【一章・一話】おしまいの、その先へ
# 第1話 おしまいの、その先へ
「王子さまとお姫さまは、いつまでも幸せに暮らしました」
指で文字を追いながら、ゆっくりと声に出す。
「……おしまい」
ぱたん、と本を閉じた。
表紙には、森の向こうにそびえる城が描かれている。
いちばん高い塔の窓から、お姫さまが手を振っていた。その下では王子さまと小人たちが、同じ食卓を囲んで笑っている。
悪い魔法は解けた。
恐ろしい魔女は退治された。
だから、もう誰もひとりにはならない。
「いいなぁ……」
頬杖をつき、何度も撫でた表紙を眺める。
人族の物語は、最後になると誰かが誰かの手を取った。
姿の違う小人とも、言葉を話す狼とも、一緒に食事をした。
けれど、里の大人たちが話す人族は違う。
人族は魔族を捕まえる。
角を折り、翼を切り、尻尾を売る。
森の外へ出てはいけない。
人族を見たら逃げなさい。
捕まった者は、二度と帰ってこない。
子どもの頃から、何度もそう聞かされてきた。
それなのに、この本の人たちは誰の尻尾も欲しがらなかった。
泣いている者を見つければ立ち止まり、困っている者がいれば手を差し伸べる。
もしかすると。
本当に、もしかするとだけれど。
里の大人たちが知らない人族も、どこかにはいるのかもしれない。
十二歳になったばかりの私には、確かめる方法がなかった。
里の外へ出たことは、一度もない。
「グレイス」
扉の外から名前を呼ばれ、白い耳が跳ねた。
慌てて本を、寝床に広げた古い毛織りの肩掛けの下へ隠す。
「起きているのか」
扉が、木の皿を滑り込ませられる分だけ開いた。
隙間の向こうにいたのは、灰色の毛並みをした男だった。
里で薬師をしている、ガルムおじさん。
母さんの顔を、私は覚えていない。
物心がつく前に亡くなり、そのあとは里の者たちが代わりに私を育ててくれた。
夜に眠るのも、朝に目を覚ますのも、ほとんどはガルムおじさんの家だった。
少し前までは。
「……起きてるよ」
「そうか」
木の皿が、床を滑って扉の内側へ置かれた。
硬くなったパンと、冷えた根菜の煮物。
皿の隅には、小さな干し果実が一つ添えられている。
「これ……」
「余りものだ」
干し果実が余るほど、この里に食べ物がないことくらい、私にも分かった。
「ありがとう」
ガルムおじさんは目を合わせない。
言いたいことは、ほかにもあった。
昔みたいに、薬草の話を聞かせてほしい。
頭を撫でてほしい。
扉のこちら側へ来て、もう一度、一緒に食べてほしい。
けれど、どれも言えないまま、扉が閉じる前に一言だけ伝えた。
「おやすみなさい」
しばらくして、低い声が返ってくる。
「ああ。おやすみ、グレイス」
足音が遠ざかっていった。
肩掛けの下から本を取り出し、膝の上へ置く。
「ありがとうって、ちゃんと言えたよ」
表紙のお姫さまは、笑ったままだった。
本が返事をしないことは分かっている。
それでも、誰かに聞いてほしかった。
それに、本なら私が触れても倒れない。
近づいても逃げない。
◇
最初に落ちたのは、光虫だった。
森で遊んでいた私の周りだけ、ひとつ、またひとつと金色の光が消えていった。
次に、小鳥が逃げるようになった。
その頃はまだ、どちらも偶然だと思っていた。
そして、フロシュが倒れた。
「シュシュ、つかまえた!」
雪の中でしていた尻尾鬼の途中、追いついたフロシュが後ろから右の尻尾へ抱きついてきた。
追いかける側が、逃げる側の尻尾を捕まえれば交代。
小さい頃から何度もしていた遊びだった。
この里で、二本の尻尾を持っているのは私だけだった。
みんなが珍しがる二本の尻尾を、フロシュは少しも怖がらなかった。
「二つあるなら、名前も二つにしよう」
そう言って、一緒に名前をつけてくれた。
右がシュシュ。
左がカカ。
尻尾鬼の時は、どちらを捕まえたのか名前で呼ぶのが、二人だけの決まりだった。
