岡崎と殺し屋 3
「君はもう少し肩の力を抜きなよ」
そう、由乃が言った気がした。過去に言われたのか記憶にないが、あまりに現実味を帯びた声で、すぐ側に彼女がいるような錯覚を覚えた。
そして目を開ける。そこは無機質なコンクリートに囲まれた小さな部屋だった。加美屋はいない。岡崎はパイプ椅子に座らされ、ロープに縛られている。腕が痛むほどきつく、身じろぎも難しい。
後頭部が痛む。殴られたのも、加美屋にバレたのも、現実だ。悪夢みたいだが。
椅子の激しく軋む音が隣から聞こえて、岡崎は首を横に捻る。
「起きましたか」
ウェイターの制服を着た男が、同じく縛られていた。自分と同じ状況に置かれている人物がいて、安堵はしないまでも精神は安定してきた。おかげで、この場所がなんなのか理解した。
加美屋の拷問部屋だ。
「あんたは……」喋ると血の味がした。「どうして、こんなところに」
「持ってくるワインを間違えたんです」ウェイターは口を尖らせる。「それだけで、こんな目に」
「災難だ」
自分を棚に上げて岡崎は言う。
「逆に、あなたはどうして。加美屋さん、笑ってましたよ」
「えっと」
こんな場所に取り残されて、岡崎はもはや自棄になっていた。足が自由に動けば地団駄を踏んでいただろう。見ず知らずのウェイターに、吐き捨てるように言った。
「加美屋に悪戯を仕掛けて、それがバレた」
「はあ、それは」
「……恋人が、加美屋の暴露動画で殺されたんだ」
「ほお、それは」
ウェイターの表情は困惑で固まっていた。いきなりこんなことを言われても困るだろう。
「恋人の兄が人を殺した。それで、人殺しの家族だ、と加美屋が喧伝した」
「不思議ですね」
「なにが」
「それで恨むのが、加美屋さんなんですね」
「動画の視聴者を恨んでも」
「いえ、それより、人殺しのお兄さんを恨むのが自然かなと」
言ってしまえば元凶だ。加美屋以上に、事の発端かもしれない。
「……死んだんだ」
「死んだ?」
彼の死は、ネットニュースで少し、話題になった。記事を何度も見返し、そのたび目が眩んだ。
「子供を助けたんだ。車に轢かれそうになった子供を。突き飛ばして、代わりに轢かれた」
「へえ、それは」
彼の言うとおり、本来であれば、恨む相手は由乃の兄なのかもしれない。けれど彼は死んだ。ある日、突然。由乃が死んで、出所して、彼女と同じく非難の中を生きていくはずだった彼は、英雄的な結末を迎えたのだ。
まるで、先に贖罪を済ませたとでも言うように。
「あの、これから私が言うことで、気に障るかもしれませんが、どうか許してください」
「そういう前置きする奴、本当に碌なこと言わないんだよな」
ウェイターは不思議そうな顔をして、訊ねた。
「どうして恋人さんは死んだんですか」
「……そりゃ、加美屋の」
「でもあなたがいたんでしょ」
そう、自分がいた。自分が支えて。
誹謗中傷などから自分が守るつもりで。
「ねぇ。別れよっか」
由乃の声がした。近くで、耳の側で。
違う。頭の中で。
「わたしと一緒にいたら、君まで被害を受ける。わたしはそんなの嫌だ。だから、別れて」
自分は当然、断って、首を横に振って──。
そこで岡崎はふっと息を吐いた。そして唇を少しだけ噛み、自嘲して笑う。
「俺がいた」
ウェイターは沈黙して、言葉の続きを待つ。
事の発端は、由乃の兄だ。そして加美屋がきっかけを作った。群衆はそれに倣って、攻撃した。
じゃあ、死へと背中を押したのは?
