が不足していると伺いまして」
「……なるほど」
男は小さく笑った。
「それは大変ですな」
「はい」
「ただ、商人にも商人の事情がございます。王宮の方々にも、その点をご理解いただければ幸いです」
「もちろんでございます」
僕は頷いた。
「正当な商売を妨げるつもりはございませんので」
「……それならば結構」
男は、今度はオルセンへ目を向けた。
「では、先ほどの件、よろしくお願いいたします」
「……はい」
男が店を出ていった。
……妙だな。
いや、男の言葉自体は何もおかしくない。
ただ、先ほどまで柔らかく笑っていたオルセンが、ひどく疲れた顔をしている。
……何かあったのだろうか。
◇
「……お恥ずかしいところをお見せしました」
オルセンは深く息を吐いた。
「何かお困りのようですね」
「……商売には、いろいろございますので」
「そうでございましょうね」
僕は頷いた。
それ以上、無理に尋ねることはしなかった。
しばらく沈黙が続く。
オルセンは、机の上に置かれた書類を見つめていた。
先ほどの男が持参したものらしい。
「……トルーキン殿」
「はい」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「何でしょう?」
「もし、取引先から書類の内容を変更するよう求められた場合、断ってもよいものなのでしょうか?」
……ほう。
「内容によるかと存じます」
「……そうですか」
「実際に誤りがあるのであれば、訂正すべきでしょう。しかし、正しい記録を事実と異なる内容に変えるのであれば、慎重に考える必要がございます」
オルセンは黙って聞いていた。
「……実を申しますと」
ようやく、口を開いた。
「先ほどの方から、以前の取引について、記録を訂正してほしいと求められたのです」
「どちらの取引でしょう?」
「ハルゼン伯爵家から購入した干し草でございます」
……なるほど。
やはり、あの大口の仕入れ先は伯爵家だったのか。
「何を訂正するのでしょうか?」
「商品の引き渡し場所でございます」
「引き渡し場所?」
「はい。実際には王国の第三飼料中継倉庫で商品を受け取ったのですが、伯爵家の私有倉庫で受け取ったことにしてほしいと」
……ん?
「理由は何と?」
「記載を間違えたため、帳簿を整理したいとのことでした」
「しかし、実際には第三飼料中継倉庫で受け取られたのですね?」
「はい。私どもの従業員が、そこで荷物を受け取っております」
……妙だ。
記録の誤りならば、正しい内容に訂正するはずだ。
しかし、実際に受け取った場所を、別の場所へ変更しようとしている。
「オルセン殿。訂正を断れば、どうなるのでしょう?」
「……伯爵家との取引に支障が出るかもしれません」
「なるほど」
「伯爵家は、私どもの大切な仕入れ先なのです。今後取引していただけなくなれば、商会にも大きな影響が出ます」
オルセンは倉庫の方へ目を向けた。
「従業員たちの生活もございますので」
……そういうことか。
伯爵家との取引を失いたくない。
しかし、事実と異なる書類に署名するのも危険だ。
商人としては、難しい判断を迫られているのだろう。
「オルセン殿。一つ、申し上げてもよろしいでしょうか?」
「何でしょう?」
「実際と異なる内容の書類に、確認もせず署名するべきではないと思います」
「……」
「本当に事務上の誤りなのであれば、正しい記録と照合すればよいだけのことでございます」
「……おっしゃるとおりですな」
オルセンは苦笑した。
「ですが、相手は伯爵家でございます」
「はい」
「私どものような商人が、簡単に逆らえる相手ではございません」
……なるほど。
爵位を持つ貴族と、一商会。
立場の違いは大きい。
それに、商会の経営もかかっている。
僕は少し考えた。
「では、正式な担当者に確認していただくのはいかがでしょうか?」
「……正式な担当者?」
「はい。商品の引き渡し場所が王国の管理する倉庫である以上、王国側にも記録が残っている可能性がございます」
「……」
「その記録を確認すれば、単なる間違いなのかどうか、判断できるかもしれません」
オルセンはしばらく考え込んだ。
「……しかし、調査を求めたことが伯爵家に知られれば」
「その懸念は理解できます。情報の取り扱いについても、担当者に相談する必要があるでしょう」
僕は続けた。
「ただ、実際に商品を受け取った場所まで変えてしまえば、後から問題が起きた際、商会も説明を求められることになります」
オルセンが書類を見つめた。
「……そうですな」
やがて、小さく頷いた。
「一度、ご覧いただけますか?」
「よろしいのですか?」
