表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

【一章・二話】人間の世界

第2話 人間の世界


麻の網が、脚に食い込んでいた。

「待って。待って、待って……!」

引っ張る。

締まった。

もう一度引っ張ると、さらに締まった。

「なんで……」

片脚と外套の裾を絡め取られ、雪の上から立ち上がることもできない。

頭上では、網から伸びた紐に引かれて細い若木が大きくしなり、その先に結ばれた赤い布が白い森の中でひらひら揺れていた。

どう見ても罠だった。

人族に会うために里を出た。

それは間違っていないけれど、人族に捕まるために来たわけではない。

ほんの少し前までは、もう少しうまくいっていた。

狐族の里を出て、三日目だった。

「……帰ろうかな」

朝になるたび、そう思った。

それでも日が昇ると、足はまた南へ向いた。

その日の昼前、古い狩人道に、それまでなかったものを見つけた。

斧で切られたばかりの枝と、雪の上に残る底の平らな靴跡。

人族だ。

近くにいる。

胸が高鳴るのと同時に足が止まった。

会うために里を出たはずなのに、本当にいるかもしれないと思った途端、身体は勝手に太い木の陰へ隠れていた。

このまま会うわけにはいかない。

目を閉じ、胸の奥へ意識を向ける。

白い耳を髪の中へ沈め、シュシュとカカを人族の輪郭の内側へ押し込む。

二本の重みが消える代わりに、身体の内側をぎゅっと締めつけられるような窮屈さが広がった。

頭へ触れて耳がないことを確かめ、背中へ手を回す。

尻尾もない。

これなら、人族の子どもに見えるはずだ。

この術は人族になりたくて覚えたものではなく、人族に見つかっても生きて帰るために教わったものだった。

この姿で、本当に人族と話したことは一度もないけれど。

木の陰から顔を出すと、もう誰もいなかった。

靴跡だけが狩人道を外れ、細い獣道へ続いている。

街道を探すなら、そのまま南へ行けばいい。

分かっていたのに、足は靴跡の方へ一歩、もう一歩と進んだ。

どんな人なんだろう。

里で聞かされた通りなのか。

それとも、本の中に出てきた人たちみたいな人かもしれない。

そんなことを考えながら足跡を追っていると、途中で一か所だけ、足跡と足跡の間が大きく空いていた。

次の跡へ足を伸ばしてみるが、届かない。

「……人族って、こんなに歩幅が広いのかな」

もう少し伸ばしてみても、やっぱり届かなかった。

仕方なく、間に残った新しい雪へ足を下ろす。

かちり。

「え?」

「かかった!?」

雪を踏む音が、こちらへ近づいてくる。

来る。

逃げないと。

網を外さないと。

でも、どちらもできない。

木々の間から、一人の少女が飛び出してきた。

私と同じくらいか、少し年上だろうか。

栗色の髪を一つに編み、毛皮のついた外套を羽織っている。

背中には短い弓、腰には小刀と角笛。

人族だ。

本の挿絵では何度も見たけれど、本物を見るのは初めてだった。

少女は頭上の赤い布を見て、次に雪の上の私を見ると、目を丸くした。

「……なんで人がかかってるの?」

なんでと聞かれても困る。

「……ごめんなさい」

「謝るのはあと。今、外すから」

少女が目の前へしゃがみ込む。

近い。

身体が勝手に後ろへ逃げ、網がさらに脚へ食い込んだ。

「動かないで。もっと締まるよ」

慌てて止まると、少女は右手の手袋を歯で外し、網を留めている金具へ手を伸ばした。

「少しだけ、こっちに倒れられる?」

「……うん」

言われた通りに身体を傾けたものの、外套まで網に絡んでいてうまく支えられない。

雪についた手が滑り、そのまま身体が傾いた。

「あっ」

少女の素手が伸び、私の手首を掴んだ。

温かい。

息が止まった。

フロシュ。

シュシュを抱いたまま、雪の上へ崩れた姿が一瞬で浮かぶ。

この子も――

「っ!」

