【一章・三話】白い悪魔
第3話 白い悪魔
村へ着いた夜は、一晩だけ雪と風をしのぐつもりだった。
屋根の崩れていない家を一軒選び、誰もいない部屋へ頭を下げた。
「一晩だけ……お邪魔します」
そう言った日から、半年が過ぎた。
本当に、一晩だけのつもりだった。
もちろん、居心地がよかったから居ついたわけではない。
寒ければ炉へ火を入れられたし、井戸からはいつでも水を汲めた。
村には、読み切れないほどの本まで残されていた。
ただ、居心地がよすぎただけだ。
それに、ちゃんとした理由もあった。
人族の姿を、一日中保てるようになりたかったのだ。
サラが差し出してくれた手を、私は取れなかった。
次に誰かが手を差し出してくれた時には、今度こそ、ちゃんと握り返したい。
ここなら、何度失敗しても誰にも見られない。
暮らすうちに、家々へ残されたものから、村のことも次第に分かってきた。
ここは昔、魔石を掘る人たちの村だったらしい。
家並みの奥には板で塞がれた坑道があり、そのそばの建物には、採れた魔石の名前と量を記した日誌が何冊も残されていた。
緋芯石、蒼脈石、翠葉石。
どれも、狐族の里では聞いたことのない名前だった。
頁をめくるたび、名前の横に並ぶ数字は小さくなっていった。
やがて空欄が増え、一番新しい日誌は途中で途切れていた。
たぶん、掘っても魔石が出なくなり、それで村の人たちは別の土地へ移ったのだと思う。
私が来てから半年、戻ってくる人は一人もいなかった。
家に残されていた鏡で姿を確かめながら、毎日、擬態の練習を続けた。
サラと一緒にいた時と同じくらいなら、どうにか人族の姿でいられた。
けれど、それより長く保とうとすると、決まって右の耳が戻った。
慌てて押し込めれば、今度は左の耳が髪を押し分ける。
両方をどうにか消して鏡へ向き直った時には、外套の裾からシュシュがのぞいていた。
「シュシュ、今は出てきちゃだめ」
シュシュを身体の内側へ戻すと、入れ替わるようにカカが現れた。
「カカも」
ようやく二本とも収まったことを確かめ、鏡の前で背筋を伸ばす。
「はじめまして。グレイスと申します」
鏡の中には、白い髪をした人族の少女が映っていた。
頭の上に耳はなく、外套も背中から裾までまっすぐに落ちている。
髪を整えているうちに、鞄へしまってある一対の冬継ぎを思い出した。
布の包みを開くと、白と灰色の糸を編んだ二本の紐が並んでいる。
本当なら、いつかシュシュとカカへ結ぶためのものだった。
けれど、今の姿には結ぶ尻尾がない。
「シュシュ、カカ。少しだけ借りるね」
左右の髪を一房ずつ取り、冬継ぎを一本ずつ結んで肩の前へ垂らしてみた。
鏡を見ながらでは難しく、右は少し低く、左はずいぶん高くなった。
それでも、白い髪に交じる二本の冬継ぎは、思っていたよりよく似合っていた。
物語の挿絵に出てくる少女を真似て微笑んでみる。
どこからどう見ても、可愛い人族の女の子だった。
もしかすると、挿絵の少女より少し可愛いかもしれない。
「うん。完璧」
満足して胸を張ると、鏡の中の私の背後で、白いものが二本ゆらりと揺れた。
「……あれ?」
冬継ぎを結ぶことに夢中になっている間に、シュシュとカカが外套の裾から戻っていた。
「いつから出てたの?」
二本は答えず、何事もなかったように揺れている。
私は髪に結んだ冬継ぎを確かめ、鏡の中の自分へうなずいた。
「よし。もう一回」
そんな失敗を繰り返すうち、擬態を保てる時間は次第に延びていった。
◇
半日ほどなら、耳も尻尾も隠していられるようになった頃のことだった。
里ではとっくに雪が消えている季節なのに、この村では、その日も朝から細かな雪が降っていた。
私は夜明けと同時に人族の姿になり、冬継ぎを髪へ結ぶと炉へ火を入れ、それからいつものように机へ向かって一冊の日記を広げた。
家の本棚で見つけた、擦り切れた薄い本だ。
村に残された本の中で一番好きなもので、もう何度読んだか分からないのに、その日もまた最初の頁を開いた。
『今年は麦がよく育った。みんなでたくさん食べて、たくさん笑った』
『また臭い鳥に畑を荒らされた。今度こそ捕まえる』
