第6話① 牧場は狩場ではございません
「ラン~ララ~ン♪」
王都近郊の森に、場違いな歌が響いていた。
歌っているのは、エクレシア王女殿下だ。
赤い髪をなびかせ、木々の間を猛烈な勢いで駆け抜けている。
その前方を逃げているのは、体長三メートル近い狼型の魔物、グレイファングだ。
そして殿下の後ろには、僕がいる。
「殿下。少し速度を落としていただけませんか」
「えーっ! もうちょっとで追いつくよ!」
殿下は倒木を軽々と飛び越えた。
僕も続く。
着地した瞬間、足元の枯れ葉が舞い上がる。
……速い。
グレイファングではない。殿下のことだ。
《拳神》という神級スキルを持っているのだから、拳が強いのは理解できる。
しかし、いま目の前で見せている速さは、それだけでは説明できない。
僕は《算神》で殿下の動きを追った。
踏み込む瞬間には脚へ。跳び上がる瞬間には腰と背中へ。着地の直前には、衝撃を受け止める部位へ。
殿下は身体強化に使う魔力を、必要な場所へ、必要な瞬間だけ流している。
しかも、その切り替えが恐ろしく滑らかだ。
魔力で全身を力任せに強化する者なら珍しくない。
だが、あの精度で操れる者がどれほどいるだろう。
無駄がほとんどない。
「チャララン~ララ~ン♪」
……本人は、その凄まじさに気づいているのだろうか。
「殿下。歌を歌う余裕があるなら、足元にもお気をつけください」
「だいじょうぶー! トルーキンも速いね!」
「日頃から鍛えておりますので」
僕も魔力で身体を強化している。
もっとも、殿下ほど繊細な操作はできない。
地形を計算し、無駄な動きを減らして、どうにか距離を保っているのだ。
こんなことなら、今朝はもっとしっかり朝食を食べておくべきだった。
……そもそも。
なぜ、酪農の授業が魔物との追いかけっこになったのだろう。
話は少し前に遡る。
◇
「うわあっ! 牛がいっぱい!」
王都近郊の牧場に到着するなり、殿下が歓声を上げた。
柵で囲まれた広い放牧地では、何十頭もの牛がのんびりと草を食べている。
穏やかな風が吹き、草が揺れる。
遠くには、木々の生い茂る森が見えた。
牛舎の脇には、鉄製の鐘が吊るされている。
本日の授業は、酪農についてだ。
王宮の食卓に並ぶ牛乳やチーズ、バターが、どのように作られているのかを学んでいただく。
「ようこそお越しくださいました、王女殿下」
出迎えてくれたのは、日に焼けた顔の牧場主だった。
「今日はよろしくね!」
「こちらこそ。どうぞ、何でもお尋ねください」
牧場主は少し緊張していたが、殿下がにこにこしているのを見て、ほっとした様子だった。
「ねえねえ! 牛っておいしいよね!」
「……はい?」
「今日のお昼はお肉?」
牧場主の笑顔が固まった。
「殿下。本日は牛を食べる授業ではございません」
「ええーっ! 牛なのに!?」
「こちらでは、主に牛乳を得るために牛を育てているのです」
「牛乳?」
「はい。毎日、牛から乳を搾ります。それが飲み物になったり、チーズやバターになったりするのでございます」
殿下が牛を見た。
それから僕を見る。
「じゃあ、この牛さんを食べちゃったら?」
「その牛からは、もう牛乳を得られませんね」
「……そっか!」
殿下は大きく頷いた。
「じゃあ、今日は食べない!」
「そのご判断に感謝いたします」
牧場主が、心の底から安心したように頭を下げた。
……王女殿下が食べたいと言っただけで、この牧場の牛が危機に陥るのは困る。
◇
まず、牛舎を見学した。
牛を休ませる場所、餌を置く場所、乳を搾るための道具。
牧場主が一つずつ説明してくれる。
「牛って、毎日お乳が出るの?」
「いいえ。子牛を産んだ雌牛から乳を搾ります。いつでも、どの牛からでも搾れるわけではありません」
「へえーっ! 赤ちゃんがいるんだ!」
「はい。あちらに子牛もおりますよ」
「見たい!」
殿下が駆け出しかけた。
「殿下。牛舎では走らないでください」
「えっ? なんで?」
「牛が驚いてしまいます」
「あっ、そっか!」
殿下はぴたりと止まり、そろそろと歩き始めた。
……やればできるではないか。
小さな子牛が、母牛のそばに立っていた。
「かわいいなぁ!」
殿下が目を輝かせる。
子牛もこちらを見つめている。
「触ってもいい?」