手を振りほどこうとする。

「動いちゃ駄目だって。転ぶよ」

少女の指に力が入った。

離れない。

それなのに、腕から力は抜けず、膝も折れない。

「……え?」

「なに?」

何も起きなかった。

少女は不思議そうにこちらを見たあと、私の手首を掴んだまま、もう片方の手で金具を外した。

若木からの引きが緩み、網が雪の上へ落ちる。

「ほら、立てる?」

差し出された素手を見る。

さっき触れられても、何も起きなかった。

それでも手は伸ばせず、雪へ両手をついて自分で立ち上がった。

少女は差し出した手と私の顔を交互に見たけれど、何も言わず、雪へ落ちていた手袋を拾った。

「どこか痛い?」

「大丈夫」

脚を動かしてみる。

網の跡は残っているものの、歩けないほどではない。

「そっか」

少女はほっと息を吐いたあと、雪の上へ広がった網を見て、今度は違う意味でため息をついた。

「あーあ。今朝仕掛けたばっかりなのに」

「……壊れた?」

「網は大丈夫。でも、ここはもう駄目かな。これだけ跡がついたら、獲物が警戒するし」

少女は雪の中から小さな板を掘り出すと、そこに残った靴跡を指差した。

「これ、踏んだ?」

「踏んでない」

少女が黙って板を見る。

私も見る。

真ん中には、私の靴跡がくっきり残っていた。

「……足を置いただけで」

「それを踏んだって言うの」

「わざとじゃないよ」

「わざとじゃなくても、踏んだら同じでしょ」

何も言い返せなかった。

少女は網を畳むと、そのまま別の獣道へ歩いていく。

怒られなかったし、捕まえられもしなかった。

今のうちに離れようと反対へ向きかけたところで、後ろから声が飛んできた。

「どこ行くの?」

振り返ると、少女が網を抱えたままこちらを見ている。

「……南」

「その前に」

少女が網を持ち上げた。

「手伝ってくれるんでしょう?」

「私も?」

「罠、一つ駄目にしたんだから」

「でも、わざとじゃ――」

少女の目が細くなる。

「……手伝います」

「うん」

少し離れて後を追うと、少女は二本の若木が向かい合って生えた別の獣道で網を下ろした。

「そっちの紐、持って」

「これ?」

「そう。それ引いて」

言われた通りに力を込めると、若木が少しずつしなっていく。

「もう少し」

さらに引いたところで、背骨の下がちくりと疼いた。

消したはずの二本が、身体の内側で身じろぎした気がする。

思わず腰へ伸びた手を見て、少女が首を傾げた。

「どうしたの?」

「……なんでもない」

手を戻して紐を掴み直すと、少女はまた作業を始めた。

金具が、かちり、かちりと留まっていく。

その音を聞きながら、何か話そうとした。

せっかく本物の人族が目の前にいるのに、何を聞けばいいのか分からない。

「……名前」

少女の手が止まった。

「え?」

「名前、聞いてもいい?」

「私の?」

「うん」

少女は一度瞬きをした。

「サラ」

サラ、と頭の中で繰り返す。

「あなたは?」

一瞬だけ、嘘の名前を名乗るべきか迷った。

「……グレイス」

出てきたのは、いつもの名前だった。

「グレイスね」

人族の口から自分の名前を聞くと、何度も呼ばれてきたはずなのに、少しだけ違う名前みたいに聞こえた。

「じゃあグレイス、そこ押さえて」

「うん」

言われた場所へ手を置くと、サラが最後の金具を留めた。

「よし」

サラは枝を拾い、罠の周りについた足跡を均し始める。

「何を捕まえるの?」

「雪兎とか、雪鶏とか。たまにイタチ」

少し考えてから付け足した。

「狐とか」

「狐も?」

「狐も」

背中にないシュシュとカカが、むずむずした気がした。

「捕まえたら、全部持って帰るの?」

「ううん。小さいのは逃がすよ。腹に子がいるのも」

「どうして?」

「全部捕ったら、来年いなくなるでしょ」

当たり前みたいに言って、サラはまた雪を均す。