「俺が、彼女と別れたから」
岡崎ははっきりと口にした。
喉が焼けるような、そんな気分だった。
「だから由乃は死んだ」
***
別れようと言われたとき、ある程度は予想できたはずだった。それなのに、虚を突かれた思いがした。胸が張り裂けるような悲しみだとか、頭が熱くなるような怒りだとか、そういうのは生まれなかった。ただ頭が真っ白になった。
そんなこと言うなよ、一緒にいようよ、などといった正しい言葉は、口から出てこなかった。
「怖くなった、というのが正直なところだ」
それまで恋人として、誹謗中傷に向き合っていた。そのせいで疲れていた、というのは言い訳だ。
状況が落ち着いたらまた復縁しようと約束した。その約束を愚かに信じて、待ち続けていた。その未来は訪れることなく、由乃は自殺した。
死の崖に突き落としたのは、その背中を蹴飛ばしたのは、自分だ。
「俺は大事なとき、いなかったんだ」
岡崎はウェイターに聞かせるでもなく、呟いていく。
「本当は、加美屋だけじゃなくて俺も裁かれるべきなんだ」
頭が痛む。眼が潤む。
最初から分かっていた。自分はなにかになすりつけたかっただけだ。由乃の兄は亡くなったから、また別の。群衆に押し付けるには相手が不特定多数で漠然としているから、また別の。そして、加美屋に。加美屋を憎み続けることで、自分の罪から目を逸らそうとしている。復讐を遂げることで、贖罪を済ませようとしている。
「この復讐が終わったら、俺も死ぬ気なんだ」
「その前に、下手すれば私たちも殺されそうですけど」
「それでもいいのかもしれない。もう、どうでも」
「大丈夫ですよ。そのうち、助けが来ます。出られますよ」
そういう話ではないのだが、当事者ではない者には伝わらないのだろう。
小部屋の扉が開く。
ウェイターが願った助け、ではなかった。
「どうも岡崎さん」
加美屋は真顔で、しかしすぐに相好が崩れる。堪えきれなかった漆黒が、表に出てきているようだ。
「復讐に来た、と俺は予想してるんだけど。合ってるよな? 今更仲良くしましょうとか、そっちだったり? だったら俺の早とちりなんだけど」
「知らねぇよ」
岡崎は唾を吐いた。唾は加美屋の靴の手前に落ちる。
「まあ、碌なこと考えてないんだろうね」
加美屋は1人だ。頭を殴りつけてきた奴がいるはずだが、部屋の外で待機しているのだろうか。助けを求めるために大声、というのは現実的ではない。そもそも拷問部屋というくらいだ。防音はしっかりしているはず。
かつかつと、靴音を愉快に鳴らしながら近づいてくる。
「……なに持ってんだ」
加美屋の右手に、銀色に光る物が握られている。彼はそれを振り上げる。口元は嗜虐的に歪められ、目が輝いたかと思った瞬間、手は岡崎の右腿に突き立てられる。
「あっ──」
爆発するような熱さ、その後に続く、強烈な痛み。岡崎の肺から漏れ出た、絶叫。
「うああああっ!」
釘だ。鉄釘が腿に打ち付けられたのだ。骨まで届いたのではないかと感じるが、確かめたくない。
「いや、このくらい耐えろよ。覚悟を持ってきたんじゃないの?」
持ってきたさ。でも殺す覚悟で、殺される方は持っていない。
加美屋は釘をぐりぐりとねじ込む。痛みで頭が麻痺する。悲鳴が断続的に響いた。
「なあ、あんたの恋人はこれより辛い誹謗中傷に耐えてたんだぞ? あぁいや、死んじゃったんなら耐えられてないわけだけどさ」
目の前が真っ赤に染まるようだった。歯を食いしばりすぎて、ひび割れる音がした。
弱気になっていた──確かに自分は裁かれるべきだが、それ以上に、この怪物を討たねばならない。
だが痛いのは痛い。縛っている縄は固い。怒りで現状は変えられない。