「臭い鳥……」
臭い鳥って、それは本当に鳥の名前なのだろうか。
臭いから、臭い鳥。
いくらなんでも、そのまますぎる。
きっと、日記を書いた人が勝手にそう呼んでいただけだ。
本当はもっと、ちゃんとした名前が――
ぎし。
日記から顔を上げた。
初めは、積もった雪の重みで家が軋んだのだと思った。
けれど少し間を置き、今度はさっきより近くで、ぎし、ざっ、と雪が鳴った。
身体がこわばる。
乱れた足音が近づき、そこへ、がちゃ、がちゃ、と金属の擦れる音が重なった。
誰かが、村へ入ってきた。
半年ぶりに聞く、自分以外の足音だった。
息を殺して戸へ近づき、細く開けて外をのぞくと、村へ続く坂道を鎧姿の男がよろめきながら下りてくるところだった。
手にした短杖の先では、赤い魔石が頼りなく明滅している。
人族の男の人だ。
そうだ、挨拶だ。
こういう時のために、鏡の前で何度も練習したのだ。
はじめまして。
グレイスと申します。
そう、これだ。
あとは戸を開けて、声に出すだけ――。
男が足を止め、背後を振り返った。
光の弱った短杖を雪へ投げ捨て、腰の剣を抜く。
「来るな……」
震える切っ先が、戸の隙間からは見えない何かへ向けられた。
「来るな、来るなぁっ!」
次の瞬間、白い影が男へ飛びかかった。
どん、と鈍い音が響き、家の壁まで震えた。
さっきまでそこにいた男の姿はなかった。
「え……?」
戸を押し開けると、男は数歩離れた雪の上に倒れていた。
脇腹の革鎧が大きく裂け、流れ出た血が白い雪を赤く染めている。
「血が……」
男が顔を上げ、私を見て目を見開いた。
「子ども……? なんで、こんなところに」
剣を掴み、震える腕で身体を起こそうとする。
「早く逃げろ!」
逃げるって、一体何から――。
男の視線を追うと、広場の向こうで白い巨体がこちらへ向き直っていた。
いのしし――なのだろうか。
本で見たものよりずっと大きく、雪と同じ白い毛の下では、ひび割れのような黒い筋が脈打っている。
赤黒い目は、まっすぐ私を見ていた。
怖い。
けれど、こういう時、本の中の主人公ならどうする?
逃げる?
違う。
傷ついた人を置いて、逃げたりはしない。
それなら、私だって――!
男の脇を駆け抜け、白い魔物へ右手を向けた。
「何をしている! いいから、早く――」
「大丈夫だよ。私、こういう魔法は得意なんだ」
白い魔物が雪を蹴った。
「スピラ・ウェントゥス」
手のひらへ集まった風が、ひと塊の衝撃となって一直線に放たれ、雪面を深く抉りながら白い巨体を正面から吹き飛ばした。
魔物は広場の端に残されていた荷車へ叩きつけられた。
重い荷車が横倒しになり、砕けた木枠と石屑がその身体を埋める。
それきり、魔物は動かなかった。
「……あれ?」
思っていたより、強く出た。
髪の奥で右の耳があった場所がかすかに疼き、そこを押さえながら意識を人族の輪郭へ戻すと、疼きは収まったものの、腰の奥には細い熱が残った。
「杖も、魔石もなしで……」
背後から聞こえた声が、苦しげな息へ変わる。
振り返ると、男の指の間からまた血が流れ落ちていた。
急いでそばへ戻ったものの、傷を押さえられそうなものは見当たらない。
自分の外套へ目を落とし、裾の縫い目へ指をかけた。
一度では裂けず、歯も使って細長く引き裂く。
折り重ねた布を鎧の隙間から傷口へ押し当てると、男の身体が大きく強張った。
「動かないで」
布はすぐに赤く染まった。
血が滲んでも剥がしてはいけない。
ガルムおじさんに教わった通り、両手を重ね、その上から強く押さえた。
「お前……怪我は」
「私は平気。喋らないで」
「逃げろと、言っただろ」
「聞いたよ」
「聞いてて、あれか……」
「だって、怪我してる人を置いていけないよ」
「……はは。なんだ、それは」
痛みに歪んでいた男の顔が緩み、しばらくすると、布に滲んでいた血もようやく広がらなくなった。
血が止まってきた。
私、なかなかやるじゃないか。
あ。
そういえば、まだ挨拶をしていない。
「俺はダリオだ。君は?」
先を越されてしまった。
けれど、今度こそ私の番だ。
