裏とは
裏とは、動くのを連続して行うとそれを慣性の法則が動または止の方向に選ぼうとして止を体が選んだ時に連続性を反発して体が動の方向に導かれるコトを言う。その逆も然りである。
それを意識した物が呪いで或る。
――その言葉を、私は最初に父の口から聞いた。
父は、古い木造の家の縁側に座り、夕陽に照らされた庭の雑草を眺めていた。私は当時十二歳で、父の隣に膝を抱えて座っていた。父の声は低く、まるで誰かに聞かせるというより、自分自身に言い聞かせるように静かだった。
「裏だよ。表だけを見て生きていると、いつか裏に呑まれる」
私は意味がわからず、ただ頷いた。父はそれ以上説明しなかった。ただ、手のひらをゆっくりと開いたり閉じたりしながら、同じ言葉を何度も繰り返した。
それから七年が過ぎた。
私は大学に入り、実家を離れた。父は病気で亡くなり、その古い家は取り壊された。私は父の言葉をほとんど忘れていた。忘れていたはずだった。
ある雨の夜、私は駅のホームで、見知らぬ男に声をかけられた。
「君も、裏を知っているだろう?」
男は四十代くらいに見え、黒いコートを着ていた。目は細く、口元には薄い笑みがあった。私は反射的に後ずさりした。
「知らないです」
「嘘だな。君の歩き方に、それが滲んでいる」
男はそう言って、私の足元を指差した。私は自分の足を見た。特に変わったところはない。普通に立っているだけだ。
しかし、その瞬間、私は気づいた。
雨に濡れたホームのコンクリートの上で、私の体はわずかに前に傾いていた。止まろうとしているのに、体が前へ進もうとしている。まるで、止まった瞬間に何かが私を押し出そうとしているように。
男は静かに言った。
「動を連続させると、体は止を選ぶことがある。その時、連続性が反発する。反発した力は、動の方向へ体を導く。逆も同じだ。止を連続させると、動が反発して、止の方向へ押し返す。その反発を意識し、利用したものが、呪いだ」
私は息を呑んだ。父の言葉そのものだった。
「父から聞いたのか?」
男は首を振った。
「いや。私も同じことを、誰かから聞いただけだ。そして、それを意識して生きるようになった。君も、今からそうなる」
男はそれだけ言って、雨の中に消えた。ホームの端に消える瞬間、男の後ろ姿が、まるで止まっているのに前へ進んでいるように見えた。
その夜から、私の体に異変が起きた。
歩く時、足を止めようとすると、体が勝手に前へ進む。止まろうとしても、止まれない。逆に、走り続けようとすると、突然体が硬直し、足が地面に縫い付けられたように動かなくなる。
最初は気のせいだと思った。疲れているだけだと。しかし、日が経つにつれて、それは明確になっていった。
ある朝、私はアパートの部屋で立ち尽くした。玄関のドアまで歩こうとしたが、足が一歩も出ない。止を連続させようとしているのに、体が動を選ぼうとしている。反発が起きている。
私は父の言葉を思い出した。
「裏とは……」
その時、部屋の隅に影が揺れた。男だった。昨日の男ではなかった。もっと若い男で、目が窪み、唇が乾いていた。
「君も、呪いに気づいたな」
男はそう言って、部屋の壁に手をついた。壁がわずかにへこんだ。まるで、止の力が動を押し返しているように。
「呪いをかけられたのか?」と私は聞いた。
男は笑った。
「かけられたんじゃない。意識したんだ。意識した瞬間から、裏が表に出る。表だけを生きていた人間は、裏に耐えられない。君はもう、表に戻れない」
私は恐怖で後ずさりした。しかし、後ずさりしようとした瞬間、体が前へ投げ出された。壁に激突し、額から血が流れた。
男は近づいてきた。
