番外編 ランドセルの中の手紙
十歳の春だった。
学校で「おうちの人にお手紙を書きましょう」という授業があった。
母の日が近かったからだ。
先生は笑顔で言った。
「ありがとうの気持ちを書いてみようね」
教室のみんなは楽しそうに書き始めた。
「いつもありがとう」
「お弁当作ってくれてありがとう」
そんな言葉が次々と紙に並んでいく。
私は鉛筆を持ったまま止まっていた。
何を書けばいいのか分からなかった。
ありがとう。
その言葉が出てこないわけではない。
でも、本当に書きたかったことは別にあった。
私はそっと紙に書き始めた。
お母さんへ
一緒にご飯を食べたいです。
学校であったことを聞いてほしいです。
熱が出た時は、そばにいてほしいです。
誕生日を覚えていてほしいです。
おかえりって言ってほしいです。
そこまで書いて手が止まった。
胸が苦しかった。
これは手紙ではなく、お願いごとだった。
私は慌てて紙を裏返した。
そして新しい紙に書き直した。
お母さんへ
いつもありがとう。
お仕事頑張ってね。
先生に提出したのは、その短い手紙だった。
みんなと同じような手紙。
何も問題のない子どもが書くような手紙。
本当の気持ちを書いた紙は折りたたんでランドセルの奥へしまった。
誰にも見せなかった。
見せられなかった。
家に帰る。
母はいなかった。
私はランドセルを開き、その紙を取り出した。
しわになった手紙を見つめる。
本当は怒っていたわけじゃない。
恨んでいたわけでもない。
ただ寂しかった。
ただ少しだけ、愛されたかった。
十歳の子どもらしく。
当たり前に。
私はその手紙を机の引き出しにしまった。
誰にも渡せないまま。
誰にも読まれないまま。
だけど、その手紙には確かに書かれていた。
十歳の私が最後まで言えなかった、
小さな願いが。