「母牛が驚かないよう、私がそばにいるときだけにしてください」
「はーい!」
牧場主に教わりながら、殿下は子牛の首をそっと撫でた。
「えへへっ。あったかいね!」
「殿下。くれぐれも優しくお撫でください」
「わかってるよ!」
……それならば安心だ。
どうか、力加減だけはお忘れになりませんように。
続いて、牛の餌について教わることになった。
牛舎の脇には、大きな干し草の束が積まれている。
「牛はずいぶん食べるのですね」
僕が尋ねると、牧場主は頷いた。
「ええ。毎日の餌の量は相当なものです。放牧地の草だけでは足りませんから、干し草も用意しております」
「ねえ、トルーキン!」
「はい」
「牛って、ずっと食べてるね!」
「殿下も、お食事の時間を随分と楽しみにしておいでですからね」
「ええーっ! 私、そんなに食べてないよ!」
先ほど肉を食べたいと騒いでいたのは、どなたでしたか。
そう申し上げようとしたところで、牧場主が苦笑した。
「ただ、最近はその干し草を十分に用意するのが難しくなっておりまして」
「難しい、とは?」
「注文しても、なかなか届かないのです。値段も以前より上がりました」
僕は干し草の束に目を向けた。
牧場の規模に比べると、確かに蓄えが少ない気がする。
「それで、森の近くまで放牧地を広げておられるのですか?」
「……よくおわかりですね」
柵の向こうでは、森に近い場所の草だけが、まだ青々としている。
こちら側の草は、牛に食べられて短くなっていた。
「森には魔物もいると伺っていますが」
「ええ。危険なのは承知しています。しかし、牛に食べさせるものがなければ、牧場を続けられません」
……なるほど。
事情はありそうだ。
「トルーキン、どうしたの?」
「少し気になることがございまして」
「なになに?」
「干し草が足りない理由です。後ほど詳しく伺いましょう」
「うん!」
殿下は素直に頷いた。
そのときだった。
モオオオッ。
放牧地から、牛の大きな鳴き声が響いた。
続いて、何頭もの牛が一斉に動き出す。
「……何だ?」
牧場主が森の方を見た。
木々の間から、灰色の巨体が姿を現す。
低く構えた四本の脚。
大きく裂けた口から覗く鋭い牙。
普通の狼の倍以上はある魔物だった。
「グレイファングだ。また出やがった!」
牧場主の顔から血の気が引く。
「魔物でございますか」
「はい。ここしばらく、何度か牛を襲われているんです」
グレイファングが低く唸り、森際の柵をひと跳びで越えた。
牛たちが悲鳴のような声を上げて逃げ始める。
一頭の子牛が、柵の近くで足を取られた。
グレイファングの目が、その子牛へ向く。
「まずい。あの子牛が……!」
牧場主が走り出そうとする。
しかし、それより早く動いた者がいた。
「こらぁっ!」
エクレシア殿下だ。
一瞬で子牛と魔物の間に割り込む。
「牛さんを食べちゃ駄目!」
グレイファングが牙を剥き、殿下へ飛びかかった。
「殿下。子牛が後ろにおります」
「わかってる!」
殿下は拳を振り上げたものの、子牛を巻き込まないよう踏み込みを変えた。
その一瞬の動きを、魔物は見逃さなかった。
横へ跳び、殿下の拳をかわす。
拳が空を切った。
「……あっ!」
グレイファングはすぐに身を翻し、森へ走り出した。
「待てぇぇっ!」
殿下が追おうとする。
「殿下。まずは子牛の安全を」
殿下は振り返り、倒れた子牛に駆け寄った。
「大丈夫? 怪我してない?」
子牛は立ち上がり、母牛の方へよろよろと歩き出した。
「よかったぁ!」
殿下が安堵した、その直後。
森の入口にいたグレイファングが、こちらを振り返った。
グルルル……。
「……なにあれ! まだいる!」
魔物は一声唸ると、再び森の奥へ駆けていく。
殿下の顔がぱっと輝いた。
「よーし! 今度こそ!」
「殿下。追いかけるのであれば、私も同行いたします」
「うん!」
僕は近衛騎士たちに声をかけた。
「お二人は牧場に残り、皆さんと牛を安全な場所へ移してください。森から別の魔物が出る可能性もございます」
「承知しました」
「まずは子牛と森に近い牛を牛舎へ。ほかの作業員にも声をかけ、避難を進めてください」
「はっ!」
「牧場主殿。ほかにも魔物が現れた場合は、あちらの鐘を鳴らしていただけますか?」
「は、はい!」