狐は捕まえるのに、小さい狐は逃がすらしい。

人族は、やっぱりよく分からない。

「グレイスもやって」

渡された枝を受け取り、サラの真似をして雪を均していると、しばらくして声が飛んできた。

「グレイス、この辺の子じゃないよね」

「……うん」

「どこから来たの?」

「遠くから」

「一人で?」

「……一人じゃないよ」

答えた瞬間、しまったと思った。

サラは私の鞄と、私が来た方角を順に見る。

「じゃあ、一緒の人は?」

「……」

「迷子?」

「違う」

「父さん呼ぼうか?」

「迷ってないよ」

「ふうん」

信じていない顔だったけれど、それ以上は聞いてこなかった。

二人で最後まで足跡を均し、赤い布を結ぶ。

「終わり」

サラは近くの倒木へ腰を下ろし、鞄から干し肉を取り出した。

その途端、ぐう、とお腹が鳴った。

目が合う。

「……今のは違う」

「何が?」

「お腹空いてないから」

ぐう。

もう一度鳴る。

サラが笑った。

「お腹は空いてるみたいだけど」

「……少しだけ」

右の手袋を外したサラは干し肉を半分に裂き、こちらへ差し出しかけたところで手を止めた。

私の顔を見たあと、何も聞かずに干し肉を倒木の真ん中へ置き、自分は端へ寄る。

「ここ置いとくね」

サラの手が離れてから、干し肉を取った。

「……ありがとう」

「どういたしまして」

少し離れたところへ腰を下ろす。

同じ食卓ではないし、そもそも食卓ですらない。

それでも、すぐそばから誰かが干し肉を噛む音が聞こえてくる。

私も一口かじった。

塩辛かったけれど、もう一口かじる。

「それで」

サラが言った。

「グレイスはどこへ行くの?」

今度は、答えを知っていた。

「人間の世界」

サラの手が止まった。

「……人間の世界?」

「うん」

サラは少し首を傾げた。

「変な言い方するね」

「そう?」

「だって、グレイスも人間でしょ?」

胸の奥が跳ねた。

「……うん」

返事が少し遅れた。

サラはしばらく私の顔を見ていた。

「人がたくさんいるところに、行ってみたいの」

ごまかすようにそう言うと、サラの眉はまだ少し寄ったままだったが、やがて干し肉へ視線を戻した。

「ふうん」

私も干し肉をもう一口かじる。

その時、耳の付け根がじわりと熱くなった。

「……っ」

思わず頭を押さえると、サラがこちらを覗き込んだ。

「痛いの?」

「ちょっとだけ」

熱は引かず、背中の下もまた疼き始めていた。

こんなに長く人族の姿でいたことは、一度もない。

ブオッ。

森の奥から低い音が響き、びくりと肩が跳ねる。

サラはすぐに立ち上がり、腰の角笛を取って短く一度吹き返した。

「父さんだ。そろそろ合流する時間」

鞄を背負いながら、少し得意そうに笑う。

「今日、初めてこの辺の罠を一人で任せてもらったんだ」

「一人で?」

「うん」

それから、思いついたようにこちらを見る。

「グレイスも来る?」

「私も?」

「父さんがいいって言ったら、一緒に村まで来れば? もうすぐ暗くなるし」

「村……」

サラについていけば、人族の村へ入れる。

さっきみたいに倒木の端と端ではなく、今度は同じ机でご飯を食べられるかもしれない。

知らない人族がたくさんいると思うと怖い。

それでも、行ってみたかった。

「行っても、いいの?」

「だから父さんに聞くんだって。勝手に連れて帰ったら、私が怒られるし」

サラが手を差し出した。

さっき私の手首を掴んだ、何もつけていない右手だった。

一度は触れても何も起きなかった。

だから今度は、自分から手を伸ばしてみる。

指先が近づき、あと少しで触れる。

その瞬間。

耳の付け根に鋭い痛みが走った。

「っ……!」

シュシュとカカが、身体の内側から一気に押し返してくる。

手を引き、両手で頭を押さえた。

「グレイス?」

駄目だ。

もう保たない。

行きたい。

