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【10/22連載開始】王女殿下、まずは拳をお下げください ~平民出身の転生執事、最強王女を育成する~  作者: アカメノコバチ


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第6話② 牧場は狩場ではございません

 カン、カン、カン。


 牧場の警鐘が、森の中に響き続けていた。


「トルーキン! 見えたよ!」


「はい。殿下は牛舎の方へ。私は反対側を確認いたします」


「わかった!」


 木々が途切れ、放牧地が視界に入る。


 ……まずい。


 牛たちが柵の内側でひしめき合っていた。


 作業員たちは懸命に牛舎へ誘導しているが、怯えた牛が言うことを聞かない。


 そして、その周囲を灰色の巨体が走り回っていた。


 一頭、二頭、三頭。


 ……いや。


 牛舎の裏にも一頭いる。


 少なくとも四頭のグレイファングだ。


「牛たちから離れなさーい!」


 殿下が地面を蹴った。


 赤い髪が、僕の視界から消える。


 次の瞬間。


 ドゴンッ!


 牛へ飛びかかろうとしていたグレイファングが、横向きに吹き飛んだ。


 柵を越え、牧場の外へ転がっていく。


「一頭!」


 殿下が拳を掲げた。


「殿下。まだ三頭おります」


「うん!」


 元気な返事が返ってくる。


 ……ふむ。


 いまの一撃、随分と加減していたな。


 それでも、あの巨体を吹き飛ばす威力だ。


 殿下が全力で殴れば、グレイファングどころか、背後の牛舎まで壊しかねない。


 守るべきものがある場所では、力の強さだけが重要なのではない。


 そういう意味では、今回の戦いは殿下にとってもよい経験になるかもしれない。


 ……いや。


 まずは無事に終わらせることを考えよう。


 ◇


「トルーキン殿!」


 牧場の入口で、近衛騎士の一人が僕に気づいた。


「状況を教えてください」


「ご指示どおり鐘を鳴らし、作業員を集めました。人は全員確認できています。ただ、牛の避難が終わっておりません」


「負傷者は?」


「転倒した者が一名。歩けます。牛も数頭、傷を負っているようです」


 その間にも、もう一人の近衛騎士が長剣を構え、魔物を牽制していた。


 グレイファングが近づくたびに前へ出て、牛舎への侵入を防いでいる。


 よく持ちこたえてくれたものだ。


「ありがとうございます。引き続き、牛舎の入口を守ってください」


「はっ!」


 僕は周囲を見渡した。


 牧場主が数人の作業員に指示を出し、牛を一頭ずつ牛舎へ移している。


 だが、なかなか進まない。


 原因は、牛舎の入口近くをうろつく一頭のグレイファングだ。


 あれがいる限り、牛たちは怯えて中へ入ろうとしない。


「牧場主殿。牛舎に入れた牛は、そのまま奥へ移してください。入口付近を空けていただきたいのです」


「わ、わかりました!」


「騎士殿。そちらの魔物を牛舎から遠ざけてください。私も加勢いたします」


「承知しました!」


 近衛騎士が前へ出る。


 僕も身体強化を使い、魔物の側面へ回り込んだ。


 グレイファングが低く唸る。


 鋭い牙が並ぶ口から、荒い息が漏れていた。


 ……近くで見ると、実に大きい。


 体長三メートル近い魔物だ。


 まともに噛みつかれれば、身体強化を使っていても無事では済まないだろう。


 だが、速さならこちらも負けてはいない。


 グレイファングが僕へ飛びかかってきた。


 《算神》を発動。


 踏み込む位置。


 前脚の向き。


 首を振る角度。


 それらから、次に牙が届く範囲を計算する。


 ……右か。


 牙が目の前を通り過ぎた。


 さらに左へ踏み込み、魔力で強化した脚を魔物の前脚へ叩き込む。


 ドンッ!


