3.はじめまして たいせつなひと
「長きに渡り、タイキャスの猛攻を退け、我らがサンワールを戦火より救った貴殿らに、祝福あれ」
そう締めた王の言葉に、全員が深く頭を下げる。同時に、楽団が一度止めていた音楽は再開され、各々式典が始まる前の騒乱へと身を委ねていく。王の有難きお言葉が間に挟まったとは思えぬ滑らかさで、会場はあっという間に王が現れる以前の盛り上がりを取り戻した。
特にすることのなくなった私は、これ幸いと壁際への移動を完了し、一息ついているところだ。
会場内は様々なきらめきに満ちている。一枚で私のお給料一年分が吹っ飛ぶような皿がごろごろ転がり、来賓が身に着けている宝石は総額いくらか見当もつかない。あちらこちらから集められ、また自ら集まってきた金銀財宝に芸術作品の詰め合わせ。
それらの警護、光の加減に温度調整、空気の流れに至るまで、快適に過ごせる環境を整えるため使用された、王宮魔術師による高度な魔術の結集。
この会場はいま、サンワールの財を象徴とする場となっている。
そんな中、私は王宮魔術師が奏でる魔術式の解読と、二杯目となる飲み物の味比べくらいしかすることがない。ある意味、一番贅沢な時間の使い方をしている気がしてきた。
ゼノンは流石の忙しさで、会場内をくるくると立ち回っている。彼は、二課らしい見た目で二課とは思えぬ立ち居振る舞いを苦もなくやってのける。そんな奇跡のような人なのだ。
ここで各方面に顔を売っているといないでは、次の予算申請の通り具合が格段に変わる。だからゼノンは、会場内をゆらゆらと漂いながら人との縁を繋げて回っていた。どんな状況であろうと、予定金額は捥ぎ取ってくる男として多方面から恐れられるのが、我らが隊長様である。
そんな大役を担っていないただの平隊員である私は、壁の花ならぬ壁の螺子と化し、のんびりと周囲を観察する。
倹約は悪だといわんばかりに、細やかに贅を凝らした会場内は、見事としか言い様がない。
しかしこういう場所に来て、感動と喜びに心躍らせる種族と、お腹痛い帰りたいと思う種族と、何はともあれ帰りたいと思う種族がいる。私に限らず、二課は二課長以外全員後者の二種族に生息している。
ゼノンは、よしよし、この規模の会が開けるならばまだまだ予算を搾り取れるぞと思う希少種族である。この種族は、絶対に敵に回してはいけない。
終戦以降、軍部の方針は錯綜している。そのことごとくが戦場へ転用されてきた新たな技術を、どこまで民間へと下ろすか。どこまで軍部の予算を維持するか。全ての方針は定まらず、国も上層部も現場も錯綜真っ最中だ。
軍属である身には、命令違反となる研究を行う権利はない。したくない研究は「自分の実力では死者が出ます! 自分です!」で押し通る裏技が存在するが、したい研究を遮られれば、資金難覚悟で離脱するより他ない。よって、今後の身の振り方のためにもできるだけ早く方針を固めてほしいところだ。
研究しないという選択肢はない。そんなことができる人間は二課に配属されていない。
ちらりと視線を向けると、王家の椅子に程近い場所を、王宮所属の魔術師達が陣取っている。白い衣装が眩しい。終戦祝いの場であるからか、こんなに数が揃っているのは珍しい。
軍は、この国において特殊な立ち位置だ。
状況によっては、必ずしも王家の指示に従わずともよい。ある程度独自の判断が許される、武力を持った軍事組織。それが軍の立ち位置である。
