【一章・二話】人間の世界
第2話 人間の世界
麻の網が、脚に食い込んでいた。
「待って。待って、待って……!」
引っ張る。
締まった。
もう一度引っ張ると、さらに締まった。
「なんで……」
片脚と外套の裾を絡め取られ、雪の上から立ち上がることもできない。
頭上では、網から伸びた紐に引かれて細い若木が大きくしなり、その先に結ばれた赤い布が白い森の中でひらひら揺れていた。
どう見ても罠だった。
人族に会うために里を出た。
それは間違っていないけれど、人族に捕まるために来たわけではない。
ほんの少し前までは、もう少しうまくいっていた。
◇
狐族の里を出て、三日目だった。
「……帰ろうかな」
朝になるたび、そう思った。
それでも日が昇ると、足はまた南へ向いた。
その日の昼前、古い狩人道に、それまでなかったものを見つけた。
斧で切られたばかりの枝と、雪の上に残る底の平らな靴跡。
人族だ。
近くにいる。
胸が高鳴るのと同時に足が止まった。
会うために里を出たはずなのに、本当にいるかもしれないと思った途端、身体は勝手に太い木の陰へ隠れていた。
このまま会うわけにはいかない。
目を閉じ、胸の奥へ意識を向ける。
白い耳を髪の中へ沈め、シュシュとカカを人族の輪郭の内側へ押し込む。
二本の重みが消える代わりに、身体の内側をぎゅっと締めつけられるような窮屈さが広がった。
頭へ触れて耳がないことを確かめ、背中へ手を回す。
尻尾もない。
これなら、人族の子どもに見えるはずだ。
この術は人族になりたくて覚えたものではなく、人族に見つかっても生きて帰るために教わったものだった。
この姿で、本当に人族と話したことは一度もないけれど。
木の陰から顔を出すと、もう誰もいなかった。
靴跡だけが狩人道を外れ、細い獣道へ続いている。
街道を探すなら、そのまま南へ行けばいい。
分かっていたのに、足は靴跡の方へ一歩、もう一歩と進んだ。
どんな人なんだろう。
里で聞かされた通りなのか。
それとも、本の中に出てきた人たちみたいな人かもしれない。
そんなことを考えながら足跡を追っていると、途中で一か所だけ、足跡と足跡の間が大きく空いていた。
次の跡へ足を伸ばしてみるが、届かない。
「……人族って、こんなに歩幅が広いのかな」
もう少し伸ばしてみても、やっぱり届かなかった。
仕方なく、間に残った新しい雪へ足を下ろす。
かちり。
「え?」
◇
「かかった!?」
雪を踏む音が、こちらへ近づいてくる。
来る。
逃げないと。
網を外さないと。
でも、どちらもできない。
木々の間から、一人の少女が飛び出してきた。
私と同じくらいか、少し年上だろうか。
栗色の髪を一つに編み、毛皮のついた外套を羽織っている。
背中には短い弓、腰には小刀と角笛。
人族だ。
本の挿絵では何度も見たけれど、本物を見るのは初めてだった。
少女は頭上の赤い布を見て、次に雪の上の私を見ると、目を丸くした。
「……なんで人がかかってるの?」
なんでと聞かれても困る。
「……ごめんなさい」
「謝るのはあと。今、外すから」
少女が目の前へしゃがみ込む。
近い。
身体が勝手に後ろへ逃げ、網がさらに脚へ食い込んだ。
「動かないで。もっと締まるよ」
慌てて止まると、少女は右手の手袋を歯で外し、網を留めている金具へ手を伸ばした。
「少しだけ、こっちに倒れられる?」
「……うん」
言われた通りに身体を傾けたものの、外套まで網に絡んでいてうまく支えられない。
雪についた手が滑り、そのまま身体が傾いた。
「あっ」
少女の素手が伸び、私の手首を掴んだ。
温かい。
息が止まった。
フロシュ。
シュシュを抱いたまま、雪の上へ崩れた姿が一瞬で浮かぶ。
この子も――
「っ!」
手を振りほどこうとする。
「動いちゃ駄目だって。転ぶよ」
少女の指に力が入った。
離れない。
