番外編(1) 生まれてきて、よかった
私には、ずっと憧れていたことがある。
走ること。
公園で友達と鬼ごっこをしたり、運動場を思いっきり駆け回ったり。
転んで膝をすりむいても、また立ち上がって走り出す。
そんな当たり前のことが、私にはできなかった。
だから、窓の向こうで元気に遊ぶ子供たちを見るのが好きだった。
いいなぁ。
楽しそうだなぁ。
私も一緒に遊んでみたいなぁ。
何度、そう思ったかわからない。
でも、私は自分が不幸だったとは思っていない。
だって、私の周りには、大好きな人たちがたくさんいたから。
◇
私の名前は、山岬亮子。
お父さん、お母さんはいつも私のことを気にかけてくれた。
私は、生まれたときから身体が弱かったらしい。
小さい頃のことは、あまり覚えていない。
でも、病院のことならよく覚えている。
白い天井。
消毒液の匂い。
廊下を歩く看護師さんたちの足音。
それから、ベッドの横で私の手を握ってくれる、お母さん。
「亮子、苦しくない?」
「うん!」
「本当?」
「ほんとだよ!」
そう答えると、お母さんは少し安心したように笑ってくれた。
本当は、少し苦しいときもあった。
でも、お母さんに心配をかけたくなかった。
だって、お母さんは私が苦しそうにしていると、自分まで苦しそうな顔をするんだもん。
「ねえ、お母さん!」
「なあに?」
「元気になったら、公園に行こうね!」
「うん。行こうね」
「それでね、ブランコに乗りたい!」
「いいよ」
「鬼ごっこもしたい!」
お母さんは、いつも笑って頷いてくれた。
「そうだね。いっぱい遊ぼうね」
「えへへっ!」
それだけで、嬉しかった。
いつかきっと、みんなと一緒に走れる。
そんな日が来ると信じていた。
◇
お父さんは、毎日会社へ行っていた。
帰ってくるのが遅い日もあったけど、病院に来られる日は必ず顔を見せてくれた。
「亮子、今日は何してた?」
「お絵描き!」
「おお、何を描いたんだ?」
「これ!」
私はベッドの横に置いていた画用紙を見せた。
青い空。
緑の草原。
そして、両手を広げて走っている女の子。
「これは亮子か?」
「うん!」
「楽しそうだなぁ」
「でしょ!」
「上手に描けてるじゃないか」
「えへへっ!」
お父さんは、いつも私の絵を褒めてくれた。
上手に描けた日も、失敗しちゃった日も。
たまに、お父さんも一緒に絵を描いてくれた。
でも、お父さんが描く動物は、あんまり上手じゃなかった。
「お父さん、これ何?」
「猫だよ」
「ええーっ! ブタかと思った!」
「そんなに下手かなぁ」
「きゃははっ!」
お父さんも笑った。
あの時間が、私は大好きだった。
おじいちゃんとおばあちゃんも、よく会いに来てくれた。
おじいちゃんは、いろんな場所の写真を見せてくれた。
春には桜。
夏には海。
秋には紅葉。
冬には雪。
「亮子、今年の桜もきれいだったぞ」
「わあっ! すごい!」
「来年は一緒に見に行こうな」
「うん!」
おばあちゃんは、本をたくさん持ってきてくれた。
そこには知らないことがいっぱい載っていた。
世界って、こんなに広いんだ。
私の知らないものが、こんなにたくさんあるんだ。
いつか元気になったら、いろんなところに行ってみたい。
そんなことを考えながら、何度も何度も本を読んだ。
◇
病院の先生も、看護師さんたちも、とっても優しかった。
「亮子ちゃん、今日は調子どう?」
「いいよ!」
「本当かなぁ?」
「本当だってば!」
「じゃあ、ちょっと診察しようか」
「ええーっ!」
先生が笑う。
私も笑う。
もちろん、病院は楽しいことばかりじゃなかった。
注射は痛かったし、検査は怖かった。
身体が苦しくて、夜中に泣いてしまうこともあった。
そんなとき、看護師さんがそばに来てくれた。
「亮子ちゃん、大丈夫?」
「……うん」
「眠れない?」
「……ちょっと」
「そっか。じゃあ、少しお話ししようか」
友達のこと。
好きな本のこと。
病気とは関係ない、普通のお話。
そんな話をしているうちに、少しだけ怖くなくなった。
病院にいると、どうしても病気のことを考えてしまう。
でも、先生や看護師さんたちは、私がただの子供であることを忘れずにいてくれた。
それが嬉しかった。
◇
小学生になる頃には、なんとなくわかっていた。
私は、ほかの子たちとは違う。
学校へ行ける日もあれば、行けない日もある。
体育の授業では、見学することが多かった。
運動会でも、みんなと一緒に走ることはできなかった。
