↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/6

無を定義される

無とは他の無を反発して維持する。それだけでなく循環するのだ。

まるで食物連鎖のように。


その法則を最初に口にしたのは、老いた数学者だった。彼は死の床で、天井を見つめながらそう呟いた。看護人は聞き流した。ただの譫妄だと思った。だが、その言葉は、彼の弟子の一人の耳に留まり、やがて私の元へ届いた。


私は、その弟子の孫にあたる。名を蒼井透と呼ぶ。三十五歳。職業は、表向きには古文書の修復師。裏では、消えゆく概念を集める仕事をしている。


無。


それは、ただの空白ではない。物理的な真空でも、哲学的な虚無でもない。私の祖父が残したノートには、こう記されていた。


「無は、存在を否定する力ではない。存在そのものを、内側から押し返す力だ。二つの無が近づくと、互いに反発する。距離を保ち、形を保つ。そして、反発の余波が、次の無を呼び寄せる。それが循環だ。」


祖父は最後に、こう付け加えていた。


「食物連鎖と同じだ。捕食者と被食者。しかし、ここではどちらも『無い』。無いものが、無いものを喰らい、また無いものを生む。」


私はその記述を、長い間、比喩だと思っていた。だが、ある日、仕事場の地下室で、異変が起きた。


修復していたのは、十九世紀の羊皮紙の断片だった。表にはラテン語の祈りの文句。裏には、薄く消えた墨で、円環状の図が描かれていた。中央に「無」の字。周囲に矢印。そして、矢印の先にまた「無」。


私は図をトレースした。ペン先が紙に触れた瞬間、空気がわずかに歪んだ。


部屋の隅に、黒い点が現れた。


点はすぐに膨張し、直径三十センチほどの球体になった。中は完全な闇ではない。むしろ、光が吸い込まれるような、透明な暗さだった。球体は、ゆっくりと回転し始めた。


そして、二個目が現れた。


二つは近づき、反発した。まるで磁石の同極同士のように。反発の衝撃で、部屋の埃が舞い、古書のページがめくれた。球体は互いに距離を保ちながら、円を描いて回り始めた。


三個目が生まれた。


循環が始まった。


私は呼吸を止め、観察した。球体は、反発のたびにわずかに縮小し、また膨張する。反発のエネルギーが、次の球体を呼び寄せているようだった。古い球体の一つが、突然、内側から崩れた。崩れた無は、黒い霧となって他の球体に吸収された。吸収した球体は、一瞬だけ大きくなり、すぐに元に戻った。そして、新たな球体が、部屋の反対側に生じた。


食物連鎖。


無が無を喰らい、無を生み出す。


私は祖父のノートを広げ、該当箇所を読み返した。


「無の循環は、閉じた系では安定する。だが、観測者が介入すると、系は開かれる。開かれた無は、観測者の『有』を侵食し始める。」


侵食。


その言葉が、冷たい手で背中を撫でた。


球体の一つが、私の方へわずかに傾いた。反発の軌道が歪み、ゆっくりと近づいてくる。距離はまだ二メートル。だが、近づくにつれ、私の指先が痺れた。感覚が薄れていく。指の輪郭が、わずかにぼやけた。


私は後退した。球体は追ってこない。ただ、軌道を修正し、再び円環に戻った。


しかし、私の左手の薬指の先端が、消えていた。


皮膚も骨も、血も。ただ、滑らかに切断されたような断面。痛みはない。感覚もない。そこが、最初から無かったかのように。


私は震える手で、カメラを取り出し、球体を撮影した。写真には、何も写っていなかった。ただの地下室。埃と古書。


だが、私の指は、依然として欠けていた。


その夜、私は眠れなかった。指の欠損は広がらなかったが、脳裏に祖父の言葉が繰り返し響いた。


「無は、他の無を反発して維持する。それだけでなく循環するのだ。まるで食物連鎖のように。」


翌朝、地下室へ戻ると、球体は五個に増えていた。円環は大きくなり、部屋の中央を占めていた。私は防護服など持っていなかった。ただ、古いノートと、祖父が遺した一本の銀のペンだけを手に、部屋に入った。