いつもなら、私はカカを振ってフロシュの鼻をくすぐる。
フロシュが笑って手を離したら、また逃げる。
あの日も、同じようにするつもりだった。
「今度は私が鬼だからね」
私も笑って、背中へ回された腕を掴んだ。
途端に、フロシュの身体から力が抜けた。
糸の切れた人形のように、雪の上へ崩れ落ちる。
「フロシュ?」
返事はなかった。
何度名前を呼んでも目を開けない。
頬へ触れようとしたところで、駆けつけたフロシュのお母さんに突き飛ばされた。
「近づかないで!」
フロシュを抱き上げた腕が、私から守るように強く回される。
その顔に浮かんでいたものを、私は今でも覚えている。
怒りよりも、恐怖だった。
私がよく知っているフロシュのお母さんではなくなってしまうほどの、強い恐怖。
フロシュは、その日の夜に目を覚ました。
命に別状はないと、ガルムおじさんが教えてくれた。
ただ、それから一度も、フロシュは私のところへ来なかった。
その日を境に、誰も私へ触らなくなった。
フロシュが倒れるまで、私はガルムおじさんの家で暮らしていた。
同じ食卓で食べ、同じ炉の火で暖まり、薬草を干すのを手伝った。
事故の翌日、里の者たちが集まって話し合った。
私を森へ追い出すべきだという声もあった。
狐族には、成人の儀を終えるまで、どの子も「里の火の内」で守るという古い掟がある。
狩りや魔物で親を失う子が多いため、血縁に関係なく、子どもを里全体で育てるための掟だった。
冬の森へ子どもを追い出すことは、殺すことと同じだった。
母さんのいない私が十二歳まで育ったのも、その掟があったからだ。
成人の儀では、夜明けに一人で里を出る。
森の境に置かれた石を巡り、日が沈むまでに戻る。
無事に帰れば、育て親が赤い玉のついた飾り紐を尾へ結ぶ。
里を支える一人になった証だ。
私の尻尾には、まだ何もついていない。
だから、私は追い出されなかった。
代わりに、ガルムおじさんの家から、里の端にあった物置小屋へ移された。
荷物を運び込んだその日のうちに、里へ向いた窓へ板が打ちつけられ、扉には近づいてはいけないという印が掛けられた。
誰かが間違って入ってこないように。
私も、決められた時間以外には外へ出ないよう言いつけられた。
食事は、扉の隙間から差し入れられる。
井戸を使えるのは、夜の鐘が鳴り、ほかの者が家へ戻ったあとだけ。
食事と、雨風を防ぐ屋根は与えられる。
里の者は、決まりを破っていない。
ただ、話しかけることも、一緒に食べることも、決まりには含まれていなかった。
私はもう、里の子どもの一人として数えられてはいなかった。
――あの子が近づいたから。
――二本も尾があるなんて、やっぱり普通ではなかったんだ。
――あれは本当に狐族なのか。
聞こえないふりは、ずいぶん上手になった。
シュシュとカカを身体の前へ回し、その間に両耳を挟む。
そうすれば、声は少しだけ遠くなる。
二本の名前をつけてくれたフロシュの声まで、一緒に思い出してしまうけれど。
◇
夜の鐘が鳴った。
私は食べ終えた皿を抱え、扉を開けた。
本当なら、里の者はもう家へ戻っている時間だった。
その夜に限って、広場には大勢の者が集まっていた。
中央に置かれた魔素灯が、弱々しい青色を明滅させている。
以前は朝まで里を照らしていた。
今は、月が高く昇る前に消えてしまう。
人がいると分かった瞬間、身体が動かなくなった。
扉を閉めることもできず、暗い小屋の中から広場を窺う。
「また駄目か」
誰かが魔素灯の石を叩いた。
「先月、新しい鉱石へ替えたばかりだぞ」
「南の街も同じらしい。昔と同じ術式では、半分の力も出ないそうだ」
「世界樹を見た者がいる」
声が低くなる。
「赤い葉が、また増えていたと」
広場に重たい沈黙が落ちた。
魔法は、ずっと前から少しずつ弱くなっていた。
理由は誰も知らなかった。
「このまま冬が長引けば、食料も足りなくなる」