そうはいっても、余計な諍いを生まぬため基本的には王命に逆らいはしない。よって王家との関係はそれほど悪くはない。悪くならぬよう互いに務めているのだ。
だが、王宮所属の魔術師と軍所属の魔術師の関係は、それなりに悪い。何せ、互いに目指す場所が違うのだ。
軍は国の、ひいては民がために勝利を目指し、王宮魔術師は王家がために勝利を目指す。
目指す場所は同じでも、その過程に明確な差が生まれるのだ。
つまり軍と王宮魔術師は、結構ぶつかる。
軍部が王家の武力となっている国もあるが、この国では騎士団と王宮魔術師がそれを担う。騎士団は王族の警護及び王宮の警備、そして王都の治安維持を担う組織として。王宮魔術師は王命を実行する組織として。
王の名の元、強引な手段に出ることも少なくない。だからこそ軍と揉めるのだ。一応王の顔を立てて軍部が引く場合が多く、それもまた遺恨を残している。
名目上は王の命を聞く必要のない立場にある軍は、王と民が乖離した際、王をお諫めする立場ですらある。それなのに毎度毎度、事前通達もせず強制的にこちらの行動を制限するのだから当然だ。
王の傍には王妃と王子の姿がある。王子は確か、私と同じ年だ。
我が国唯一の王子レギネ殿下は、美しい顔立ちが際立つほど繊細な金髪を持つ青年だ。体つきは華奢で、幼い頃は病弱だったと聞く。しかし今はお元気でいらっしゃるそうだ。
一介の平隊員である私は、当然のことながら直に言葉を交わした経験はない。だが、気が弱くいらっしゃるとの噂がまことしやかに流れているくらいには、穏やかな気質をされておられるようだ。
それでもレギネ殿下がお元気になられてからの王家は安定を見せていた。
だが最近、王家は新たな転換期を迎えた。王の老いが顕著に出始めたのだ。
見た目に老いが出始めれば、行動も取り繕えなくなっていくもので。もはや側近内では留めきれず、周知の事実として広まっている。
王はなかなか子ができず、側室を数人迎えてなお恵まれなかった。
王子は第四妃との間にできた子どもで、その時点で王は五十をとうに過ぎ、六十に届こうとしていた。
王子が私の同じ年齢ということは、王もそこから同じ年を重ねているのである。老いは当然の摂理だ。
ただ一人恵まれた王子の体は弱く、明日をも知れぬ日々が長く続いた当時、王宮の心労は如何ほどだっただろう。
王が老いを見せ始めた段階で、唯一の王子が成人の証となる専属の騎士をつける年齢に達したことは僥倖だった。
しかし今回は、それが安定ではなく波乱を巻き起こす原因となっている。
王族は成人と同時に必ず一人の騎士を持つ習わしがあるが、今代の王子はその枠に王宮魔術師を選んだのだ。
王子の隣に立っている、まるで葡萄酒のように深い赤の髪を持つ男がそうだ。たぶん。
王子が王宮魔術師をお付としたことで、軍とは勿論、騎士団とも揉めたらしい。王宮魔術師は元より王家のためにあり、どうしても二つの距離は近くなる。
しかし、軍、王宮魔術師、騎士団と、ある程度三つ巴の体を保たなければ国が荒れる原因になるのだ。
慣例通りであれば、王族は騎士団から護衛を選出する。騎士団は王宮の守護も担っているので、そういった面でも護衛にはもってこいだ。
それなのに王子は、王宮魔術師を付き人とした。騎士団としては面子を潰され、軍部としては王宮魔術師の権限がさらに強まる事態を警戒しなければならなくなったのだ。
王子と護衛魔術師は、あまり好意的とは言えない視線の中で視線を合わせ、ぎこちない笑みを交わし合った。慣例を破ってでも傍に置きたかったくらい、王子はあの魔術師と仲が良いらしい。