「ギャンッ!」


 グレイファングの体勢が崩れた。


 すかさず近衛騎士が横から斬りつける。


 魔物が悲鳴を上げ、牛舎とは反対側へ跳んだ。


 よし、これで入口が空いた。


「今です。牛を中へ」


「は、はい!」


 作業員たちが動き出す。


 だが、そのときだった。


「うわっ!」


 一人の若い作業員が、暴れた牛に押されて転倒した。


 持っていた誘導棒が地面に転がる。


 グレイファングが、その動きに反応した。


 ……まずい。


 魔物が地面を蹴る。


 僕も同時に走り出した。


「伏せてください」


 作業員が頭を抱える。


 僕はその前へ滑り込み、落ちていた誘導棒を拾い上げた。


 魔物の牙が迫る。


 ……ここだ。


 身体をひねり、牙をかわす。


 続けて、誘導棒を魔物の横面へ叩きつけた。


 バキッ!


 棒が折れた。


 ……なるほど。


 普通の木の棒では、さすがに無理があるか。


 だが、十分だ。


 グレイファングの頭が横へ振られ、一瞬だけ動きが止まる。


「騎士殿。今です」


「はっ!」


 近衛騎士が魔物へ斬りかかった。


 グレイファングが後退する。


 僕は作業員の腕を取り、立ち上がらせた。


「お怪我は?」


「だ、大丈夫です!」


「では、牛舎へお戻りください」


「ありがとうございます!」


 作業員が駆け出した。


 よし、これで――。


「トルーキン! そこ、どいて!」


 殿下だ。


 僕は迷わず横へ跳んだ。


 ドンッ!


 赤い影が駆け抜けた。


 殿下の拳が、グレイファングの胴へ突き刺さる。


 巨体が地面を滑り、牧場の外へ転がっていった。


「やったぁ!」


 殿下が振り返る。


「トルーキン! 大丈夫!?」


「はい。問題ございません」


「よかった!」


「殿下、まだ魔物は残っております」


「うん!」


 殿下はすぐに牛たちへ向き直った。


「牛たち! もう大丈夫だよー!」


 ……殿下。


 大声で近づかれては、牛も驚くのでは。


 案の定、一頭の牛が殿下から逃げるように走り出した。


「ええーっ! なんでー!?」


「殿下。牛を驚かせないよう、静かにお願いいたします」


「……あっ!」


 殿下は慌てて口を押さえた。


 ……本当に、学ぶことの多いお方だ。


 ◇


 残るグレイファングは二頭。


 一頭は牛舎の裏側にいる。


 もう一頭は、放牧地の外柵に沿って走っていた。


 どちらも牛舎の近くから離れようとしない。


「殿下。牛舎の裏へ回る一頭をお願いいたします」


「任せて!」


「牛舎の方へ吹き飛ばさないようにしてください」


「はーい!」


 殿下が駆け出した。


 グレイファングは、その姿を見るや方向を変えた。


 ……また逃げるのか。


 魔物は森へ向かうふりをすると、急に左へ曲がった。


 その先には、牛舎の裏口がある。


 ……そうか。


 あそこから侵入するつもりか。


「殿下。そちらへ追いかけないでください」


「ええーっ! またぁ!?」


「牛舎へ回り込もうとしております。裏口の前で待ち受けてください」


「……そっか!」


 殿下が足を止めた。


 その場で、牛舎と魔物を交互に見る。


「じゃあ、あそこにいればいいんだね!」


「はい」


「わかった!」


 殿下は牛舎の裏口へ移動した。


 グレイファングは、そんなことには気づいていない。


 柵の陰から飛び出した、その瞬間。


「そこだぁっ!」


 殿下が低く踏み込んだ。


 拳が魔物の胸元へ突き刺さる。


 ドゴンッ!


