自由で或る
何をするかは自由で或る。
何を0と定義するのかも、自由で或る。
しかし、共鳴しなければ溜まるのは膿のエネルギーつまり自分の中でバランスが裏返るのだ。
つまり自分の呪いは再び廻りだす。ツケが回る。いや、運が正しく綻ぶ。
まあ、0は理解しないと始まりでもないのだがな。
夜の街は、雨を含んだアスファルトの匂いを深く吸い込んでいた。
主人公の男は、ただ歩いていた。名前はない。いや、あるにはあるが、彼自身がそれを0と定義してしまったから、もう誰も覚えていない。彼は自分を「空白」と呼んでいた。空白は便利だった。何をしても、何を選んでも、空白のままなら責任の影が薄い。
空白は自由だった。朝に起きなくてもいい。仕事をしなくてもいい。誰かを愛さなくてもいい。誰かを憎んでもいい。金を盗んでも、嘘をついても、ただ黙って消えてもいい。何をするかは自由で或る、と彼は何度も自分に言い聞かせた。そして、何を0と定義するのかも自由だと、心の底で繰り返した。
彼は自分の人生の原点を、ある日の午後に置いた。
父親が拳を振り上げた瞬間。母親が目を逸らした瞬間。学校の教室で誰も自分の名前を呼ばなかった瞬間。それらを全部まとめて「0」と決めた。そこから先は全部、自由に書き換えられるものだと信じた。過去はゼロ。感情もゼロ。傷もゼロ。ゼロなら、何を積み上げても軽い。
だが、空白は知っていた。知っていたのに、見ないふりをしていた。
共鳴しなければ、溜まるのは膿のエネルギーだということ。
共鳴。
誰かと波長が合うこと。自分の内側の何かと、外側の何かが、同じ周波数で震えること。空白はそれを避け続けた。人の目を見ない。声の温度を測らない。自分の胸の奥で小さく鳴る音を、わざと無視する。無視すれば、傷つかない。ゼロのままでいられる。
ある夜、空白は行きつけの安アパートの一室で、壁に向かって座っていた。時計は三時を回っていた。窓の外では雨が細く降り続いている。彼は自分の手を見つめた。指の関節が少し腫れている。昨日、誰かの肩を強く押したせいだ。理由は覚えていない。ただ「したかったから」しただけだ。自由だから。
そのとき、胸の奥で何かが逆流した。
熱くて、粘ついて、甘い腐敗の匂いがする何か。膿。
それはゆっくりと、彼の内側のバランスを裏返していった。これまで「軽さ」だと思っていたものが、急に重くなり、これまで「自由」だと思っていたものが、急に鎖のように絡みついてきた。
呪いが再び廻りだす。
ツケが回る。
いや、運が正しく綻ぶ。
空白は立ち上がり、部屋を出て、雨の中を歩き始めた。行き先はない。ただ、膿が体内で沸き立つ音がうるさくて、じっとしていられなかった。街灯の光が水面のように揺れる。誰かの笑い声が遠くから聞こえる。誰かの泣き声も。誰かの沈黙も。全部が、彼の中の膿と共鳴しようとしていた。
彼は逃げた。
共鳴を拒み続けた。拒めば拒むほど、膿は濃くなった。体の内側で、何かが腐っていく音がした。夢の中で、自分が自分を食っている光景を見た。目が覚めても、その味が口の中に残っていた。
ある朝、空白は古い図書館の片隅にいた。誰もいない閲覧室。埃の匂い。開かれた本のページが、風もないのにめくれた気がした。そこにはこう書いてあった。
「0を理解しない者に、始まりはない。
0は虚無ではない。
0は、すべてを含んだ余白である。
余白がなければ、共鳴は生まれない。
共鳴がなければ、膿はただ溜まるばかりだ」
空白は本を閉じた。指が震えていた。
彼は初めて、自分の定義した0を疑った。
自分が置いた原点は、本当にゼロだったのか。それとも、ただの蓋だったのか。蓋の下に、腐ったままの何かを閉じ込めていただけではなかったのか。
その日から、空白は少しずつ変わり始めた。
完璧に変わることはできなかった。自由は相変わらず彼を誘惑した。何をしてもいいという声が、夜ごと耳元で囁いた。だが、彼は時々、誰かと目を合わせるようになった。時々、自分の胸の奥の小さな音に耳を澄ますようになった。時々、雨の音と自分の呼吸が、同じリズムで揺れていることに気づくようになった。
膿は、すぐに消えはしなかった。
だが、共鳴が始まると、膿は少しずつ形を変えた。熱は痛みから、静かな温かさへ。粘つきは重さから、何かの輪郭へ。呪いの循環は、完全には止まらなかったが、その軌道がわずかにずれた。ツケは回ってきたが、それは罰ではなく、ただの「確認」のように感じられた。運が綻ぶ音は、壊れゆく音ではなく、新しい隙間が生まれる音に似ていた。
空白は、ある雨上がりの夕方、川沿いに立っていた。水面に映る空が、ゆっくりと色を変えていく。彼は自分の影を見た。影は薄く、しかし確かにそこにあった。
彼は小さく呟いた。
「0を、もう一度定義し直す」
今度のゼロは、何もない場所ではない。
すべてを一度受け入れた後の、静かな余白だ。
そこからなら、何を始めてもいい。何を選んでもいい。だが、共鳴を拒めば、また膿が溜まることを、彼はもう忘れない。
風が吹いた。
空白の中に、初めて小さな音が響いた。
それは呪いでも、ツケでもなく、ただの始まりの音だった。
彼は歩き出した。
名前のないまま。
しかし、もう完全な空白ではなかった。