そう、素直に受け止めていい案件なのだろうか、これは。
慣例から外れた行いには、大抵何かしらの思惑が存在するのが、王侯貴族というものである。
だがそんなことを考えるのは、私の仕事ではない。全体の流れを左右するような考察をするのはもっと偉い階級の人達であり、相談を受けるのはその人達と近しい人々である。
それに今日は祝いの場。悶着はないだろうと視線を外す。悶着が起こったとしても、平隊員の私の出る幕はないはずだ。
噂の習わし違反二人組に興味がないともいう。
空になった飲み物の代わりを頼む気にもなれず、給仕にグラスを返し、姿勢を正す。壁に背を預けられる場ではなく、またそんな立場でもない。
そうして逸らした私の意識は、不意に話し声を拾った。
話し声などそこら中に溢れてはいる。だが私の意識がそれを拾ったのは、明らかに揉めている声が背後から聞こえてきたからだ。
私の斜め後ろにはカーテンが下げられた窓があり、その先にはバルコニーがある。カーテンが下りているのは先客がいる証だ。
だから前には立たず少しずれた位置にいたのだが、これはどうしたものか。盗み聞きする趣味はないのだけれど、助けが必要な状況を故意に見過ごすわけにもいかない。
ひっそりと人差し指を回す。小さくして胸元にしまってある杖と繋げ、指を杖代わりにして魔術を使う。盗み聞き程度の魔術であれば、わざわざ杖を取り出すまでもなく簡易的な様式で事足りる。
『――みっともない』
そうして聞こえてきた言葉に耳をすませば、どうにも初手から険悪な雰囲気である。
『お前は何をしているのだ』
『お父様の言う通りですよ。風紀を乱すような行いは慎みなさい。お前は何をしに戦場に言ったのですか、恥ずかしい』
男の声と女の声。女の言葉を聞くに、夫婦が子どもを叱っているようだ。
『……お父様、お母様、私はもう成人しています』
押し殺した声は女の子のものだった。
『ならば余計に、節度ある行動を心掛けなさい。お前の行動を聞いたときは、顔から火が出るかと思った。大体お前は昔から』
『成人したのだからもう好きにしたっていいじゃありませんか! いつもいつもそうやって私の行動を制限して! 私はあなた方の人形ではありません!』
『お父様に向かってなんです、その言い方は!』
三人が声を荒げ始めたので、私は慌てて魔術を解いた。
どう聞いても親子喧嘩で、親子間の確執だ。犯罪の心配がないのであれば、聞かぬが礼儀だろう。
盗み聞きに集中して、いつのまにかまた悪くなっていた姿勢を正す。
早く二課室に戻り、姿勢など一切合切気にせず机にかじりつきながら作業したいものだ。猫背と視力低下と腰痛は、二課に蔓延する不治の病である。姿勢を正せばいいだけだが不治の病である。
欠伸を噛み殺しながら、無意識に知った顔を探していると、横から吹っ飛ぶような衝撃が来た。軍属とはいえ所詮研究職。対人戦には全く向いていない自覚はある。
よって横からの衝撃をもろに受けた私は、盛大に呻いた。
「うっぐ!」
「ミント! やっほー」
私の潰れた呻き声に対し、軽快でいてどこか甘い、柔らかな声音が私を呼んだ。
「ディア、ミントが瀕死だ」
「やだぁ、ごめぇん」
「お、ひさし、ぶり。ロニ、ディア。元気そうで、何より」
まっすぐな黒髪が美しいディアは、すらりと長い手足が印象的だ。ふわふわな金髪が愛らしいロニは、小柄で柔らかな身体つきをしている。
この対照的な二人は軍事学校時代の同期であり、私の大切な友達だ。
