1-3 人生の先輩
「ごめんね」
「うっ」
京の前には強大な敵が立ちはだかっていた。
時は夕刻。同じ時間のシフトに入っていた雪音や春乃は既に帰宅し、最終シフトにあたっているアルバイト店員と交代した後である。交代した店員は全員店長に挨拶を終えているため、事務所にはしばらく人の出入りがなくなる。つまり事務所に残っているのは店長だけであり、他に邪魔をされずにじっくりと店長と話したいのなら、今の時間ほど最適な時間はない。
その強大な敵はゆっくりマート店長、副園 正雄(ふくぞの ただお)、48歳。彼を前にして、早くも京の心は折れかけていた。業務を終え、意気揚々と店長に時給アップを交渉するも、即座に謝られてしまったためだ。
だめ、と否定せずに謝るあたり、払いたい気持ちはあるが払えないという雇う側の事情もあるのだろう。その優しさが逆に辛くなった。
この交渉が成功した暁には、偉大なる出来事として『バックヤードの誓い』と命名し、自分的歴史教科書に刻むことまで想定していた京であったが、一気に雲行きが怪しくなった。
「確かに雅道院君はよくやってくれてるよ」
店長は淡々と語り始める。
「でも君も知っての通り、うちのアルバイトの時給には限度があって、雅道院君は最大まで上がっているんだ。普通はよっぽどでないとここまでは上がらないけど、君の頑張りもあってお金に細かい社長でさえも納得している」
「事情は聞かないけど、今よりもお金が欲しいなら、やっぱり正社員にならないかい」
やっぱり、というのは何度か京に話をしているということである。
「君なら即戦力だし、下手なうちの社員よりも仕事ができるからね。喜んで採用するよ」
会社の財政が厳しい中、正社員として雇いたいということは、それだけ京という人材が魅力的で投資するに値すると判断しているからだ。それでも京は、
「お気持ちは嬉しいですけど……」
店長は残念そうな顔を浮かべながらも持論を続ける。
「自分の趣味が大切で、その時間を大切にしたいのはよくわかるよ。僕だってプラモデルが趣味だし、趣味に熱中したい時もあるけれど、これでも妻子ある身だから家族を食わしていく責任がある」
椅子のキャスターが窓の方へ角度を変える。
「正社員になると、仕事に対する責任も重くなるから仕事のことばかり考えないとダメになるし、自由な時間は間違いなく減るだろうさ。それでもきちんと仕事をして、家族を養って、たまには妻と子供に怒られるときもあるけれど、そんな当たり前の生活も温かくてさ、悪くないんだよ?」
京の方へ体勢を向け、少しだけ身を乗り出す。
「雅道院君は26歳だったっけ? こう言っちゃ少し失礼かもしれないけれど、いい年なんだからさ、地に足をつけるというか、自分の趣味の時間だけでなくてさ、将来のことも考えたらどうだい? 何もうちの会社にずっといてくれとまでは言わないからさ。君が望むなら是非いて欲しいけどね」
ははっ、と店長。
軽く笑うことで重々しい空気を緩和しようとする。
「まあ、色々考えてみてよ。今すぐ答えは出さなくて良いからさ。おじさんの戯言だと思ってくれても構わない」
完敗、大敗、ぼろ負け。何も言い返すことができない。
「いえ、ありがとうございます。少し考えてみます」
バンッ。
真面目な話はこれで終わり、とばかりに景気付けに京の肩を叩く。
「明日からも頼むよ! うちのエース!」
交渉が決裂(というより人生のアドバイスをされた)し、トボトボと帰路につく。霞み行く空の果てで、徐々に沈みゆく太陽を見つめる。等身大フィギュアと店長の言葉を交互に反芻するたび、自分の心も徐々に沈んでいくように感じた。茜色に輝く夕焼け空の下であっても、顔は蒼白く見える。
「はぁ……」
何度目かの重い溜息。1分間に3回は溜息を吐いており、逆転を信じて戦う高校球児でさえも戦意喪失するほどのマイナスオーラを振り撒いている。
「正論だよな。でも正社員になったら自由時間が少なくなるからアニメを見る時間が激減するしな。1クールの視聴アニメ数40本が30、いや20本くらいに激減してしまう恐れがある。加えて漫画とラノベとアニソン鑑賞と……」
ぶつぶつ呟きながら、時間的制約によるフリーターとしての自分を正当化させようとするが、金銭的な誘惑に悩まされる。
「でも、正社員になれば今よりも収入は上がるから、今よりも円盤とかグッズとかも買いやすくなるしな。それに今の時代、正社員にならないか声を掛けてもらえるだけでありがたい話だよな。なんといっても、等身大つぶつぶフィギュアにかなり近づくし」
さらにでも、と続け腕を組み立ち止まる。自分の趣味を貫くために、フリーターとして生きる道を選んだ、今までは何を言われようと気にすることはなかったのだが、グッズでどんどん満たされていく自分の部屋を思い浮かべると、悩まずにはいられなかった。
「正社員にはなりたくない。でも、金は欲しい。ワガママなのはわかっている。ああ、そうだとも。それでも、それでもだ。理想の生活を送っている人はごまんといる。きっとこの世界には皆が知らない裏技があるはずなんだ。何もかもが常識的に動いているように見えて、ゲーム世界でよくある効率的な金稼ぎ方法のような、そんな裏技が。世界の綻びを見つけることができれば、俺も大金持ちになれるはず!」
カラスの鳴き声が虚しく響く。少し大きい声を出しすぎたためか、道路向かいにいる二人組みの女子高生が、京の方を見てクスクスと笑っている。人によってはご褒美なのだろうが、そこまでの上級者ではない京は、気恥ずかしさから現実に引き戻される。
「そんな上手い話、あるわけないか」
今度は軽い溜息を吐く。それは諦めのサインであった。夢と現実の狭間に葛藤し、結局は変わらない現実を再確認することで、自分の立場をわきまえる。夢を見続けるということは、結果が実らない時間を長く過ごすということであり、大抵の人間は長すぎる時間に耐えられないため、どこかで妥協をしてしまう。しかし、そうして心のバランスを保つからこそ、人は生きていけるのかもしれない。京も例外ではなく、諦めることで気持ちが軽くなっていった。
「宝くじでも買うかな」
それでも人は夢を見ていたい生き物なのだ。
「サマージャンボっていつだっけかな」
ぶつぶつ……。
新たな夢と共に再び歩き始める。
幾ばくか夕日に映える顔から蒼白さが消えていた。
ズズッ……
突如上空に出現した切れ目から、人ならざるものが姿を現す。
「うぅ……、契約書を取りに戻ってたら、遅くなってしまいました!」
遅れた時間を取り戻すように、慌てた様子で周囲を見渡す。
やがて、町並みが赤い色彩を帯びていることに気付き、
「って、もう夕方!? さっきの人はどこに行っちゃったのかな」
必死で辺りを捜索するが、お目当ての人物は見つからない。
「いるわけないか……」
がっくりと肩を落とし、現実から目を背けるように瞼を閉じる。一呼吸置き、建設的な思考を始めようと再び目を開いた矢先、ちょうど真下に見覚えのある人影が歩いているのが見えた。
「さささささ、さっきのお金持ってそうな人、発見!」
宝くじ宝くじ、と独り言を言いながら難しい顔をしている青年に、銀髪の美少女は細い人差し指を突きつけた。屈託のない満面の笑顔は、夕刻を告げる代弁者たる夕日さえも嫉妬する眩さである。
「これはもう運命です!!」