鏡の前で練習した通り、ダリオの目をまっすぐ見た。
「グレイスと申します!」
ダリオが目を瞬く。
「……ずいぶん、かしこまるんだな」
口元をわずかに緩めてから、ダリオは言った。
「グレイス。助かった。ありがとう」
しばらく、私たちは何も話さなかった。
傷口を押さえ続け、もう一本裂いた外套の裾で、重ねた布ごと胴をきつく巻いた。
やがてダリオの呼吸も落ち着き、顔に血の気が戻り始める。
「立てそうだ」
「まだ休んでいた方がいいよ」
「ここにいる方が危ない」
ダリオは剣を杖代わりにゆっくり立ち上がったが、二歩進んだところで顔を歪め、戸口の壁へ肩を預けた。
その視線が、横倒しになった荷車へ向く。
「あれは、白枯れに侵された獣だ。毛が白くなり、身体に黒い筋が浮かぶと、人も家畜も見境なく襲う」
「白枯れ……」
ダリオは息を整えてから、私の右手を見た。
「それにしても、君は古式魔法を使えるのか?」
「古式魔法?」
「杖や魔石を使わず、自分の魔素だけで起こす昔の魔法だ。あれほどの威力を出せる者は、軍にもほとんどいない」
私には、ガルムおじさんから教わった、いつもの魔法だった。
「君は、この村で暮らしているのか?」
「うん。半年くらい」
ダリオは無人の家々を見回し、眉を寄せた。
「一人で?」
「うん」
「どうして、こんなところに」
「練習をしていたの」
「何の?」
「それは……」
人族の姿になる練習、とは言えなかった。
ダリオは何かを尋ねかけたが、すぐに痛みで顔をしかめた。
「事情はあとで聞く。白枯れが、あれ一匹とは限らない」
剣に身体を預けたまま、空いた手を私へ差し出す。
「ここを出るぞ。君を一人で置いていけない」
差し出された手を見つめた。
半年前には取れなかった手が、もう一度、目の前にある。
私はゆっくりと自分の手を伸ばした。
指先が触れるまで、あと少し。
今度こそ、握り返せる。
そう思った瞬間、腰の奥で何かがほどけ、外套の裾から白いものがこぼれて雪の上をさっと撫でた。
ダリオの指が強張る。
その視線は、私の肩越しへ向いていた。
「……それは、なんだ」
「え? 何が?」
「後ろだ。その白いものは……」
振り返ると、外套の裾からシュシュの先がのぞいていた。
「……あ」
差し出されていた手が、私に触れることなく引かれた。
「お前、まさか――」
慌てて腰の奥へ意識を向け、シュシュを人族の輪郭へ押し戻そうとした。
けれど、焦るほど擬態は崩れていく。
シュシュを隠すより先に、カカまで外套の裾からこぼれ落ちた。
耳の付け根が熱を持ち、白い耳が片方ずつ髪を押し分ける。
ダリオが一歩退き、傷口を押さえながら剣を雪へ突いて、どうにか身体を支えた。
「……魔族」
「ダリオ?」
ダリオは支えにしていた剣を持ち上げ、震える切っ先を私へ向けた。
「近づくな」
その視線が白い耳と二本の尻尾を行き来し、やがて傷口へ巻かれた布へ落ちた。
「……グレイス」
その声だけは、先ほどまでと同じだった。
「お前は、魔族なのか」
「狐族だよ」
ダリオの唇が強く結ばれた。
「でも、騙すつもりじゃなかったの。魔族だと分かったら、捕まると思って――」
「俺を助けたのは、何のためだ」
「怪我をしていたからだよ」
剣先が揺れ、わずかに下がった。
ダリオは、胴へ巻かれた布へ目を落とした。
私が裂いた外套と同じ布だと、初めて気づいたようだった。
「人に化けて近づき、傷口へ触れて、魔素を奪う。魔族は、そうするものだと教えられた」
「私は何も取ってないよ。手当てをしただけ」
巻いた布へ、また赤が滲み始めていた。
「傷が開いてる。押さえ直さないと」
手を伸ばし、一歩近づいた。
伸ばした手を見た途端、ダリオの息が短く跳ね、その顔から血の気が引いていった。
「触るな!」
恐怖に弾かれたように剣が横薙ぎに振るわれた。
反射的に顔を背けると、冷たい刃が頬のすぐそばを通り過ぎる。
肩の前へ垂らしていた二房の髪が刃の軌道へ流れ、白い髪が目の前を舞った。
二本の冬継ぎが、切り落とされた髪と一緒に雪へ落ちた。
脚から力が抜け、その場へ両膝をついた。
白と灰色の編み紐が、雪の上に転がっている。