ディアを見上げ、ロニを見下ろす。この二人、高低差もかなりあるので、二人の顔を一緒に視界へ収めるには何歩か後退しなければならない。
「うん、元気元気ー! ミントも元気そうで、あたし嬉しい!」
ディアはなんとか復活した私の手を取り、ぴょんぴょん跳ねる。
「会場内であまりはしゃぐな。それにしてもミント、私も、会えて嬉しく思う」
金髪をきっちりと結い上げたロニは、きりっとした目元を僅かに緩めた。
二人は私と同期だが魔術師ではない。現在はリメン隊とアコーラ隊に配属されている。入隊して一年、互いに訓練内容の違いはあれど共に訓練を乗り越えた仲間である。
終戦が囁かれ、以前ほど毎夜のように激しい戦闘が繰り広げられることはなかったと聞いているが、それでも危険なことも多々あったはずだ。私の大切な人は皆、戦場にいたのだ。
「私も嬉しい。またお茶しようね」
「するするぅ! 話したいこといっぱいあるんだ!」
「嬉しいな、楽しみだ」
満面の笑みと、小さな笑み。形は違えど、同じ喜びを宿した笑みを向けてくれた友達に、私も笑う。
「二人は軍曹になったって聞いたよ。おめでとう」
「終戦時生き残っていたから、自動的に繰り上げられただけだよ」
「そうそう!」
笑う二人の言葉は事実であるが、真実ではない。入隊して一年の兵士が、碌な戦績もなしに昇進できるはずがない。死亡すれば二階級昇進はありうるが、二人は見ての通り生きているのだから。
けれど、言わぬが花だ。
昇進はそれに伴う功績が必要となるが、その内容を知る必要はない。必要以上に閉ざす必要はないが、言う必要のない言葉は確かにある。
軍では特に、それが顕著だ。
「それに、少尉殿が何を言う」
「きゃー、出世頭ー!」
突っついてくる二人の手を交わし、突っつき返す。
「魔術師は特殊だって知ってるくせにー」
研究職の人間は、多少階級が高いほうがいいのだ。
だから軍に有用な研究が可能な人物だと判断されれば、急いで昇進がかかる。多少なり功績を挙げれば尚のことだ。
階級がなければ、軍としても予算や警護などの融通をつけづらいのである。
せっかく有益だと判断した研究も、盗まれてしまえば痛手では済まなくなる。なので、薄い警備では成り立たないのだ。
その関係で、二課の面子は同期より昇進が早くなる傾向にある。私もさっさと階級を上げられてしまったが、この辺りで頭打ちにしてほしい。事情を汲み取ってくれる人が大半だが、贔屓だコネだ身体を使っただの、色々面倒な文句を言ってくる人がいるからだ。
しかし私の希望など、上層部には関係がない。情勢によってはもう少し上がる可能性も示唆されているくらいだ。そう思えば、面倒で、暗鬱とした気分になる。
そういう、あえて口には出されないが少し考えれば分かる事情に思い至らず、悪態をついてしまう浅はかさも昇進には大いに関わっているので、口に出す前に考えたほうがいい。
相手の悪徳を詰るより先に己の無知を疑えない人間を出世させるほど、軍部も人手不足ではないのだ。
ふざけ合いを終えた後、この一年を話せる範囲で報告し合う。
軍人なのでどうしたって機密は付きまとう。それでも一般人を相手にするよりずっと規制は少なく、事情を汲んでくれるので話しやすい。
「一年なんてあっという間だよねぇ」
「そうだな。だが、それなりに色々あるものだ」
「そうだね。色々、あるよねぇー……」
無意識に白い頭を探してしまい、慌てて意識を二人へ戻す。
「あのね、林檎あるんだ。時間ができたら渡すね」