「動を選ぼうとしても、止が反発する。止を選ぼうとしても、動が反発する。その反発の繰り返しが、呪いだ。呪いをかけられた者は、永遠に連続性の中で揺れ続ける。動けば止まり、止まれば動く。どちらを選んでも、裏が表を押し返す」
私は床に座り込んだ。血が床に滴り落ちる。
「どうすれば……」
「解放はない。ただ、意識を深めることだ。裏を完全に理解した時、人は裏そのものになる。動でも止でもなくなる。ただの連続性になる」
男はそう言って、窓から外へ消えた。窓は閉まっていた。しかし、男の体は窓を通過したように見えた。
それから私は、呪いの中で生き始めた。
大学へ行く道で、足が突然止まり、後ろから来る自転車に追突されそうになる。授業中に立ち上がろうとすると、体が椅子に縫い付けられたように動かない。夜、眠ろうとすると、体が勝手に起き上がり、部屋の中を歩き続ける。
私は日記をつけ始めた。
「今日も動を選んだ。しかし、止が反発した。連続性が私を押し返した」
「止を選んだ。動が反発した。体が前へ投げ出された」
日記の文字は次第に乱れていった。書く手が止まろうとすると、ペンが勝手に動き、意味のない線を引き続ける。
ある日、私は父の古い写真を見つけた。父が若い頃の写真で、縁側に座っている。父の目は、私と同じように窪んでいた。
写真の裏に、小さな文字が書かれていた。
「裏を意識した者は、裏になる。裏になった者は、次の者に伝える。それが呪いの連鎖だ」
私は写真を握りしめた。
父もまた、同じ呪いの中にいたのだ。そして、私にそれを伝えた。意識させた。
私は決意した。
この呪いを、ここで終わらせる。
私は部屋の中央に立ち、目を閉じた。動でも止でもなく、ただ連続性そのものになろうとした。体を動かさず、止めず、ただそこに在ることを意識した。
最初は何も起きなかった。
しかし、徐々に体が軽くなっていった。足が地面から離れる感覚。手が空間に溶ける感覚。呼吸が止まり、しかし死ぬわけでもない。ただ、連続性が私を飲み込んでいく。
その時、部屋の中に無数の影が現れた。
男たちだった。昨日の男、その前の男、もっと昔の男たち。皆、同じ目をしていた。
「ようこそ」と、一番前の男が言った。
「裏の世界へ」
影たちは私を取り囲んだ。彼らの体は、動いているのに止まっているように見えた。止まっているのに動いているように見えた。
私は彼らの中に溶けていった。
動でも止でもない場所。連続性がすべてを支配する場所。そこでは、時間も空間も意味を失う。ただ、反発と選択が永遠に繰り返される。
私はそこで、父に会った。
父は縁側に座ったままの姿で、私を見ていた。
「来たか」と父は言った。
「はい」
「裏は、表を必要とする。表がなければ、裏も存在しない。だから、私たちは表に呪いを送り続ける。次の者に意識させる」
父は手を伸ばした。私の手を取った。
「お前も、次を探せ」
私は頷いた。
そして、表の世界へ戻った。
戻った時、私は駅のホームに立っていた。雨が降っていた。見知らぬ若い男が、私の前に立っていた。彼は雨に濡れながら、不安そうに辺りを見回していた。
私は静かに声をかけた。
「君も、裏を知っているだろう?」
男は私を見た。目がわずかに揺れた。
「知らないです」
「嘘だな。君の歩き方に、それが滲んでいる」
男の体は、わずかに前に傾いていた。止まろうとしているのに、進もうとしている。
私は父と同じ言葉を、静かに繰り返した。
「裏とは、動くのを連続して行うとそれを慣性の法則が動または止の方向に選ぼうとして止を体が選んだ時に連続性を反発して体が動の方向に導かれるコトを言う。その逆も然りである。それを意識した物が呪いで或る」
男の顔が青ざめた。
私は笑った。
呪いの連鎖は、まだ続いていく。
動と止の反発は、永遠に表を侵し続ける。
そして、裏は静かに、次の者を待っている。