「なんで……」
剣を振り抜いた勢いに耐えきれず、ダリオも片膝をついた。
傷口へ巻いた布は、見る間に赤く染まっていく。
ダリオの目が雪に落ちた髪と冬継ぎへ向き、それから私を見る。
その顔にあったのは、さっきまでの恐怖ではなく、自分が何をしたのか初めて気づいたような驚きだった。
剣先が雪へ沈んだ。
その時、腰の奥で細い熱が脈打った。
「……え」
息を吸っていないのに、胸の奥だけが深く息を吸う。
雪の上に転がっていた短杖の赤い魔石が弱く明滅し、ダリオの肩がびくりと震えた。
「……なんだ」
見えない何かが、細い糸のようにダリオからほどけて、こちらへ引かれてくる。
冷えきっていた指先が、内側からじわりと温かくなった。
「なに、これ……」
自分の手を見ても、何もしていない。
何もしていないのに。
「やめろ……」
顔を上げると、ダリオが私を見ていた。
「え?」
「やめろ」
剣を握る指が震えている。
その震え方は、さっきまでとは違った。
怒っているのではない。
怯えている。
「私、何も――」
短杖の赤い光が、また一つ弱くなった。
ダリオの顔から血の気が引く。
「奪ってるじゃないか……」
「違う」
何を否定しているのか、自分でも分からなかった。
「私、何もしてないよ」
ダリオの目が揺れ、私と雪に転がる短杖、自分の震える手を何度も見比べる。
やがて、その目から迷いが消えた。
傷口から手を離し、片膝をついたまま剣の柄を両手で握る。
頭上へ持ち上げるだけで腕が震え、喉から荒い息が漏れていた。
「悪魔め!」
剣が、私の頭へ振り下ろされた。
喉が裂けるほど叫んだ。
その瞬間、胸の奥が大きく息を吸った。
視界の端で、雪に埋もれていた短杖の赤い光が消え、耳の奥で、ごう、と低い音がした。
ダリオの中から何かが一気に引き剥がされる。
熱いものが胸の奥へ流れ込み、腕を通って指先まで駆け抜けた。
自分のものではない。
そう分かるのに、身体は勝手にそれを飲み込んでいく。
振り下ろされるはずだった剣が止まり、ダリオの指から柄が滑り落ちた。
◇
ぽたり。
屋根の隙間から落ちた雪解け水が、藁の上へ丸い染みを作った。
ぽたり。
頬を伝った雫が、抱えた膝の上へ落ちた。
「……あ」
久しぶりに声を出してみると、喉がひりつき、思っていたよりもかすれた音になった。
変な声。
いつもなら、それだけで笑えたのに。
村外れの小屋へ逃げ込んでから、何日が経ったのだろう。
逃げ込んだ時には戸口まで続いていた私の足跡も、そのあと降った雪に埋もれて、もう消えていた。
昼と夜を数えることも、いつの間にかやめていた。
私は、何を間違えたのだろう。
答えを探そうとするたび、ダリオから何かが流れ込んできた、あの瞬間が頭に浮かんだ。
フロシュが倒れた時と同じだった。
けれど今度は、触れてさえいなかった。
剣が雪へ落ち、そのあとでダリオも崩れ落ちた。
雪へ伏した口元から、細い白い息が上がっていたことだけは覚えている。
そこからこの小屋へ逃げ込むまでのことは、何も思い出せない。
震える手で切られた髪へ触れる。
髪に結んでいた冬継ぎは、もうない。
「助けたかっただけなのに……」
ダリオは私の名前を尋ねてくれた。
グレイスと呼び、ありがとうと言って、手まで差し出してくれた。
あと少しで、その手を取れたはずだった。
耳と尻尾が戻った途端、私は魔族になった。
それでもダリオは、もう一度だけグレイスと呼んでくれた。
けれど、最後には悪魔になった。
私は、何のために半年も練習したのだろう。
人族の姿をどれだけ長く保てても。
物語の中の人たちを真似て、傷ついた人を助けても。
誰かと一緒にいたいと願っても。
全部。
全部、無駄だった。
外套の裾から伸びたシュシュとカカが、私のそばで小さく震えていた。
「どうして、出てきたの……」
二本を掴み、身体へ強く押しつける。
「戻ってよ……」
けれど、どれだけ願っても消えてくれなかった。
ぽたり。
また、屋根から雪解け水が落ちた。
とん、とん。
顔を上げた。
今のは、水の音ではない。
とん、とん。
小屋の戸が、もう一度鳴った。