それなのに、腕から力は抜けず、膝も折れない。
「……え?」
「なに?」
何も起きなかった。
少女は不思議そうにこちらを見たあと、私の手首を掴んだまま、もう片方の手で金具を外した。
若木からの引きが緩み、網が雪の上へ落ちる。
「ほら、立てる?」
差し出された素手を見る。
さっき触れられても、何も起きなかった。
それでも手は伸ばせず、雪へ両手をついて自分で立ち上がった。
少女は差し出した手と私の顔を交互に見たけれど、何も言わず、雪へ落ちていた手袋を拾った。
「どこか痛い?」
「大丈夫」
脚を動かしてみる。
網の跡は残っているものの、歩けないほどではない。
「そっか」
少女はほっと息を吐いたあと、雪の上へ広がった網を見て、今度は違う意味でため息をついた。
「あーあ。今朝仕掛けたばっかりなのに」
「……壊れた?」
「網は大丈夫。でも、ここはもう駄目かな。これだけ跡がついたら、獲物が警戒するし」
少女は雪の中から小さな板を掘り出すと、そこに残った靴跡を指差した。
「これ、踏んだ?」
「踏んでない」
少女が黙って板を見る。
私も見る。
真ん中には、私の靴跡がくっきり残っていた。
「……足を置いただけで」
「それを踏んだって言うの」
「わざとじゃないよ」
「わざとじゃなくても、踏んだら同じでしょ」
何も言い返せなかった。
少女は網を畳むと、そのまま別の獣道へ歩いていく。
怒られなかったし、捕まえられもしなかった。
今のうちに離れようと反対へ向きかけたところで、後ろから声が飛んできた。
「どこ行くの?」
振り返ると、少女が網を抱えたままこちらを見ている。
「……南」
「その前に」
少女が網を持ち上げた。
「手伝ってくれるんでしょう?」
「私も?」
「罠、一つ駄目にしたんだから」
「でも、わざとじゃ――」
少女の目が細くなる。
「……手伝います」
「うん」
少し離れて後を追うと、少女は二本の若木が向かい合って生えた別の獣道で網を下ろした。
「そっちの紐、持って」
「これ?」
「そう。それ引いて」
言われた通りに力を込めると、若木が少しずつしなっていく。
「もう少し」
さらに引いたところで、背骨の下がちくりと疼いた。
消したはずの二本が、身体の内側で身じろぎした気がする。
思わず腰へ伸びた手を見て、少女が首を傾げた。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
手を戻して紐を掴み直すと、少女はまた作業を始めた。
金具が、かちり、かちりと留まっていく。
その音を聞きながら、何か話そうとした。
せっかく本物の人族が目の前にいるのに、何を聞けばいいのか分からない。
「……名前」
少女の手が止まった。
「え?」
「名前、聞いてもいい?」
「私の?」
「うん」
少女は一度瞬きをした。
「サラ」
サラ、と頭の中で繰り返す。
「あなたは?」
一瞬だけ、嘘の名前を名乗るべきか迷った。
「……グレイス」
出てきたのは、いつもの名前だった。
「グレイスね」
人族の口から自分の名前を聞くと、何度も呼ばれてきたはずなのに、少しだけ違う名前みたいに聞こえた。
「じゃあグレイス、そこ押さえて」
「うん」
言われた場所へ手を置くと、サラが最後の金具を留めた。
「よし」
サラは枝を拾い、罠の周りについた足跡を均し始める。
「何を捕まえるの?」
「雪兎とか、雪鶏とか。たまにイタチ」
少し考えてから付け足した。
「狐とか」
「狐も?」
「狐も」
背中にないシュシュとカカが、むずむずした気がした。
「捕まえたら、全部持って帰るの?」
「ううん。小さいのは逃がすよ。腹に子がいるのも」
「どうして?」
「全部捕ったら、来年いなくなるでしょ」
当たり前みたいに言って、サラはまた雪を均す。
狐は捕まえるのに、小さい狐は逃がすらしい。