でも、このままついていけば、途中で耳も尻尾も出てしまう。

サラだけでなく、その父親にも見られる。

「……行けない」

「え?」

「待ってる人がいるから」

また、嘘をついた。

サラが眉を寄せる。

「さっき言ってた人?」

「……うん」

「でも――」

もう一度、角笛が鳴った。

サラは森の奥へ目を向けてから、もう一度私を見る。

「分かった」

それだけだった。

「川までなら同じ方向だから。そこまで一緒に行こう」

少し離れてサラの後を歩いた。

もう耳の形を保つだけで精一杯だった。

しばらく斜面を下ると水の音が聞こえ始め、やがて細い川へ出た。

中央だけが凍らず、黒い水が岩の間を流れている。

サラは川辺で足を止めた。

「この川を下れば街道に出るよ。途中では渡らないでね。下の方に石橋があるから」

「うん」

「それと」

サラがこちらを見る。

「今度は足跡の間が空いてても、変なところ踏まないこと」

「……気をつける」

「足を置くのも駄目だからね」

「もう分かってる」

サラが笑った。

「じゃあね、グレイス」

胸の奥が、少しだけきゅっとなる。

「……さようなら、サラ」

サラは上流へ向かって走っていった。

その背中が木々の向こうへ消え、足音も角笛も聞こえなくなってから、ようやく力を抜く。

白い耳が髪の間から飛び出し、続いてシュシュとカカが服の裾から現れて、どさりと雪の上へ落ちた。

「はぁ……」

身体を締めつけていた窮屈さが消れると同時に、胸の奥がざわつき始めた。

周りにある何かへ勝手に手を伸ばそうとする、いつもの嫌な感覚。

人族の姿でいる間は、ほとんど気にならなかった。

サラに掴まれた手首を見る。

素手で触れられたのに、サラは倒れなかった。

「……どうして?」

人族の姿だったからだろうか。

分からないけれど、もしもう少し長くあの姿でいられるようになれば、サラの村へ行けるかもしれない。

誰かと一緒に、ご飯を食べられるかもしれない。

そう考えてから、雪の上に広がったシュシュとカカを見る。

サラがグレイスと呼んだのは、白い耳も、シュシュもカカもない私だった。

この姿でも、同じように呼んでくれただろうか。

「……分かんない」

サラに教えられた通り、川を渡らずに下った。

日が傾く頃には、木々の間に雪へ埋もれかけた石橋が見え、その向こうからは石を敷いた道が続いていた。

人族の街道だ。

そこからさらに歩いていくと、やがて森が途切れ、その先に一つ、二つと屋根が見え始めた。

足が止まった。

石と木でできた小さな家々が並び、中央には井戸、その周りには雪に埋もれた畑が広がっている。

「村……」

鞄の上から、本の形を確かめる。

村へ近づこうとして、もう一度足が止まった。

頭の上では白い耳が風の音を拾い、後ろではシュシュとカカが揺れている。

このまま入るわけにはいかない。

街道を外れて木の陰へ隠れ、もう一度胸の奥へ意識を向ける。

昼よりも、ずっと重い。

耳を消すだけで頭の奥がじんと痛み、シュシュとカカもなかなか消えてくれない。

「お願い……」

何度か息を整えてから、もう一度力を込める。

ようやく二本の重みが消えた。

頭へ触れてみても、もう耳はない。

長くは保たない。

誰か一人を見つけて、少し話せればそれでいい。

石畳へ戻り、村へ向かった。

最初の家は窓が暗く、その隣も扉が閉ざされていた。

さらに奥へ進み、中央の井戸まで来ても、誰ともすれ違わない。

「……?」

日暮れが近いのに、どの煙突からも煙は上がらず、夕食の匂いもせず、話し声も家畜の鳴き声も聞こえなかった。

「こんにちは……?」

声は家々の間へ消えていったが、返事はない。

歩くたび、雪の上に私の足跡だけが増えていく。

初めて辿り着いた人間の村には、人間だけがいなかった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