ざわめきどころか、グラスが重なり合う音にすら掻き消えてしまいそうな声でそっと告げると、二人は揃って瞬きした。そして、どこかくすぐったそうに笑う。
「分かった」
「楽しみにしてるぅ」
私もくすぐったさに身を捩りながら、笑みで応じた。
私達は軍人だ。機密はそのまま自身の秘密となる。
友にも家族にも話せぬ内容を抱える事も、これから多くなるだろう。だから私達は、卒業式の日、約束をした。
秘匿は当然だ。大事な人に嘘をつくことも増えるだろう。
当然の義務が苦にならぬよう、せめて秘密を持つことだけは明かそうと。そうして、嘘の肯定だけは互いに与えようと。そう、決めたのだ。
秘密を果物に例え、時が来れば明かせる物はいつか渡す約束を。いずれであっても明かせぬものは、二度と訪れぬまたの機会を。
訓練生時代に決めたこの約束を行使したのは、私が初めてだ。初めて使った内緒の約束はどこか照れくさく、それを受け止めてくれた二人が浮かべた、同じ気持ちの笑顔がくすぐったい。
そんな気持ちのまま見つめ合っていると余計にもぞもぞしてきて。私達はしばし、小さな子どもみたいな照れくささに悶えた。
互いの顔を見ればくすぐったくなるから、私達は他所へと視線を預けた。ロニは手摺りの飾り、ディアは壁に取り付けられた魔術の灯り。私はというと、さてどこに置こうかと彷徨わせた視線の先に、白い頭を見つけてしまった。
人に囲まれても目立つその人は、表情一つ変えず、言葉少なに受け答えをしているようだ。何を言っているかは聞こえないが、あまり口元が動いていないのは見て取れた。
見慣れぬ顔だ。声も聞き慣れない。けれど、あの唇が紡ぐ言葉選びや聞き慣れない抑揚を、とてもよく知っている気がする人。
それだけで、遠いのに誰より近しい人のように思えてしまう。
しかし、見れば見るほど顔がいい。あの人、私の夫らしい。私達は新婚一日目らしい。
なんで?
「ミント、どうした? ……ああ、アンペロプシスか。やはり王城でも目立つか。そういえば彼はルクトス隊、お父上の隊だったか。知り合いだったのか?」
「――今日初めて、会ったよ」
「それもそうか」
思わず不審な動作をしかけて、慌てて取り繕う。人の輪に囲まれて尚目立つ姿を一緒に眺めていたロニは、私の動揺には気付かなかったようだ。
「アンペロプシスは凄いよぉ。一に目立って二に目立つ。三、四がなくて五にめっちゃ目立つ」
「あの容姿だからな。だがあれは、壮絶な過去でああなったと噂を聞いたな」
「髪は目の前で両親を惨殺された衝撃からで、目の色が違うのは失明して義眼入れているからって」
……え?
一瞬動揺したが、情報元が噂である事実を考慮し、動揺は一旦保留とした。
「っていうか、アンペロプシスの噂多すぎて、何が何だか分かんないや」
「戦績でもあれだけずば抜ければ、真偽不確かな噂も流れる。それに、よりにもよってルクトス中将の隊だ。軍を象徴する隊の中でさえ一際目立つ隊だしな。奴を打とうと群がった敵全てを返り討ちにし、真っ赤に染まる。あれはなかなかに衝撃的だった。生きているだけで目立つ男だと思うぞ」
「アンペロプシスは現地入隊組だから、長い期間生き残ってて実力もお墨付きだし。部下になりたがって押しかけた人、結構いるらしいね。すごいよね。全方向に向けて目立つって」
「そう、なんだ」
知らないことばかりで目を回しそうだ。
私もアンとの付き合いは長いほうだが、顔を知ったのは今日が初めてだ。目の色、声、会ったのも今日が初めてだし、性別を知ったのも今日が初めてだ。
これもう、赤の他人では?