加美屋の左手には釘がまだある。あと数本。痛みに耐え続ける。
「ってか、復讐っていうけど、そいつが死んだのは俺のせいじゃないでしょ。あんたがちゃんと支えてやらなかったから死んだだけで」
「黙れ……」
「図星か? 岡崎さん、俺はね、必要悪になってるんです」
釘の追加オーダーが腿に到達した。痛みで聞き返す余裕もなかった。
「俺が配信でいろいろと曝くでしょ。するとまあ、たくさんの人が俺を恨む。でも隠れてる悪人が世に出て裁かれる。今の芸能関係とか、隠蔽するしさ。そんで、恨む人以上に、感謝する人が出てくるんだよ」
「……」
「だから俺はこれからも続ける。もっと知名度が大きくなれば、もっと繋がりが大きくなるし、やがては俺の知らないことはなにもなくなる……ってのは言いすぎかな? でもあながち大げさでもないと思っててさ」
ぺらぺらと喋る。拷問自体を配信と同じようなものと思い込んでいるのではないだろうか。
「ってことでさ、きっかけを作ってくれたあんたの恋人には感謝してるよ」
「く……」
「死んでくれてありがとう」
感情が一周回ったのか、冷静になっていた。それでも怒りは腹の底に溜まっていて、ぐつぐつ熱く煮えたぎっていた。
「……今、何時」
「は?」
岡崎は加美屋に訊ねる。
「気になって」
「……19時。だいたいちょうど」加美屋は鼻を鳴らし、自身の腕時計を見た。
奥の扉を見やる。あの扉は、きっと開かれる。開かれて、現れるはずだ。
こいつを殺してくれる仕事人が。
「今から、お前は死ぬんだ。殺し屋によってな」
「は? 殺し屋? 頭おかしいのか、お前」
岡崎は扉の先に向かって叫ぶ。
「頼む……! 殺してくれ! この男を……」
唾液が垂れるのも憚らず、息が掠れるまで叫んだ。防音の小部屋に、悲痛な叫びが吸い込まれて無意味に終わる──。
「承った」
「はっ?」
予想外の方向から声がして、岡崎は、加美屋も、横を向いた。
ウェイターが立ち上がっていた。
立ち上がって? 確かに、立ち上がっている。
「え、どうして」
加美屋は唖然として、腑抜けた声を発した。
ウェイターはそっと、傾いた額縁を直すように、両手を加美屋に伸ばす。加美屋は一歩、後ろに下がるが、それより腕が早かった。
「悪い。素人の拘束は簡単に解けるんだ」
ぴたり、と両手を加美屋の顔の両側面にくっつける。そして、それまで緩慢に思えた動きが、急加速する。慣れた手つきで、ウェイターは腕を回した。
すると腹話術師の人形のように、加美屋の首は捻れ、頭が真横を向いた。もちろんそれは、視線を横に向けたとか、そういうことではなく、人間のあるべき形に収まっていない、異常な形になってしまっていた。
加美屋はその場で崩れ落ちる。岡崎はぽかんとして、悪夢の終わりを眺めていた。
「俺はどういうわけか仕事運が悪くてな。潜入しようとしたら、たかがワインを間違えただけで、こんな場所に閉じ込められてしまった」
「あ、え……?」
岡崎はぱくぱくと口を開閉させる。さっきまで話していたウェイターは、雰囲気を変え、口調まで変えて、数日前に会った殺し屋と姿を一致させていた。眼に光のようなものは窺えず、大きな渦が大口を開けているようだった。
「解いてやるよ」と柴は岡崎のロープに手をかける。「お前は死に様を見られたし、概ね時間通りだし、終わり良ければすべて良しだ」
「ちょ、ちょっと待って、なにがなんだか」
「俺はあんたの言われたとおりパーティに潜入し、時間を待った。毒殺のためワインに毒を混ぜようとしたが、そのワインが奴の嫌いな種類だった。俺からしたら違いなんて分からないんだが。それでこんなところに閉じ込められた。依頼の遂行、強行突破しかないと思ったが、何故かあんたとターゲットが来た」