ペンの軸には、小さな刻印があった。「観測を断てば、循環は閉じる。」


私は円環の外に立ち、観察を続けた。球体は規則正しく反発し、吸収し、再生していた。一つの球体が崩れると、必ず一つが生まれる。総量は変わらない。だが、回転の速度が、徐々に上がっていた。


三日目。球体は七個。


私の左手の薬指は、第二関節まで消えていた。右目の視野の端が、時折ぼやけた。


四日目。球体は九個。円環は部屋いっぱいに広がり、壁に接触し始めた。壁の漆喰が、静かに剥がれ落ちた。剥がれた部分は、ただの穴ではなく、奥が続かない暗い空間だった。無が、物理空間を侵食し始めている。


私は決断した。


ノートの最後のページに、祖父の走り書きがあった。


「循環を断つには、一つの無を、意図的に『有』に変換せよ。だが、その代償は観測者自身の一部だ。」


有に変換する。


どうやって。


私は銀のペンを握り、最も小さな球体に近づいた。反発の力が、肌を押し返す。指がさらに欠けていく感覚。だが、私は踏み込んだ。


ペン先を、球体の表面に向けた。


触れた瞬間、衝撃が走った。ペンが熱を持ち、私の右腕全体が痺れた。球体は激しく振動し、内側から光が漏れ始めた。黒い暗さが、徐々に白く変わっていく。無が、何か別のものに変わりつつあった。


他の球体が、一斉にその方向へ傾いた。反発の法則が乱れ、円環が崩れた。球体同士が衝突し、吸収し合い、巨大な一つの塊になった。塊は、私の変換した球体を飲み込もうと膨張した。


私はペンを突き立てたまま、叫んだ。


「循環を閉じろ!」


塊が崩壊した。


黒い霧が部屋を満たし、すぐに消えた。残ったのは、床に落ちた銀のペンと、私の体の一部だった。


右腕が、肩から先、完全に消えていた。


左目も、見えなくなっていた。


だが、球体は全て消えていた。部屋は、ただの地下室に戻っていた。壁の穴も、いつの間にか塞がっていた。


私は床に座り込み、長い時間、動かなかった。


その後、私は地下室を封鎖した。祖父のノートは、別の場所に隠した。指と腕と目の欠損は、医者にも説明できなかった。彼らは「原因不明の壊死」と診断し、義肢を勧めた。私は断った。欠損は、私の観測の痕跡だからだ。


数年が経った。


私は表の仕事を続け、裏の仕事も続けた。消えゆく概念を集める仕事。だが、無に関しては、一切触れなかった。


ある冬の夜、古い友人から連絡が来た。彼は考古学者で、最近発掘した洞窟の壁画について話したがっていた。


「奇妙なんだ。円環状の図が描かれていてね。中央に何もない空間。周囲に矢印。まるで何かが循環しているようだ。」


私は受話器を握りしめた。


友人は続けた。


「地元の老人が言っていたよ。『無とは他の無を反発して維持する。それだけでなく循環するのだ。まるで食物連鎖のように。』って。古い言い伝えらしい。」


私は静かに受話器を置いた。


窓の外を見た。雪が降っていた。白い粒子が、闇の中を静かに循環している。


私の欠損した腕の断面が、わずかに疼いた。


無は、消えていなかった。


ただ、別の場所で、別の観測者の下で、再び反発し、循環を始めていたのだ。


私は立ち上がり、コートを羽織った。銀のペンをポケットに入れた。


次の循環を、誰かが閉じなければならない。


観測者は、いつも、自分の一部を代償に差し出す。


それが、この連鎖の法則なのだから。


雪の中を歩きながら、私は祖父の言葉を、もう一度、心の中で繰り返した。


無とは他の無を反発して維持する。それだけでなく循環するのだ。

まるで食物連鎖のように。


そして、私は知っていた。


この物語もまた、一つの無から生まれ、別の無へと循環していくことを。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。