「余計な口もあるからな」
辺りが静まり返った。
誰のことか、聞かなくても分かった。
私は働くこともできず、近くにいるだけで誰かを倒してしまうかもしれない。
里の子どもには数えられていないのに、食べる口としては、ちゃんと一つに数えられている。
「口を慎め」
ガルムおじさんの声がした。
「だが、間違ってはいないだろう」
「それは……」
言葉が途切れる。
違う、と言ってくれるのを待った。
けれど、ガルムおじさんは何も言わなかった。
里の食料が減っていることも、私が何もできないことも、本当だった。
音を立てないよう扉を閉める。
皿を寝床の脇へ置き、肩掛けの下から本を取り出す。
この本を拾ったのは、まだフロシュと森で遊ぶことができた頃だった。
里の外れで、壊れた人族の荷車を見つけた。
持ち主はおらず、使えそうな物は里の大人たちが運び出したあとだった。
泥の中に落ち、濡れて頁が貼りついた本だけは、誰も欲しがらなかった。
人族の物を持ち帰ったと知られれば叱られると思い、服の下へ隠した。
文字を教えてくれたのも、ガルムおじさんだった。
薬袋に札をつける時、ひとつずつ指で示しながら、読み方と意味を教えてくれた。
熱冷まし。
傷塞ぎ。
毒消し。
一度覚えた文字を別の札で読めると、ガルムおじさんは嬉しそうに笑った。
「お前は覚えが早い。もう少し大きくなったら、薬の帳面を任せてもいいな」
そう言って、頭を撫でてくれた。
私もいつか、ガルムおじさんのような薬師になるのだと思っていた。
誰かが苦しんでいたら、薬を作る。
元気になったら、一緒に笑う。
そんなふうに暮らしていくのだと。
拾った本に使われていたのは、ガルムおじさんに教わったものと同じ共通文字だった。
そこには、知らない言葉がたくさんあった。
城。
舞踏会。
王子さま。
お姫さま。
どれも薬袋の札や、交易品の値札には書かれていない。
人族の本を持っているとは誰にも言えず、分からない言葉があっても訊くことはできなかった。
挿絵を眺め、同じ言葉が出てくる頁を何度も見比べた。
ひとつの文章を読むのに、夜が明けてしまったこともある。
それでも諦めなかった。
一年かけて、ようやく最後まで読めるようになった。
物語の終わりでは、誰もが笑っていた。
「……人族は、怖いんだよね」
表紙のお姫さまへ問いかける。
「捕まったら、帰ってこられないんだよね」
答えはない。
「でも、この本を作ったのも、人族なんだよね」
ただの作り話なのかもしれない。
それでも。
この話を書いた人は、誰もひとりにならない終わりを考えた。
そんなものがあればいいと、少なくとも一度は思った。
物語に出てくるような人が、たったひとりでも本当にいるのなら。
その人に出会えるかもしれない方へ、歩いてみたかった。
「私も、もう一度、誰かとご飯を食べたい」
「朝は、おはようって言いたい」
「帰ったら、おかえりって言ってほしい」
言葉にすると、涙が本の表紙へ落ちた。
慌てて袖で拭う。
お姫さまの笑顔は消えなかった。
◇
夜が明ける前に、鞄へ荷物を詰めた。
少しずつ残しておいた、硬いパン。
水を入れた革袋。
薬草を採るための小刀。
昨夜の干し果実。
半分は食べた。
残りの半分は、布へ包んだ。
それから、母さんが使っていたという、古くて厚手の毛織りの肩掛け。
小屋へ移された日、ガルムおじさんが持たせてくれたものだった。
母さんの匂いは、もう残っていない。
顔も声も覚えていない私には、それが本当に母さんのものだったのか確かめることもできない。
それでも、寒い夜に身体へ巻くと、知らないはずの温かさを思い出せる気がした。
肩掛けを畳み、鞄の上へ括りつける。
最後に、たった一冊の本を入れた。
火は魔法で起こせる。水がなくなっても、雪を溶かせばいい。
食べられる草も教わった。これだけあれば森を越えられると、十二歳の私は考えた。