それでも、学校は好きだった。
友達とおしゃべりするのは楽しかったし、勉強も嫌いじゃなかった。
特に、理科と社会が好きだった。
どうして空は青いんだろう。
どうして電気をつけると明るくなるんだろう。
どうして洗濯機は、あんなにぐるぐる回るんだろう。
わからないことがあると、本で調べたり、先生に質問したりした。
全部が理解できたわけじゃないけど、新しいことを知るのは楽しかった。
友達も、私の身体のことを知っていた。
「亮子、無理しちゃ駄目だよ」
「わかってるよ!」
みんなは、よく私を気遣ってくれた。
休み時間には、一緒におしゃべりをしてくれた。
だから、学校に行ける日はとっても嬉しかった。
でも、ときどき思うことはあった。
もし、私が元気だったら。
みんなと一緒に走れるのかな。
自転車で遠くまで行けるのかな。
プールで泳げるのかな。
そんなことを考えると、少しだけ寂しくなった。
ある日、お母さんに聞いたことがある。
「ねえ、お母さん」
「なあに?」
「私、もっと元気な子だったらよかった?」
「えっ?」
お母さんは、びっくりした顔をした。
「だって、私が病気だから、お母さん大変でしょ?」
「亮子……」
「病院にも、いっぱい来ないといけないし」
お母さんは、私をぎゅっと抱きしめた。
「そんなこと、考えなくていいんだよ」
「……ほんと?」
「うん。亮子が生まれてきてくれて、お母さんはとっても幸せだよ」
「……そっか」
「それにね、亮子が笑ってくれると、お母さんも元気になるんだから」
「私が?」
「そうだよ」
お母さんが笑う。
私も、つられて笑った。
「えへへっ!」
「ほら。今も元気をもらっちゃった」
嬉しかった。
私でも、お母さんを元気にできるんだ。
だったら、いっぱい笑おう。
そう思った。
◇
小学五年生になった。
十一歳。
その日は、授業参観だった。
私は朝から、とっても楽しみにしていた。
だって、今日はお父さんも来てくれるんだもん。
いつもお仕事で忙しいお父さんが、会社を休んでくれた。
「亮子、今日はお父さんも見に行くからな」
「本当!?」
「ああ。お母さんと一緒にな」
「やったぁ!」
嬉しくて、何度も時間を確認してしまった。
「亮子。今日は無理しないでね」
お母さんが言った。
「わかってるよ!」
「少しでも具合が悪くなったら、すぐに先生に言うのよ」
「はーい!」
私は元気よく返事をした。
その日は、朝から体調がよかった。
きっと大丈夫。
そう思っていた。
◇
教室の後ろには、たくさんのお父さんやお母さんが並んでいた。
私は、つい何度も振り返ってしまった。
あっ。
いた!
お母さんが手を振っている。
隣には、お父さんもいた。
お父さんは私に気づくと、小さく親指を立ててくれた。
えへへっ!
私は嬉しくて、思わず笑ってしまった。
授業が始まる。
先生が黒板に字を書いている。
友達が手を挙げる。
私も今日は頑張ろう。
お父さんとお母さんに、学校での私を見てもらいたかった。
ちゃんと勉強してるんだよ。
友達とも仲よくしてるんだよ。
そんなところを見てほしかった。
でも。
……あれ?
突然、胸の奥が苦しくなった。
息を吸おうとしても、うまく吸えない。
……おかしいな。
さっきまで、平気だったのに。
私は机に手をついた。
少し休めば、大丈夫。
きっと、すぐによくなる。
そう思った。
だけど。
「……っ!」
急に何かがこみ上げてきた。
思わず口を押さえる。
ごほっ!
……え?
机の上に、赤いものが落ちた。
血だ。
……どうして?
「え、亮子!?」
隣の席の友達が叫んだ。
先生がこちらへ駆け寄ってくる。
ごほっ!
また、血が出た。
……苦しい。
息ができない。
周りが騒がしくなった。
誰かが私の名前を呼んでいる。
「山岬さん!」
「亮子!」
……あ。
お母さんだ。
お母さんが、こっちへ走ってくる。
お父さんもいる。
でも、なんだか遠くに見える。
「亮子! 亮子!」
お母さんが泣いている。
……あれ?
お母さん、どうして泣いてるの?
私、大丈夫だよ。
ちょっと苦しいだけだから。
すぐによくなるから。
そう言いたかった。
でも、声が出なかった。
身体も動かない。
視界がぼやけていく。
……お母さん。
……泣かないで。
私、大丈夫だから。
そう伝えようとしたけれど――。
◇
……あれ?
目が覚めた。
白い天井が見える。
身体が重い。
うまく動かせない。
……ここ、どこ?
