缶コーヒーひとつ
十歳の冬だった。
その日は朝から雪が降りそうなくらい寒かった。
学校が終わり、私は一人で帰り道を歩いていた。
手袋はなかった。
ポケットに手を入れても指先は冷たいまま。
家に帰っても母はいないだろう。
そう思いながら歩いていた。
途中の商店街で、小さな店のおばあさんが店先を掃除していた。
私は何度か見かけたことがある人だった。
「こんにちは」
小さな声で挨拶をすると、おばあさんはにっこり笑った。
「おかえり。寒いねぇ」
その言葉に私は少し驚いた。
家でも学校でもない場所で、
「おかえり」
と言われたのは久しぶりだったからだ。
私は小さく頷いた。
おばあさんは店の中へ入り、しばらくして戻ってきた。
「これ、飲むかい?」
差し出されたのは温かいココアだった。
缶コーヒーではなく、子どもの私でも飲める甘い飲み物だった。
私は戸惑った。
「でも……」
「いいから、温まりな」
おばあさんは優しく笑った。
私は両手で缶を受け取った。
じんわり温かかった。
冷え切った指先が少しずつ温まる。
それだけなのに、胸の奥まで温かくなった気がした。
「ありがとう」
そう言うと、おばあさんは嬉しそうに頷いた。
「風邪ひかないように帰るんだよ」
たったそれだけの会話だった。
でも私には特別だった。
家に帰っても誰もいない。
今日あったことを話す相手もいない。
心配してくれる人もいない。
そんな毎日の中で、
誰かが自分を気にかけてくれた。
それが嬉しかった。
帰り道、私は缶を両手で握りながら歩いた。
白い息が空へ消えていく。
缶の温かさは少しずつ冷めていったけれど、
おばあさんの言葉はなかなか消えなかった。
「おかえり」
「寒いねぇ」
「風邪ひかないようにね」
十歳の私はその日知った。
優しさは大きなものじゃなくていい。
ほんの少しの言葉や気遣いでも、
寂しい心を温めることがあるのだと。
家の玄関を開ける前に、私はもう一度缶を見つめた。
空になったココアの缶は、
なぜか宝物みたいに思えた。