 巨体が宙を舞い、牛舎とは反対側の地面へ落ちた。


 そのまま動かなくなる。


「やった!」


 殿下が振り返る。


「トルーキン! 見た!?」


「はい。大変お見事でした」


「えへへっ!」


 僕は倒れたグレイファングへ目を向けた。


 ……見事なものだ。


「トルーキン!」


「はい」


「もう一頭は!?」


「近衛騎士の方が対応しております」


 僕たちが振り返ると、最後の一頭が近衛騎士の剣を受け、森の方へ後退していた。


 傷を負ったグレイファングが低く唸る。


 しかし、騎士たちが二人で間合いを詰めると、それ以上近づこうとはしなかった。


 やがて身を翻し、森の奥へ逃げ込んでいった。


「逃げちゃった!」


 殿下が追いかけようとする。


 ……またか。


 僕が口を開こうとしたときだった。


「……あっ」


 殿下が自分で足を止めた。


 そして、牛舎の方を振り返る。


 まだ何頭かの牛が、外に残っていた。


「……そっか」


「殿下?」


「今は、牛たちを守らないとね!」


 殿下は拳を下ろした。


「そうでございます」


 ……ほう。


 今度は、僕が止めるまでもなかった。


 殿下は牛舎へ向かって歩き始めた。


 その後を、僕も追った。


 ◇


 ほとんどの牛を牛舎へ入れ、ようやく避難が終わった。


 作業員たちが安堵の息をつく。


 近衛騎士も剣を下ろした。


 しかし、まだ安心はできない。


 最初に僕たちを森へ誘い出した一頭が、どこにいるかわからないのだ。


 僕は周囲を見渡した。


 ……いた。


 森の入口。


 木々の陰に、灰色の巨体が見える。


 片方の耳が欠けている。


 先ほど追いかけていた一頭だ。


「……殿下」


「なに?」


「あちらをご覧ください」


 殿下が森の方を向いた。


「あっ! さっきの!」


 グレイファングが低く唸る。


 僕たちを睨みながら、ゆっくりと前へ進んできた。


「よーし! 今度こそ!」


 殿下が拳を握った。


 だが、すぐに足を止める。


 グレイファングと牛舎を交互に見た。


 ……ん?


「殿下?」


「……ねえ、トルーキン」


「はい」


「あの魔物を追いかけたら、また牛たちが危なくなるかな?」


 ……なるほど。


 僕は頷いた。


「その可能性はございます」


「じゃあ、追いかけない!」


 殿下は牛舎の前に立った。


「ここで守る!」


 ……ほう。


 グレイファングが森際を行き来している。


 先ほどの一頭が逃げた後も、まだ獲物を諦めていないらしい。


 僕は周囲の位置関係を確認した。


 牛舎の入口。


 放牧地の柵。


 近衛騎士たちの位置。


 そして、殿下。


 ……これなら、守れる。


「殿下。あの魔物が来ても、牛舎から離れないでください」


「うん!」


「私が動きを見ます。殿下は牛の前でお待ちください」


「わかった!」


 グレイファングが低く身を沈めた。


 狙いは殿下ではない。


 牛舎の脇にいる、一頭の乳牛だ。


 最後まで中へ入りたがらず、作業員が付き添っていた。


 グレイファングが地面を蹴った。


 一直線に乳牛へ向かってくる。


 だが。


「殿下。正面です」


「うん!」


 殿下が踏み込んだ。


 グレイファングの牙が迫る。


 その瞬間、殿下はわずかに身体をひねった。


 魔物の牙が空を切る。


 続いて、殿下の拳が下から突き上げられた。


 ズドンッ!