「鐘が聞こえ次第、我々も戻ります。それまでは決して無理をなさらないでください」
「承知しました!」
逃げた一頭を短時間で追い詰める。
それならば、牧場に危険を残さずに済むはずだ。
そう考えたのだが。
殿下はすでに森へ飛び込んでいた。
……少々、早すぎませんか。
◇
木々の間を、グレイファングが駆ける。
その後ろを殿下が追う。
さらに、僕も続く。
「殿下。あまり森の奥へ入り込まないでください」
「だいじょうぶー!」
「何を根拠におっしゃっているのですか」
「だって、トルーキンがいるもん!」
……。
頼りにされるのはありがたい。
だが、もう少し慎重さも覚えていただきたい。
グレイファングが右へ跳ぶ。
殿下もすぐさま方向を変えた。
倒木を蹴り、まるで地面を滑るように加速する。
「ララン~ララン~♪」
歌は、途切れない。
なぜこんなに走るのを楽しんでいるのだろう。
僕の《算神》は、殿下の歩幅と接地時間を次々に捉えていた。
速度だけなら、僕も身体強化を使って追いつける。
だが、殿下は速いだけではない。
曲がるときには必要な部分だけを強化し、着地するときには衝撃を逃がす。
木にぶつかりそうになれば、瞬時に魔力の流れを変えて身体をひねる。
その切り替えに、ほとんど遅れがない。
これほどの魔力操作を、誰に教わったのだろう。
いや、教えられてできるものなのだろうか。
「トルーキン! もうすぐだよ!」
「承知しております。右前方の岩場へ向かってください」
「右だね!」
グレイファングの進路を計算する。
前方は岩場だ。木々も密集している。
あの巨体で方向を変えるには、少々不利な場所になる。
殿下が一段と加速した。
「つっかまえたー!」
グレイファングの前へ回り込む。
だが、魔物は正面から挑んでこなかった。
岩を蹴り、狭い木々の間へ逃げ込んだ。
「ええーっ! また逃げた!」
殿下が追いかけようとする。
……待て。
何かがおかしい。
僕は足を緩めた。
最初に襲ったのは、牧場の子牛だった。
しかし、殿下に追われてからは、一度も反撃しようとしていない。
それだけなら、強者を避けていると考えられる。
だが、逃げ方が妙だ。
森の奥へまっすぐ逃げられる場所でも、左右に大きく回り込む。
殿下が追いつきそうになると速度を上げ、距離が開くと少し緩める。
僕たちを引き離したいのなら、そんな動きは無駄でしかない。
《算神》でここまでの進路を組み立て直す。
……まさか。
「殿下。追跡を中止してください」
「えーっ! もうちょっとなのに!」
「この魔物、逃げ切ろうとしておりません」
「……え?」
「わざと我々を追わせている可能性がございます」
殿下が振り返った。
「なんでそんなことするの?」
「それはまだわかりません。ただ――」
カン、カン、カン。
遠くから、金属を打ち鳴らす音が聞こえた。
牧場の方角だ。
先ほど、牛舎の脇に吊るされていた警鐘を見た。
危険が起きたときに鳴らすものだと、牧場主が話していた。
……まずい。
「殿下。牧場へ戻ります」
「えっ? どうして?」
続いて、牛の鳴き声が聞こえた。
何頭も、何頭も。
そして、森の向こうから遠吠えが重なった。
ウォオオオオン。
ウォオオオオン。
一頭ではない。
「……ほかにもいるの?」
「おそらく、群れでございます」
殿下の笑顔が消えた。
「じゃあ、あの子牛たちは……」
「危険にさらされているかもしれません」
僕は森の奥へ目を向けた。
先ほどまで逃げていたグレイファングの姿は、もう見えない。
最初から、僕たちを牧場から引き離すことが目的だったとすれば。
……してやられた。
「殿下。先ほどより急ぎます」
「うん!」
殿下が地面を蹴った。
さっきまでの鼻歌は、もう聞こえない。
赤い髪が、風の中で一直線になびく。
……速い。
先ほどの速度ですら、まだ余裕を残していたのか。
僕も魔力を巡らせ、地面を蹴る。
ここから先は、追いつくための計算に無駄な余裕などない。
牧場の方角から、また警鐘が響いた。
殿下は振り返らなかった。
ただ、短く言った。
「トルーキン。牛さんたち、守ろうね!」
「もちろんでございます」
僕は速度を上げた。
どうやら、本当の戦いはこれかららしい。
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