脚の傾いた椅子と、欠けた器が残る小屋を見回す。
ほかに持っていきたいものはなかった。
扉を開ける。
白い雪が、眠る里を覆っていた。
煙突から細い煙が昇っている。
ガルムおじさんの家からも。
フロシュの家からも。
どの窓にも明かりはなかった。
門の向こうには、雪深い森が続いている。
その先に何があるのかは分からない。
怖くないと言えば、嘘になる。
足が震えていた。
シュシュもカカも、服の裾で大きく膨らんでいる。
戻れば、成人の儀を終えるまで昨日と同じ暮らしが続く。
欲しいのは、ただ息をしていることではなかった。
私は鞄の上から、本の形を確かめた。
「王子さまとお姫さまは、いつまでも幸せに暮らしました」
物語は、そこで終わっていた。
幸せに暮らしたのなら、その先にも毎日は続いている。
私が欲しいのは、その先に続く毎日だ。
おしまいと書かれた、その先。
鞄を背負い、小屋を出る。
足跡を残さないように歩くつもりだった。
降り積もった雪には、一歩ごとに小さな窪みができた。
小屋から門まで。
私がここを出ていくことを、里へ知らせるように続いている。
それでも、引き返さなかった。
門へ手を伸ばす。
「待て、グレイス」
背後から声がした。
身体が固まった。
振り返る。
少し離れた木の陰に、ガルムおじさんが立っていた。
厚い外套を羽織り、片手に小さな包みを持っている。
「どうして……」
「会合のあと、お前のところへ戻った」
ガルムおじさんの視線が、鞄へ向く。
「言えなかったことを、言いにな」
胸が鳴った。
「小屋の外まで行って、荷造りの音を聞いた。声をかける前に、一度家へ戻った」
手にしている包みが、かすかに揺れた。
「どこへ行くつもりだ」
嘘をついても、きっと分かる。
私は鞄の上から、本を押さえた。
「人間の世界」
ガルムおじさんの目が細くなる。
「人族は、お前が思っているような者ばかりではない」
「知ってる」
「捕まれば、尾を奪われるかもしれん」
「うん」
「森を越える前に、魔物に襲われるかもしれない」
「それも、分かってる」
本当は、何も分かっていない。
森の向こうに何があるのか。
魔物がどれほど怖いのか。
人族に見つかったら、どうやって逃げればいいのか。
分かっているのは、ここに残った先だけだった。
「ここにいたら、あの小屋で大人になる日を待つだけだから」
声が震えた。
「それなら、怖くても外へ行きたい」
言い終わると、足の震えが少しだけ止まった。
ガルムおじさんが、目を伏せる。
「さっき」
低い声だった。
「お前は余計な口ではないと、皆の前で言うべきだった」
息が止まる。
「でも、言わなかった」
「……ああ」
「どうして?」
「怖かったからだ」
思っていなかった答えだった。
「お前を庇えば、里の者は私にも近づかなくなるかもしれない。薬師の言葉まで信じてもらえなくなるかもしれない。そう考えた」
ガルムおじさんの手が、外套の端を強く掴む。
「お前が怖かっただけではない。自分が、お前と同じ場所へ追いやられることも怖かった」
胸の奥が痛んだ。
優しい嘘を言ってほしかったわけではない。
それでも、本当の言葉は思っていたより重かった。
「ごめんなさい」
思わず口からこぼれた。
「なぜ、お前が謝る」
「私が、こんなだから」
「違う」
今度は、ガルムおじさんの声が途切れなかった。
「今、間違えたのは私だ」
灰色の瞳が、ようやくまっすぐ私を見る。
「あの小屋へ戻れと言うべきなのだろう。掟では、お前はまだ守られるべき子どもだ」
「だったら――」
「だが、あそこで誰とも触れずに生かすことを、守ることだとはもう言えん」
ガルムおじさんは、持っていた包みを開いた。
中に入っていたのは、二本の細い飾り紐だった。
白と灰色の糸が、何重にも編まれている。
見覚えのある形。
成人した狐族が、尾の先へ結んでいるもの。
