母からの電話
十歳の冬だった。
学校から帰ると、家には誰もいなかった。
いつものことだった。
私はランドセルを置き、冷えた部屋で一人宿題を始めた。
外はもう薄暗い。
冬の日はすぐに夜になる。
時計を見る。
まだ母は帰ってこない。
少し寂しかった。
そんな時、家の電話が鳴った。
突然の音に驚いて立ち上がる。
急いで受話器を取った。
「もしもし」
少し期待していた。
母かもしれないと思ったから。
『あ、お母さんだけど』
受話器の向こうから母の声が聞こえた。
私は少し嬉しくなった。
「お母さん!」
『今日、帰るの遅くなるから』
母はそれだけ言った。
私は慌てて話そうとした。
今日学校であったこと。
図工で褒められたこと。
給食で好きなメニューが出たこと。
聞いてほしいことがたくさんあった。
「あのね、お母さん——」
『じゃあね』
ツー、ツー、ツー。
電話は切れていた。
私はしばらく受話器を握ったまま立っていた。
静かだった。
部屋には機械音だけが響いている。
私はゆっくり受話器を戻した。
なんだか胸の奥が重かった。
せっかく母と話せると思ったのに。
ほんの少しだけでも話を聞いてほしかったのに。
私は誰にも言わなかった。
寂しいとも。
悲しいとも。
どうせ言っても困らせるだけだと思ったから。
だから今日も一人で宿題をする。
一人でご飯を待つ。
一人で夜を迎える。
十歳の私は、少しずつ覚えていった。
電話が鳴っても期待しないこと。
帰ってくると言われても待ちすぎないこと。
寂しい気持ちを隠すこと。
本当は話を聞いてほしかった。
たった五分でいい。
「今日はどうだった?」
そう聞いてほしかった。
だけど、その言葉は最後まで聞けなかった。
窓の外では冬の風が吹いていた。
私は机に向かいながら、小さくつぶやいた。
「図工、褒められたんだけどな」
その声を聞く人は、誰もいなかった。