少しずつ目を動かした。
身体には、何本もの管がつながれていた。
機械の音が聞こえる。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
……ああ。
集中治療室だ。
知ってる。
前も入ったことがあるから。
また、ここに来ちゃったんだ。
でも。
……あれ?
なんだか、いつもと違う。
ベッドの横には、お父さんとお母さんがいた。
二人とも、泣いていた。
お母さんが私の顔を覗き込む。
何かを話しかけている。
でも。
……聞こえない。
お母さんの口が動いているのはわかる。
涙が流れているのもわかる。
だけど、何を言っているのか、よく聞き取れなかった。
お母さん。
どうしたの?
お母さんの手が、私の頬に触れた。
……あ。
いつもの手だ。
小さい頃から、何度も私の頭を撫でてくれた手。
痛いときも、苦しいときも、握ってくれた手。
……お母さん。
ありがとう。
お母さんは、また何かを言った。
何度も、何度も。
私の名前を呼んでくれているのかな。
でも、わかるよ。
お母さんが、私のことを大好きだって。
ずっとそう言ってくれていたもん。
……覚えてる?
私が元気な子だったらよかったって、聞いた日のこと。
お母さん、言ってくれたよね。
私が生まれてきてくれて、幸せだって。
お母さん、私もだよ。
お母さんの子供に生まれて、よかった。
お父さんも、私のそばにいた。
大きな手が、私の手を包んでくれる。
お父さんまで泣いている。
……やだなぁ。
お父さんが泣いているところ、初めて見たな。
いつもみたいに笑えばいいのに。
お父さんの口が動いた。
何かを話している。
……ごめんね、お父さん。
せっかく来てくれたのに。
返事もできなくて。
でもね。
私、お父さんの声が大好きだったよ。
会社であった面白い話も。
一緒に本を読んでくれたときの声も。
絵を褒めてくれたときの声も。
全部、覚えてるよ。
……ありがとう。
お父さんの手を握り返そうとした。
でも、指が動かなかった。
……あれ?
どうして動かないんだろう。
お父さん。
私、まだ伝えたいことがあるのに。
◇
少しして、先生が来た。
小さい頃から、ずっと診てくれていた先生だった。
何度も入院して。
何度も検査して。
そのたびに、私のことを診てくれた人だ。
先生は、いつものように私の顔を覗き込んだ。
何かを話しかけてくれる。
でも、今日は少し様子が違った。
……先生?
泣いてるの?
先生の目が、赤くなっていた。
私は、びっくりした。
いつも落ち着いていて、私がどんなに苦しそうにしていても、一生懸命に助けてくれた先生。
怖い検査の前には、何をするのかちゃんと教えてくれた。
私が質問すると、いつも答えてくれた。
だから、先生のことが大好きだった。
……先生。
ありがとう。
先生のおかげで、学校へ行けた日がたくさんあったよ。
お父さんやお母さんと一緒に、笑って過ごせた日もいっぱいあったよ。
先生は、しばらく私のそばにいてくれた。
それから、ゆっくりと離れていった。
次に来てくれたのは、看護師さんだった。
小さい頃から知っている人。
いつも、明るく話しかけてくれた。
私が学校に行けた日は、一緒に喜んでくれた。
病院にいる間も、私を普通の小学生として接してくれた人だった。
看護師さんが、そっと手に触れてくれる。
何かを言っている。
……ごめん。
やっぱり、よく聞こえない。
でも、ありがとう。
看護師さんは、私の手を優しく撫でてから、離れていった。
その次も、看護師さんだった。
夜中に苦しくなったとき、何度も助けてくれた人。
眠れない私のところに来て、話をしてくれたこともあった。
私が泣いてしまったときには、落ち着くまでそばにいてくれた。
あのときは、ありがとう。
看護師さんが、何かを話しかけてくれた。
お礼、ちゃんと言いたかったな。
それからも、一人、また一人と、会いに来てくれた。
私が小さかった頃から、お世話になった人たち。
みんな、私の顔を見て、何かを話しかけてくれた。
少しだけ手を握ってくれる人。
私の髪を撫でてくれる人。
何も言わず、そばにいてくれる人。
……すごいなぁ。
こんなにたくさんの人が、私のところに来てくれたんだ。
……嬉しいな。
でも。
……ああ。
そっか。
みんな、お別れをしに来てくれたんだ。
◇
不思議と、怖くはなかった。
もちろん、寂しかった。
もっと生きたかった。
まだまだ、やりたいことがあった。
でも、もう目を開けているのも大変だった。
もっと、いろんなことをしたかった。
中学生にもなりたかったな。
制服を着て、友達と学校に行って。
大人になったら、どんな仕事をするんだろう。
そんなことも、考えてみたかった。
……残念だなぁ。