「ええ。ただし、持ち出しはご遠慮ください」
「承知いたしました」
◇
書類には、伯爵家から購入した干し草の数量と取引日が記されていた。
さらに、引き渡し場所。
第三飼料中継倉庫。
下には、商品の管理番号が並んでいる。
……ふむ。
「こちらの商品は、一度に受け取られたのですか?」
「いえ。数日に分けて運びました」
「なるほど」
日付は三つに分かれている。
数量も、それぞれ異なっていた。
だが、管理番号は連続している。
同じ管理単位の商品を、何回かに分けて引き渡したのだろう。
それ自体は問題ない。
しかし。
「こちらの管理番号は、実際の商品にも付いておりますか?」
「はい」
「拝見してもよろしいでしょうか?」
「もちろんです」
僕たちは再び倉庫へ向かった。
オルセンが、奥に積まれた干し草を示す。
「こちらでございます」
荷札を確認する。
数字が並んでいる。
書類に記された番号と一致していた。
……。
そして、もう一つ。
荷札には、王国の物資管理に使われる印が押されていた。
「オルセン殿。こちらの印については?」
「伯爵家からは、王国の倉庫で管理する際に付けられたものだと説明されております」
「それ以上の説明は?」
「私には、よくわかりませんので」
王国の倉庫に入ったものだからといって、必ずしも王国の所有物とは限らない。
民間の物資を預かっている可能性もある。
しかし、王国の資金で調達した物資なら話は別だ。
国の所有となったものを、伯爵家の私有財産として販売することはできない。
……確認する価値はありそうだ。
「オルセン殿。こちらの取引記録を、正式な担当官に確認していただくことは可能でしょうか?」
オルセンは、しばらく黙っていた。
そして頷いた。
「……わかりました」
「ありがとうございます」
「ただし、私どもが不正に関わったと決めつけられては困ります」
「もちろんでございます」
僕は頭を下げた。
「正当な取引であったことを確かめるためにも、必要な確認だと思います」
オルセンは、小さく息を吐いた。
「……お若いのに、随分と落ち着いておられますな」
「そうでしょうか」
「私など、伯爵家からの連絡があるたび、胃が痛くなっております」
……。
それは、お気の毒だ。
もっとも、王女殿下の執事を務めていると胃が痛くなる程度では済まないことも多い。
森の中を魔物と追いかけっこすることになったり。
王宮の仕事とは思えないものを、次々に任されたり。
……まあ、苦労しているのはお互いさまか。
◇
その日の午後。
僕は王宮へ戻り、財務を担当する文官を訪ねた。
オルセン商会から正式な確認を希望する申し出があり、取引に関する書類も提出されている。
僕は、その経緯を説明した。
「……ハルゼン伯爵家ですか」
担当官が書類を見つめた。
「はい。王国軍の飼料調達を任されている方でございますね」
「そのとおりです」
「今回の取引について、所有関係を確認していただきたいのです」
「……なるほど」
担当官は書類を読み進めた。
やがて、管理番号のところで手を止める。
「……この番号は」
「何かございましたか?」
「王国の飼料管理に使われる番号でございます」
「やはり、そうでございましたか」
「ただし、これだけで王国の所有物だとは断定できません」
「承知しております」
そこは予想していたとおりだ。
「正式な払い下げ品や、一時的に預かっていた私物の可能性もございますね」
「はい」
担当官が頷いた。
「確認できる範囲で調べてみましょう」
そう言って、別の文官に記録を取り寄せるよう指示した。
しばらくして、大きな帳簿が運ばれてきた。
王国軍の飼料調達記録だ。
「調達記録のうち、今回の取引に関係する部分だけであれば、確認できます」
「ありがとうございます」
担当官がページをめくる。
そこには、各地から購入した干し草の数量や、倉庫への搬入記録が記されていた。
「ハルゼン伯爵が担当している分は、こちらでございます」
僕は、示された部分に目を向けた。
……これは随分な量だ。
日付。
数量。
管理番号。
保管場所。
細かな数字が、何ページにもわたって並んでいる。
「この記録を、すべて確認されているのですか?」
「ええ。もちろん、複数の担当者で分担しておりますが」
「なるほど」
「ただ、最近は取引量が増えておりましてね。照合にも時間がかかっております」
……そうだろうな。
これだけの量を、人の目で一つずつ確認するのは大変だ。
僕は《算神》を発動した。
数字を追う。
一つ。
二つ。
三つ。
管理番号を、頭の中で並べ直していく。
入庫日と出庫日を対応させる。
保管場所ごとに、数量を整理する。
……ん?