アンのことをそう思ったのも、今日が初めてだ。
アンをぼんやり見つめていると、その後ろから女の子がひょっこり現れて、驚く。
その女の子に見覚えもあった。誰だったかなと記憶を探り、思い出す。軍学校で同学年だった、エーヴァだ。
卒業までクラスが重なることはなく、授業や行事でもほとんど関わる機会はなかった子である。
見た目だけで言うのなら、随分印象が変わったように思う。親しい友人以外とはあまり話さず、規則ぎりぎりまで伸ばした前髪と眼鏡で、瞳を見た覚えはない。
今は眼鏡がなく、前髪もさっぱりと上げられている。きつくまとめられていた髪は緩やかな波を描き柔らかに揺れる。てきぱきとアンに食べ物や飲み物を渡し、会話は聞こえないがアンが断る動作を見せると、すぐさま次の皿が用意される。とても手際がいい。
断るアン。笑顔で次を用意するエーヴァ。断った皿の行方が気になる私。これが噂の修羅場か。
「ありゃ、エーヴァ、ここでも変わらないのかぁ」
結局修羅場とは何をすればいいのか悩んでいると、ディアがのんびりと言った。そして私の頭に掌を重ね、その上へ自身の顎を置く。重くはないが頭が固定されたので、そのままアン達を眺める。
「変わらない?」
「なんかさ、アンペロプシスの世話焼きたがるんだよねぇ」
そうなのかと、私の知らない戦場での出来事を思う。アンからもお父さんからも、そんな話は聞いたことはない。身内以外との手紙は推奨されていないため、ディアとロニの手紙は届かなかった。
私は戦場に大切な人がたくさんいた。だからこそ、その人達が話してくれないと、何一つとして大切な人のことを知れないのだ。
「まあ、好きなんだろうねぇ」
「まあ、そうなんだろうなぁ」
特に驚きはしない二人の様子に、この光景は戦場で当たり前のものだったのだと理解する。
アンはあまり表情を動かさない。口元も動いていないように見えるので、おそらくほとんど喋っていない。しかし、その横でエーヴァがくるくると笑う。きらきらと、嬉しそうに。
私の胸に去来した感情は、寂しさだけではなかった。けれど何に比重が割かれたのか分からない。
私、あなたのこと何にも知らないのね。
私はあなたに、誰より自身のことを明け渡したつもりだった。誰にも相談出来ぬことを語った。検閲されると分かっていたが、通信部は絶対に情報を漏らさない。だから、ないものとして扱うのが通例だ。
それに、そうと分かっていても伝えたかった。私を明け渡したかった。それだけ、心を委ねていた。
母がいない悲しさを、父がいない寂しさを。アンへと集約し、依存していた自覚は、あった。
『母さんは俺の母さんだから、お前のじゃないんだぞ!』
幼い頃、サシャの息子はそう言った。
サシャの息子ザングは、私と同じ年だった。
人見知りが激しくて、サシャ以外のお手伝いさんを中々受け入れられなかった私の世話を、サシャは一身に担ってくれた。
乳幼児ならばともかく、五、六才ともなれば、一人で留守番するなんて当たり前だ。なのに、身の回りで必要なことを済ませても残って遊んでくれるサシャは、本当に面倒見がいい人だった。
私が住んでいたのは、軍人とその家族に与えられる区画だった。周りは事情を知っている軍関係者ばかりなので、子どもが一人でいようと問題ない。日暮れまで子どもだけで遊べるほど安全で、何よりサシャ自身にも家庭があって生活がある。
だから当然夜には帰宅していたのだが、その日はどうしても寂しくて。何故だかとても悲しくて。
一人っきりの家を抜け出して、サシャに会いにいってしまった。サシャはそれまでも何度か泊めてくれたから、家の場所は知っていたのだ。
私は一人だったから、夜に外へ出ることはほとんどなく。あったとしてもサシャがお祭りに連れていってくれた日だから、いつだって楽しくて。闇はただただ非日常の興奮だけを連れてきた。
けれどその日は一人で、お祭りのない夜は静かで暗くて恐ろしくて。暗がりから何か恐ろしいものが飛び出してくるんじゃないか。闇そのものが顎を開いて飲みこみに来るんじゃないか。