人族は、やっぱりよく分からない。
「グレイスもやって」
渡された枝を受け取り、サラの真似をして雪を均していると、しばらくして声が飛んできた。
「グレイス、この辺の子じゃないよね」
「……うん」
「どこから来たの?」
「遠くから」
「一人で?」
「……一人じゃないよ」
答えた瞬間、しまったと思った。
サラは私の鞄と、私が来た方角を順に見る。
「じゃあ、一緒の人は?」
「……」
「迷子?」
「違う」
「父さん呼ぼうか?」
「迷ってないよ」
「ふうん」
信じていない顔だったけれど、それ以上は聞いてこなかった。
二人で最後まで足跡を均し、赤い布を結ぶ。
「終わり」
サラは近くの倒木へ腰を下ろし、鞄から干し肉を取り出した。
その途端、ぐう、とお腹が鳴った。
目が合う。
「……今のは違う」
「何が?」
「お腹空いてないから」
ぐう。
もう一度鳴る。
サラが笑った。
「お腹は空いてるみたいだけど」
「……少しだけ」
右の手袋を外したサラは干し肉を半分に裂き、こちらへ差し出しかけたところで手を止めた。
私の顔を見たあと、何も聞かずに干し肉を倒木の真ん中へ置き、自分は端へ寄る。
「ここ置いとくね」
サラの手が離れてから、干し肉を取った。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
少し離れたところへ腰を下ろす。
同じ食卓ではないし、そもそも食卓ですらない。
それでも、すぐそばから誰かが干し肉を噛む音が聞こえてくる。
私も一口かじった。
塩辛かったけれど、もう一口かじる。
「それで」
サラが言った。
「グレイスはどこへ行くの?」
今度は、答えを知っていた。
「人間の世界」
サラの手が止まった。
「……人間の世界?」
「うん」
サラは少し首を傾げた。
「変な言い方するね」
「そう?」
「だって、グレイスも人間でしょ?」
胸の奥が跳ねた。
「……うん」
返事が少し遅れた。
サラはしばらく私の顔を見ていた。
「人がたくさんいるところに、行ってみたいの」
ごまかすようにそう言うと、サラの眉はまだ少し寄ったままだったが、やがて干し肉へ視線を戻した。
「ふうん」
私も干し肉をもう一口かじる。
その時、耳の付け根がじわりと熱くなった。
「……っ」
思わず頭を押さえると、サラがこちらを覗き込んだ。
「痛いの?」
「ちょっとだけ」
熱は引かず、背中の下もまた疼き始めていた。
こんなに長く人族の姿でいたことは、一度もない。
ブオッ。
森の奥から低い音が響き、びくりと肩が跳ねる。
サラはすぐに立ち上がり、腰の角笛を取って短く一度吹き返した。
「父さんだ。そろそろ合流する時間」
鞄を背負いながら、少し得意そうに笑う。
「今日、初めてこの辺の罠を一人で任せてもらったんだ」
「一人で?」
「うん」
それから、思いついたようにこちらを見る。
「グレイスも来る?」
「私も?」
「父さんがいいって言ったら、一緒に村まで来れば? もうすぐ暗くなるし」
「村……」
サラについていけば、人族の村へ入れる。
さっきみたいに倒木の端と端ではなく、今度は同じ机でご飯を食べられるかもしれない。
知らない人族がたくさんいると思うと怖い。
それでも、行ってみたかった。
「行っても、いいの?」
「だから父さんに聞くんだって。勝手に連れて帰ったら、私が怒られるし」
サラが手を差し出した。
さっき私の手首を掴んだ、何もつけていない右手だった。
一度は触れても何も起きなかった。
だから今度は、自分から手を伸ばしてみる。
指先が近づき、あと少しで触れる。
その瞬間。
耳の付け根に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
シュシュとカカが、身体の内側から一気に押し返してくる。
手を引き、両手で頭を押さえた。