僕は手を止めた。
気になる番号がある。
先ほど、オルセン商会で見たものだ。
……いや。
一つではない。
ほかにも一致する番号がある。
僕は、さらに記録を追った。
……なるほど。
どうやら、同じ商品について、二つの異なる記録が存在しているらしい。
「担当官殿。一つ確認してもよろしいでしょうか?」
「何でしょう?」
「こちらの管理番号についてです」
僕は、一か所を指さした。
「この商品は、現在どちらに保管されていることになっておりますか?」
担当官が記録を確認する。
「……第三飼料中継倉庫でございますね」
「出庫の記録は?」
「……ございません」
「では、こちらは?」
「同じく、第三飼料中継倉庫です」
「こちらも?」
「……はい」
担当官が眉を寄せた。
僕は、さらに番号を追った。
オルセン商会が購入した商品の管理番号。
それが、王国の帳簿では第三飼料中継倉庫に保管されていることになっていた。
一つではない。
二つでもない。
複数の管理番号が一致している。
「……おかしいですね」
僕が呟くと、担当官が顔を上げた。
「何がですか?」
「同じ管理番号の商品が、二つの場所に存在することになっております」
「……二つの場所?」
「はい」
僕は、オルセン商会の書類と王国の帳簿を並べた。
「こちらでは、商会がすでに受け取ったことになっております」
「……」
「一方、王国の記録では、現在も第三飼料中継倉庫に保管されていることになっております」
担当官が二つの書類を見比べた。
「……確かに」
「しかも、こちらをご覧ください」
僕は日付を指さした。
「オルセン商会が商品を受け取ったのは、この日でございます」
「……はい」
「しかし、王国側の在庫記録は、そのあとに更新されております」
担当官の表情が変わった。
「……つまり?」
「少なくとも記録上は、商品が商会へ渡ったあとも、王国の倉庫に残っている扱いになっております」
……。
担当官が黙り込んだ。
もちろん、これだけで不正とは断定できない。
帳簿の更新が遅れている可能性もある。
正式な売却手続きが、別の帳簿に記されているのかもしれない。
だが、そうであれば、必ずどこかに説明できる記録があるはずだ。
「正式な売却や払い下げの記録はございますか?」
「……この帳簿には、ございません」
「別の記録で確認できますか?」
「確認するには、伯爵家が管理している原簿も調べる必要がございます」
……やはり、そこか。
「では、正式な監査をお願いすることは可能でしょうか?」
担当官は少し考え込んだ。
「……これは、私の判断だけでは進められません」
「承知しております」
「軍の調達に関わる問題ですので、上官を通じて陛下へ報告いたします」
「よろしくお願いいたします」
担当官は、もう一度帳簿を見た。
そして、小さく呟いた。
「……これが単なる記載漏れなら、よいのですが」
……まったくだ。
しかし、僕には一つ気になることがあった。
先ほど、伯爵家の代理人がオルセンに求めていたことだ。
商品の引き渡し場所を、王国の中継倉庫から伯爵家の私有倉庫へ変更してほしい。
その要求と、今回見つかった記録の食い違い。
……偶然だろうか。
いや、偶然と決めつけることもできない。
◇
夕方。
僕が王宮の廊下を歩いていると、背後から声をかけられた。
「トルーキン殿!」
振り返る。
先ほどの財務担当官だった。
随分と急いでいる様子だ。
「どうされましたか?」
「陛下への報告が済みました」
「そうでございますか」
「正式な監査を行う方向で、準備を進めるようご指示がございました」
……なるほど。
「明日、ハルゼン伯爵家へ調査に伺う予定でございます」
「承知いたしました」
「発端となった情報について確認したいこともございますので、可能であればご同行をお願いいたします」
「もちろんでございます」
そう答えた、そのときだった。
「……トルーキン殿」
担当官が声を落とした。
「実は、先ほどオルセン商会から、急ぎの連絡が入りまして」
「……何でしょう?」
「伯爵家から、例の干し草を買い戻したいという申し出があったそうです」
……ほう。
「買い戻し、でございますか?」
「はい。しかも、商会が支払った代金を全額返すと」
「……なるほど」
僕は少し考えた。
商人から商品を買い戻すこと自体は、珍しい話ではない。
相場が変わったのかもしれない。
別の買い手が見つかった可能性もある。
しかし。
「いつ、引き取りに来られるのでしょう?」
「……明日の朝だそうです」
……明日の朝。
正式な監査が始まる予定の日だ。