やりたいこと、まだまだいっぱいあったのに。
でも、私の十一年間には楽しいこともいっぱいあった。
お父さんが描いた、ブタみたいな猫の絵。
お母さんと約束した、公園での鬼ごっこ。
友達とのおしゃべり。
先生や看護師さんたちと過ごした時間。
思い出すと、笑顔になれることばかりだった。
……ああ。
私、こんなに大切にしてもらってたんだ。
私は、自分の人生が嫌いじゃなかった。
お父さん。
お母さん。
おじいちゃん、おばあちゃん。
先生。
看護師さん。
友達のみんな。
……ありがとう。
私と一緒にいてくれて。
人って、死んだらどうなるんだろう。
天国に行くのかな。
それとも、どこかで生まれ変わったりするのかな。
もし、生まれ変われるなら。
今度は、元気な身体がいいな。
……そうだ。
今度は、私がみんなを元気にしたい。
お母さんは、私が笑うと元気になるって言ってくれた。
お父さんは、いつも私を笑わせようとしてくれた。
先生や看護師さんたちは、苦しいときに助けてくれた。
みんなから、いっぱい元気をもらった。
いっぱい優しくしてもらった。
だから。
もし、もう一度生まれることができるなら。
今度は、私の番。
私がみんなから、たくさん元気をもらったように。
今度は、みんなに元気を分けてあげられる人になりたい。
……なれるかな。
なれるといいな。
視界が、少しずつ暗くなってきた。
もう、お父さんとお母さんの顔もよく見えない。
……眠い。
すごく、眠い。
お父さん。
お母さん。
ここまで育ててくれて、ありがとう。
私、生まれてきてよかったよ。
だから。
泣かないでね。
……。
山岬亮子。
享年十一歳。
◇
……ん?
……あれ?
温かい。
なんだろう。
それに、なんだか眩しい。
……ここ、どこ?
ゆっくり目を開ける。
目の前には、知らない天井があった。
とっても高い天井。
大きな窓。
きれいなカーテン。
それから、ものすごく大きなベッド。
……え?
病院じゃない?
ここ、どこなの?
……私、生きてるの?
不思議に思っていると、誰かが顔を覗き込んできた。
きれいな女の人だった。
長い赤い髪。
優しそうな目。
……誰?
見たことない人だ。
その人が、私を抱き上げた。
そして、何かを話しかけてきた。
「――――」
……え?
何て言ったの?
英語?
……違うなぁ。
英語なら、学校で少し勉強したことがある。
でも、今のは全然わからなかった。
何語だろう?
女の人は嬉しそうに笑っている。
私をぎゅっと抱きしめて、また何かを話しかけてきた。
「――――」
……うーん。
やっぱり、わからない。
それより。
……あれ?
身体が変だ。
手を動かそうとする。
すると、目の前に小さな手が見えた。
……え?
何これ?
ちっちゃ!
指が、ものすごく小さい。
足も動かしてみる。
……短い。
なんだか、全身が小さくなっている。
……えっ?
ちょっと待って。
もしかして。
……赤ちゃん?
私、赤ちゃんになってる!?
びっくりして、思わず声を出した。
「あーっ!」
……。
……あれ?
声まで赤ちゃんだ。
「あうっ! あーっ!」
違う!
そうじゃない!
でも、口から出てくるのは、赤ちゃんの声ばかりだった。
「うあーっ!」
すると、赤い髪の女の人が笑った。
そして、私を優しく抱きしめてくれた。
……あ。
温かい。
なんだか、懐かしいな。
お母さんに抱っこしてもらったときと、同じだ。
……そっか。
私は今、お母さんの腕の中にいるんだ。
私は、その顔を見上げた。
優しい笑顔。
何を言っているのか、まだわからない。
でも、私を大切に思ってくれていることは、なんとなく伝わってきた。
……ねえ。
お母さん。
私、また生まれてきたみたい。
こんなことって、あるんだね。
……不思議だなぁ。
でも、ちょっと嬉しい。
今度は、どんな人生になるんだろう。
……うん。
忘れてないよ。
私が最後にお願いしたこと。
今度は、みんなに元気を分けてあげたい。
赤い髪の女の人が、私の頬を優しく撫でた。
私は、その手に触れようとした。
まだ小さな手は、思ったようには動かなかった。
でも、指先が女の人の指に触れると、その人はとても嬉しそうに笑った。
……えへへっ。
私は、小さな手をぎゅっと握った。
……よーし!
頑張るぞー!
「あーっ!」
私が声を上げると、赤い髪のお母さんが笑った。
その笑顔が、とても嬉しかった。
そうして私は、アンカルジア王国の第一王女として、二度目の人生を歩き始めた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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