「グレイス?」
駄目だ。
もう保たない。
行きたい。
でも、このままついていけば、途中で耳も尻尾も出てしまう。
サラだけでなく、その父親にも見られる。
「……行けない」
「え?」
「待ってる人がいるから」
また、嘘をついた。
サラが眉を寄せる。
「さっき言ってた人?」
「……うん」
「でも――」
もう一度、角笛が鳴った。
サラは森の奥へ目を向けてから、もう一度私を見る。
「分かった」
それだけだった。
「川までなら同じ方向だから。そこまで一緒に行こう」
少し離れてサラの後を歩いた。
もう耳の形を保つだけで精一杯だった。
しばらく斜面を下ると水の音が聞こえ始め、やがて細い川へ出た。
中央だけが凍らず、黒い水が岩の間を流れている。
サラは川辺で足を止めた。
「この川を下れば街道に出るよ。途中では渡らないでね。下の方に石橋があるから」
「うん」
「それと」
サラがこちらを見る。
「今度は足跡の間が空いてても、変なところ踏まないこと」
「……気をつける」
「足を置くのも駄目だからね」
「もう分かってる」
サラが笑った。
「じゃあね、グレイス」
胸の奥が、少しだけきゅっとなる。
「……さようなら、サラ」
サラは上流へ向かって走っていった。
その背中が木々の向こうへ消え、足音も角笛も聞こえなくなってから、ようやく力を抜く。
白い耳が髪の間から飛び出し、続いてシュシュとカカが服の裾から現れて、どさりと雪の上へ落ちた。
「はぁ……」
身体を締めつけていた窮屈さが消れると同時に、胸の奥がざわつき始めた。
周りにある何かへ勝手に手を伸ばそうとする、いつもの嫌な感覚。
人族の姿でいる間は、ほとんど気にならなかった。
サラに掴まれた手首を見る。
素手で触れられたのに、サラは倒れなかった。
「……どうして?」
人族の姿だったからだろうか。
分からないけれど、もしもう少し長くあの姿でいられるようになれば、サラの村へ行けるかもしれない。
誰かと一緒に、ご飯を食べられるかもしれない。
そう考えてから、雪の上に広がったシュシュとカカを見る。
サラがグレイスと呼んだのは、白い耳も、シュシュもカカもない私だった。
この姿でも、同じように呼んでくれただろうか。
「……分かんない」
◇
サラに教えられた通り、川を渡らずに下った。
日が傾く頃には、木々の間に雪へ埋もれかけた石橋が見え、その向こうからは石を敷いた道が続いていた。
人族の街道だ。
そこからさらに歩いていくと、やがて森が途切れ、その先に一つ、二つと屋根が見え始めた。
足が止まった。
石と木でできた小さな家々が並び、中央には井戸、その周りには雪に埋もれた畑が広がっている。
「村……」
鞄の上から、本の形を確かめる。
村へ近づこうとして、もう一度足が止まった。
頭の上では白い耳が風の音を拾い、後ろではシュシュとカカが揺れている。
このまま入るわけにはいかない。
街道を外れて木の陰へ隠れ、もう一度胸の奥へ意識を向ける。
昼よりも、ずっと重い。
耳を消すだけで頭の奥がじんと痛み、シュシュとカカもなかなか消えてくれない。
「お願い……」
何度か息を整えてから、もう一度力を込める。
ようやく二本の重みが消えた。
頭へ触れてみても、もう耳はない。
長くは保たない。
誰か一人を見つけて、少し話せればそれでいい。
石畳へ戻り、村へ向かった。
最初の家は窓が暗く、その隣も扉が閉ざされていた。
さらに奥へ進み、中央の井戸まで来ても、誰ともすれ違わない。
「……?」
日暮れが近いのに、どの煙突からも煙は上がらず、夕食の匂いもせず、話し声も家畜の鳴き声も聞こえなかった。
「こんにちは……?」
声は家々の間へ消えていったが、返事はない。
歩くたび、雪の上に私の足跡だけが増えていく。
初めて辿り着いた人間の村には、人間だけがいなかった。