「オルセン殿は、何と?」
「まだ返事をしておられないそうです。ただ、伯爵家の代理人から、明日の朝までに回答するよう求められていると」
……ふむ。
少々、急な話だな。
僕は先ほどの帳簿を思い出した。
王国の記録では、第三飼料中継倉庫に残っていることになっている干し草。
それと同じ管理番号の商品が、オルセン商会には存在している。
そして、伯爵家はその商品を買い戻そうとしている。
……偶然だろうか。
いや。
これほど都合よく重なるものだろうか。
「担当官殿。一つ確認させてください」
「何でしょう?」
「もしオルセン商会から商品が引き取られた場合、どうなりますか?」
「……どう、とは?」
「管理番号の付いた現物を、商会で確認することが難しくなりますね」
「……あっ」
担当官の表情が変わった。
もちろん、取引記録は残る。
従業員の証言もあるだろう。
しかし、現物が別の場所へ移されれば、確認すべきことが増えてしまう。
さらに、荷札が外されてしまえば、照合が難しくなる可能性もある。
「……急いで、上官に報告いたします」
「お願いいたします」
担当官が駆け出した。
僕は、その背中を見送った。
……やれやれ。
どうやら、思っていた以上に厄介な話になりそうだ。
「トルーキン!」
聞き慣れた声が響いた。
振り返ると、エクレシア殿下が駆け寄ってくる。
「ただいま戻りました」
「どうだった!? 牛たちのご飯、買えそう!?」
「まだ、何とも申し上げられません」
「ええーっ!」
殿下が頬を膨らませた。
「でも、ちゃんと調べてくれたんでしょ?」
「はい。いくつかわかったことがございます」
「なになに!?」
僕は、今日の出来事を簡単に説明した。
干し草の値段が上がったこと。
商人が将来の需要を予測して、大量に仕入れていたこと。
そして、王国の管理する干し草について、記録に食い違いが見つかったこと。
殿下は真剣な顔で聞いていた。
「……じゃあ、商人さんが悪いの?」
「いいえ。高く売ること自体は、必ずしも悪いことではございません」
「そうなの?」
「はい。商人は自分の資金で商品を購入し、危険も引き受けておりますので」
「……そっかぁ」
「ただし、他人のものを勝手に売って利益を得るのであれば、話は別でございます」
「えっ!?」
殿下が目を丸くした。
「誰かが、牛たちのご飯を盗んじゃったの!?」
「まだ、そうと決まったわけではございません」
「……むぅ」
「ですが、確かめる必要がございます」
殿下は、しばらく考え込んだ。
「ねえ、トルーキン」
「はい」
「お金儲けするのは、悪いことじゃないんだよね?」
「はい。正当な商売で利益を得ることは、大切なことでございます」
「でも、人のものを勝手に売っちゃ駄目なんだよね?」
「そのとおりでございます」
「……そっか!」
殿下が大きく頷いた。
「じゃあ、ちゃんと調べよう!」
「はい。そのために、正式な担当官へお願いしております」
「わかった!」
今日の授業としては、なかなかよい成果かもしれない。
もっとも、授業というには、少々大きな問題になりつつあるが。
すると、廊下の向こうから、別の文官が足早に近づいてきた。
「トルーキン殿」
「はい」
「陛下がお呼びでございます」
……陛下が?
「今回の件について、直接お話を伺いたいとのことです」
「承知いたしました」
文官は殿下へも頭を下げた。
「エクレシア殿下も、ご一緒にお越しください」
「えっ!? お父様が!?」
「はい」
殿下が目を輝かせる。
「やったぁ!」
……殿下。
喜んでよい話かどうかは、まだわかりませんよ。
僕は小さく息を吐いた。
しかし、すぐに表情を引き締める。
ハルゼン伯爵。
王国軍の飼料調達を任されている有力貴族。
その人物が、軍のために集めた干し草を民間へ売却していたとすれば。
……ただの商売の話では済まない。
もっとも、今はまだ疑いに過ぎない。
だが、気になることが一つ増えた。
なぜ、伯爵家は今になって商品を買い戻そうとしているのか。
それも、正式な監査が始まる直前に。
もし、何も問題がないのであれば。
……そんなに急ぐ必要があるのだろうか。
僕は廊下の先へ目を向けた。
明日の朝、伯爵家が干し草を引き取りに来る。
その前に、何を確認するべきか。
今夜のうちに、考えておく必要がありそうだ。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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