 グレイファングの巨体が、斜め上へ吹き飛んだ。


 牛舎を大きく越え、放牧地の外へ落ちる。


 地面が揺れた。


 土煙が上がる。


 ……ふむ。


 相変わらず、とんでもない威力だ。


 だが、牛舎には傷一つついていない。


 殿下が拳を握ったまま、こちらへ振り返る。


「やったぁ!」


「お見事です」


「今度は逃がさなかったよ!」


「はい。それに、牛舎も無事でございます」


「えへへっ!」


 殿下が嬉しそうに笑う。


 ……先ほどの森では、逃げる魔物を追いかけることしか考えていなかった。


 しかし、今度は違う。


 殿下は牛舎を守るために、そこから動かなかった。


 自分の拳で何を守るべきなのか。


 その判断が、少しずつできるようになっているらしい。


「ねえ、トルーキン!」


「はい」


「牛たち、守れたね!」


「はい。皆さんのおかげでございます」


 殿下が周囲を見渡した。


 近衛騎士たち。


 牧場主。


 作業員たち。


 皆、疲れ切った顔をしていた。


 しかし、誰もがほっとした様子だった。


「みんな、ありがとう!」


 殿下が大きく手を振った。


 その声に、牧場主たちが顔を上げる。


「王女殿下……!」


「牛たち、無事でよかったね!」


 作業員たちの顔に、ようやく笑みが戻った。


 ◇


「王女殿下。本当に、ありがとうございました」


 しばらくして、牧場主が殿下の前で深々と頭を下げた。


 ほかの作業員たちも、次々に礼を述べる。


「助かりました!」


「牛を守っていただいて、ありがとうございます!」


「みんな無事でよかったね!」


 殿下が嬉しそうに笑った。


 幸い、人命に関わる被害はなかった。


 ただし、牧場の被害は小さくない。


 牛には傷を負ったものが数頭いる。


 柵も何か所か壊れていた。


 それに、逃げ惑った牛が干し草の束を踏み荒らしている。


 ……これは、なかなか大変だ。


「ねえ、あの牛、大丈夫?」


 殿下が指さした先には、脚を傷つけた乳牛がいた。


 作業員が傷口を洗い、手当てをしている。


「命に別状はないと思いますが、しばらくは安静にさせる必要がございます」


 牧場主が答えた。


「……痛そう」


 殿下が、ゆっくりと近づいていく。


「触ってもいい?」


「ええ。優しくお願いいたします」


 殿下は牛の首に、そっと手を当てた。


「……ごめんね」


 小さな声だった。


 僕は殿下を見た。


「殿下?」


「私があの魔物を追いかけちゃったから、こんなことになったのかな」


 ……。


 意外な言葉だった。


 殿下は、傷ついた牛を見つめている。


「私、楽しくなっちゃって、いっぱい走っちゃった」


「殿下。追跡を認めたのは私も同じです」


「でも、私が追いかけたいって言ったんだよ?」


「はい。ですが、殿下お一人の責任ではございません」


 僕は壊れた柵へ目を向けた。


 今回は、グレイファングが群れで襲ってきた。


 僕もその可能性を十分に見抜けなかった。


 護衛を残し、避難を指示していたとはいえ、結果として被害が出ている。


 ……反省すべきことは多い。


「大切なのは、次に同じことを繰り返さないことでございます」


「……そっか」


 殿下は、もう一度牛の首を撫でた。


「じゃあ、次はちゃんと守るからね!」


 牛が、小さく鳴いた。


「えへへっ!」


 殿下が笑う。


 その様子を、牧場主が静かに見つめていた。


 ◇


「牧場主殿。先ほど、以前にも襲われたとおっしゃっていましたね」


 僕が尋ねると、牧場主は頷いた。


「はい。これで三度目です」


「これまでは、どのように対処されていたのですか?」


「冒険者に討伐を頼んだこともあります。ただ、いつもすぐに来てもらえるわけではありません」


 牧場主は壊れた柵を見つめた。


「柵の修理にも金がかかりますし……。前の襲撃では、乳牛を二頭失いました」


「二頭も!?」


 殿下が目を丸くする。


「はい。牛は簡単には買い替えられません。乳を搾れるようになるまで育てるにも、長い時間がかかります」


「じゃあ、牛さんがいなくなったら……」


「牛乳を出荷できなくなります。そうなれば、ここで働いている者たちに給金を払うことも難しくなります」


 殿下の表情が変わった。


「……みんなのお仕事がなくなっちゃうの?」


「最悪の場合は」


 殿下は作業員たちを見た。


 先ほど、命懸けで牛を守っていた人々だ。


 誰もが牛たちを大切にしていることは、殿下にもわかったのだろう。


「ねえ、トルーキン」


「はい」


「さっきの魔物、倒したよね?」


「はい。ただ、一頭は森へ逃げております」


「じゃあ、また来るかもしれないんだよね?」


「その可能性はございます」


「……そっか」


 殿下は少し考えた。


 そして、牧場主へ向き直る。


「ねえ。森から離れたところで、牛さんを育てることはできないの?」


「できればそうしたいのですが……」


 牧場主が苦笑した。