そんな恐ろしい想像が次から次へと溢れ出し、いつも一人でベッドにいる時みたいに、布団を頭から被りたくなった。だけど、この先に温かなサシャがいると思えるから、なんとか足を進められた。
けれど、私がサシャに会うことはなかった。
家の周りをうろうろしている私を、ゴミを出しに来たザングが先に見つけたからだ。
『母さんは俺の母さんだから、お前のじゃないんだぞ!』
ザングは夜でも分かるほど怒りで顔を染め、私に怒鳴った。あの時の気持ちを、今でも覚えている。
酷い裏切りを、受けた気がした。
私はザングに背を向け、来た道を戻った。行きにはあれだけ怖かった夜道は、もう怖くなかった。
怖かったのは、夜道とは大人と一緒に歩くもので、私にはその大人がいなかったから。
だけど最初からその大人がいないのなら、しようがないと思った。
怖がったって、一人で行かなければならないのなら、しようがないものはしようがないのだ。
おかあさんがいないのも、おとうさんがいないのも、しようがないものは、しようが、ないのだ。
ぼんやりと夜道を歩き、光が灯った家々を見つめながら歩いた。
明るくて、温かそうで、楽しそうで。愛されているように見えた。誰がとか何がとか、そんな具体的なことは何も思い浮かばない。
ただただ。
愛されている。
その事実だけがそこにあるように思えてならなかった。
真っ暗な自宅の扉を開け、鍵を閉め、椅子に座る。灯りをつけなくても、月明かりがなくたって、住み慣れた家だ。それくらい、なんなく出来た。けれど、それ以上何も出来なくなった。
床に着かない足をぶら下げたまま、ぼんやりと壁の絵を見つめた。目が慣れてきた薄暗い部屋の中、柔らかな景色が描かれている絵を眺める。お母さんが好んだ絵だと、お父さんは教えてくれた。
ザングの言葉に、酷い裏切りを受けた気がしたのは、自分の幻想に裏切られたと理解したからだ。
家に帰るサシャは悪くない。国を守っているお父さんは悪くない。お母さんが大好きなザングは悪くない。誰も悪くない。誰にも罪はない。他の誰にも罪はなくて、寂しさを抱いた私だけが悪いのだ。
私が寂しいのは、私を産むときに死んでしまった、お母さんを殺した私が悪いのだ。
危なかった。ザングに教えてもらえてよかった。お父さん達は命を懸けて必死にこの国を、皆を守っている。そのサシャ達の幸せを、私が壊してしまうところだった。
サシャの幸せの在処は私のところじゃない。ザングの幸せも私のところじゃない。
夜道にたくさん、たくさん灯った灯りは、お父さん達が大事に護っている誰かのもので、私の傍で育まれる幸せは一つもない。だってどれも私のものではないのだから、そんなことは当たり前だったのだ。
椅子の上で迎えた朝は、いつもと何も変わらなかった。眠っていないのに朝は来るんだなぁと、なんだか少し不思議だった。
夜が明けるか明けないか、そんなぎりぎりの時間に、いつも通り牛乳と手紙が届けられる。私が寝てなくたって、世界は何も変わらない。私が寂しくたって朝は来るし、私が悲しくたって夜は来る。
だからきっと、私が死んでも変わらない。そう思ったら、なぜだろう。何だか少し、ほっとした。
いつも手紙を届けてくれる配達人のおじさんは、いつものようににこやかな笑顔で頭を撫でてくれた。お礼を言って手紙を受け取り、一晩中座っていた椅子に座り直す。
届けられた手紙はアンからだった。今回はどんな不思議なお手紙だろうと思いながら、封を切る。
そういえば、私がいなくなったら、アンは誰にお手紙を出すのだろうと。ふと、思った。
『ぶたい内でかぜがはやっています。
ミントはお元きですか。』
たったそれだけ。
それだけの手紙だったのに、どうしてだが、涙が溢れた。
私からの質問に答えるだけだったアンが、私を気にかけてくれた。ただそれだけだったのに、冷たく痛いだけだった涙が温かくなった。寂しくなくなったとか、そんな簡単に感情は入れ替わらない。
だけど、大事にしようと思った。この人を大事にしたいと思った。寂しさに縋るより、悲しさを嘆くより。この人を大事にしようと、思ったのだ。
とある六才の朝、私は、好きの先に大事を見つけた。