あとはなにが訊きたい、と柴はうんざりしたような態度で言う。
錆び付いた歯車が軋むような、呻き声が床の方から聞こえてきた。
「あ、しまったな」
柴はそこで、失態を恥じ、口を少し開けて歯を見せた。彼にわずかでも感情があったことが意外に思えた。
呻き声を上げていたのは、床に倒れた加美屋だった。首が曲がっていたが、かろうじて息をしていた。
「縄で縛られていたから、少し腕が痺れていた。だから殺し損ねたんだな」
加美屋は視線を真っ直ぐ、どこでもない、強いて言うなら岡崎の足下を注視していた。するしかないのかもしれない。全身が麻痺しているのか、痙攣するだけで、なにもできていない。
柴がしゃがみこみ、とどめを刺そうとする。
「ああ、なにか言っておきたいことはあるか? せっかく生きてるんだ。恨み言の1つや2つ、言うチャンスだぞ」
「あ、いや……」
確かにチャンスだが、いざこの瞬間を迎えるとなにも思いつかない。未だに頭がパニックになっているというのもあった。たとえこのまま加美屋の寿命が尽きるまで待っても、結局思いつかない気がする。
「その、その前に、柴さん、訊いておきたいんだけど」
「なんだ」
「追加の依頼ってできます?」
柴は小さく「お前もそのタイプか」と呟いた。
「殺して欲しいのは、俺です」
「どういう」
「さっきも言いましたが」柴の疑問を遮る。「由乃を殺したのは、俺でもあるんですよ」
加美屋を殺して、最後には自分も死んで、それでハッピーエンド。綺麗な終わりだと思った。
「それでお前を殺して欲しいと」
「はい」
そこで柴は考え込む。両手は震える加美屋の頭に添えられたままで、なんとも間抜けな絵面だ。
「以前に」
「はい?」
「お前のように、復讐を頼んできた奴がいたんだ。だがそいつ自身も誰かに依頼され、俺に殺される運命だったんだが。どういうわけか、俺はそいつの運転する車の助手席に乗り込んで、ドライブをした」
どういうわけか、で済ますには飲み込みきれない話だったが、腰を折る度胸は岡崎にはなかった。
「後悔したそうだ」
「え」
「死ぬ直前、そいつは俺に言った。復讐は遂げたが、後悔している。新しい人生リスタートしたかった、とな」
人生リスタート?
こんな世界で?
由乃はいない。復讐する相手もいなくなった。あの日から今日まで、復讐のために生きてきて、その他のなにもかもを切り捨てた。残りの人生で為すべきことなど、なにもない。
けれど、と岡崎は、まだ息がある加美屋を見下ろす。
ここにいるのが自分ではなく、由乃だったら。復讐を果たしたのが由乃だったらどうしただろう?
「後悔なんてしないで生きていたいの」
また、由乃の声がした。
由乃。
どうしたらいい?
ここで死ぬには、後悔が残ってしまうみたいなんだ。
「柴さん。コインとか、持ってないですか」
柴は返答せず、自分のポケットを探った。すると何故か、一円玉が出てきた。岡崎は礼を言いながらそれを受け取ると、じっと見つめる。
もう、これで決めてしまおうか。
「表なら生きる。裏なら、死ぬ」
エネルギーの無駄だ。運に任せてしまおう。
一円玉が指で弾かれる。勢いよく飛び上がり、無数に回転しながら宙で踊る。何秒にも感じるが、ほんの1秒にも満たないダンスを終えて、一円玉は落下する。岡崎は手の甲と掌で、受け止めた。鼓動が早くなる。どうやらやっぱり、身体は恐怖を覚えているらしい。
掌を開ける直前、由乃の声が、真後ろで聞こえた。
「一円を笑う者は一円に泣くんだよ」
その様子を加美屋の頭に手をかけたまま、なんの感慨も抱かない瞳で、柴は見つめていた。
「もう殺してもいいか?」と柴が思っていることに、岡崎は気づいていない。