「安全な場所の草は、牛たちがほとんど食べてしまいました。干し草が届かない今は、森の近くまで連れていくしかないのです」


「じゃあ、干し草がいっぱいあればいいんだ!」


「……ええ。ですが、そう簡単には手に入りません」


 ……やはり、そこか。


 僕は牧場主へ尋ねた。


「ほかの牧場でも、同じことが起きていますか?」


「ええ。近隣では、どこも困っています」


 ……この牧場だけの問題ではないのか。


「干し草は、どちらから仕入れておられるのでしょう?」


「王都の飼料商からです。以前は、周辺の農家からも買い付けていました」


「では、注文の記録を拝見できますか?」


「もちろんです。しかし、何かわかるのでしょうか?」


「それは、調べてみなければわかりません」


 僕は答えた。


「ただ、干し草が足りなくなった理由は、必ずどこかにあるはずです」


 原因がわからなければ、対策も考えられない。


 《算神》があれば、仕入れ価格や輸送量の変化を分析することはできる。


 だが、計算だけで干し草が増えるわけではない。


 実際に何が起きているのかを調べる必要がある。


「ねえ、トルーキン!」


「はい」


「私も調べたい!」


 殿下が僕の袖を引いた。


「牛たち、また危ない目に遭ったらかわいそうだもん!」


「……そうでございますね」


「それに、牧場の人たちも困っちゃうんでしょ?」


「はい」


「じゃあ、なんとかしようよ!」


 ……。


 まったく。


 次から次へと、仕事を増やしてくださる。


 僕は執事として出世し、優雅な生活を送るつもりだったのだが。


 どうして、干し草の仕入れまで調べることになったのだろう。


 ……まあ、いい。


 殿下が自分から学びたいとおっしゃっているのだ。


 執事兼家庭教師として、断る理由はない。


「承知いたしました。では、次の授業は干し草が届かない理由を調べることにいたしましょう」


「やったぁ!」


 殿下が満面の笑みを浮かべた。


 その様子を見ていた牧場主が、深く頭を下げる。


「王女殿下。本当にありがとうございます」


「まだ何もしてないよ!」


 殿下が笑った。


「ちゃんと調べてから、お礼を言ってね!」


 牧場主は一瞬驚いた顔をした。


 それから、ゆっくりと笑った。


「……はい。お願いいたします」


 ◇


 帰る前に、牧場主が小さな皿を運んできた。


「王女殿下。よろしければ、こちらをお召し上がりください」


 皿には、薄く切ったチーズが並んでいた。


「わあっ! チーズだ!」


「今朝できたばかりのものです。ささやかですが、お礼に」


「食べていいの!?」


「もちろんです」


 殿下が一切れ口へ運んだ。


「……おいしーっ!」


 今日一番の笑顔だった。


 ……いや。


 魔物を追いかけていたときも、同じくらい楽しそうだったか。


「ねえ、トルーキン!」


「はい」


「牛って、すごいね!」


「はい。牛乳だけでなく、さまざまな食べ物を生み出してくれます」


「そっか! だから、大事にしないといけないんだね!」


「そのとおりでございます」


 殿下は残ったチーズを一切れ、僕に差し出した。


「はい! トルーキンも!」


「ありがとうございます」


 口に運ぶと、ほどよい塩味が広がった。


 ……おいしい。


 王宮で食べるものにも負けていない。


「ねえ、トルーキン!」


「はい」


「今日、ちゃんとお勉強できたよね!」


「ええ。大変よく学ばれたと思います」


「やったぁ!」


 殿下が両手を上げた。


 ……もっとも。


 牧場の視察に来て、魔物の群れと戦うことまで授業に含めた覚えはないのだが。


「それでね!」


「はい」


「夜ご飯はお肉がいい!」


 ……。


 どうやら、最初の目的は忘れていなかったらしい。


「承知しました。ただし、王宮の料理長にご相談ください」


「じゃあ、お願いしに行こーっと!」


 殿下が駆け出そうとする。


 しかし。


「……あっ!」


 ぴたりと足を止めた。


 そして、僕を振り返る。


「牧場の中は、走っちゃ駄目なんだったね!」


「そのとおりでございます」


 殿下は、今度は歩き始めた。


 少しずつではあるが、確かに学んでおられるようだ。


 僕は牧場を振り返った。


 壊れた柵。


 傷を負った牛。


 踏み荒らされた干し草。


 魔物を倒したからといって、すべてが元に戻るわけではない。


 そして、干し草が手に入らなければ、また危険な場所で牛を放牧しなければならなくなる。


 ……なぜ、これほど干し草が不足しているのか。


 ひと月ほど前から、複数の牧場で同じことが起きている。


 偶然とは考えにくい。


 何か、共通する原因があるはずだ。


「トルーキン! はやくー!」


 殿下の声が聞こえた。


「ただいま参ります」


 僕は手帳を閉じ、殿下の後を追った。


 次の授業は、どうやら牧場の外へ広がりそうだった。



最後まで読んでいただきありがとうございます。

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