けれど、どちらにも赤い玉はついていなかった。
「成人の、尾飾り……?」
「まだ違う」
ガルムおじさんは首を振った。
「玉が入っていない。今のお前が持っていても、成人の証にはならん」
「どうして、二本あるの?」
聞かなくても、答えは分かっていた。
それでも聞きたかった。
「お前には、二本必要だろう」
服の裾で、シュシュとカカが小さく揺れた。
「最初の糸を編んだのは、お前の母親だ」
私は二本の紐から目を離せなくなった。
「母さんが?」
「ああ。お前が生まれた年に、一本ずつ編み始めた」
ガルムおじさんの指が、編み目をなぞる。
「母親が亡くなってからは、私が続きを編んだ。毎年、冬を越すたびに少しずつ」
白と灰色が交互に重なる紐。
どこまでが母さんで、どこからがガルムおじさんなのか、私には分からなかった。
「今年の分も?」
「入っている」
フロシュを倒したあとも。
物置小屋へ移されたあとも。
ガルムおじさんは、この二本の紐を編んでいた。
私が大人になる日のために。
「受け取ってくれるか」
ガルムおじさんは近づいてこなかった。
私も近づけなかった。
二人の間にある雪の上へ、包みが置かれる。
私はゆっくり歩み寄り、それを拾い上げた。
「これを持っていったら、私は大人になるの?」
「ならない」
答えは早かった。
「お前はまだ子どもだ」
子ども。
その言葉を聞いたのは、いつ以来だろう。
「だが、それは、お前が一人では何も決められないという意味ではない」
二本の紐を握り締める。
「赤い玉は?」
「いつかここへ帰って、改めて成人の儀を終えた時に入れる」
「帰ってきたら……」
「ああ」
「帰ってきても、いいの?」
聞いた途端、涙が滲んだ。
ガルムおじさんの顔が歪む。
「そのつもりがなければ、渡さない」
低い声が、はっきりと届いた。
「その時は、今度こそ間違えない」
何を、とは聞かなかった。
鞄を雪へ下ろし、二本の飾り紐を布に包み直し、本の隣へ入れる。
まだ赤い玉のない、未完成の尾飾り。
鞄へ入れただけなのに、その重さを確かに感じた。
鞄をもう一度背負う。
「森を抜けるなら南へ行け」
ガルムおじさんが言った。
「朝日を左手に見て進めば、古い狩人道へ出る。途中で凍っていない川を見つけても、渡るな。下流へ辿れば人族の街道がある」
「うん」
「私は、一緒には行けない」
分かっていた。
魔法が弱くなり、治癒術も効きにくくなっている。
里で薬を作れるのは、ガルムおじさんだけだった。
それに、長い間そばにいれば、ガルムおじさんまでフロシュのように倒してしまうかもしれない。
「大丈夫」
いつものように答えかけて、やめた。
大丈夫ではない。
怖い。
一緒に来てほしい。
「……本当は、一緒に来てほしい」
ガルムおじさんの耳が、わずかに伏せられた。
「でも、無理なのも分かってる」
「すまない」
「うん」
大丈夫とは言わなかった。
それだけで、胸の奥が少しだけ軽くなった。
これ以上ここにいれば、行けなくなる。
私は門を開けた。
冷たい風が吹き込み、白い髪と二本の尻尾を揺らす。
森へ足を踏み入れる前に、一度だけ振り返った。
「行ってきます」
ガルムおじさんは目を逸らさなかった。
「ああ。……帰ってこい、グレイス」
返事があった。
それでも私は、人間の世界へ向かって歩き出した。
◇
木々の間へ入り、里が見えなくなりかけた頃。
背後から、いくつもの歓声が上がった。
振り返る。
里の中央で、消えかけていた魔素灯が輝いている。
一つ。
また一つ。
道沿いの石が、昨夜までよりも強い青い光を取り戻していく。
「よかった」
私が遠ざかったから光が戻ったのだろう。胸は痛んだけれど、これで皆が少し暮らしやすくなる。
鞄の中には、赤い玉のない二本の飾り紐が入っている。
帰ってきたら。
そう言ってくれた人がいる。
里へ背を向ける。
おしまいと書かれた、その先へ。




