24.はじめまして あいしています
いつのまにか、軍部と二課を繋いでいた攻撃の光が止んでいた。二課制圧どころではないと判断したか、それとも二課が襲撃者を完全制圧したかの二択となる。
視線を戻し、転がっている真っ二つの胴体にしゃがんだままにじり寄る。こちらの個体は、横ではなく縦に真っ二つなので、内部確認には大変ありがたい仕様となっている。
体と首を傾けながら覗き込んだ体内は、あまり長く稼働できるようには見えない。長く稼働させるために必要な、調整と循環のための器官がどこにもなく、完全に使い捨てだ。
「動力源はどこだー?」
杖をちょいちょいと動かし、魔術で内部を確認していると、忙しいはずのアンから息一つ乱れぬ声音で呼ばれた。
「ミントは」
「うんー?」
奥を覗いていて顔は上げられず、返事だけを返す。
他の人型もそうなのだろうか。運よく隣に腕が飛んできたので、その断面を覗き込む。これまた雑なつくりだ。そもそも骨が骨じゃない。
「死体は怖くないの? 軍人でも、戦場に出ない人間は嫌がるって聞いた」
「これは正確には死体じゃない気がするけど、まあ、一般人よりは慣れてると思うよ。王都に配属されている軍人の中でも二課は、比較的死体を見る機会が多いから」
王都に限らず、毎日どこかで人は死ぬ。病、老い、事件、事故。毎秒どこかで人が死ぬ。その中でも事件性が高かったり、死因不明であったりすると、魔術師が駆り出される。
中でも専門性や危険性が高いと判断された事件は、二課へと回ってくるのだ。何せ二課は、一応魔術の専門家だ。ただ魔術馬鹿なだけであっても、世間の認識では魔術の第一人者なのである。
軍は軍で、市民との関係は良好に保っておきたい。武力制圧できる力を持つがゆえに、関係が良好でなければ武力を圧に感じる心が不満を抱き、煮詰め、いざ何かしらが起こった際に爆発する。
そうなっては厄介なので、柔軟に市井と関わり合いを持ち、市民感情をなだらかに保つ努力を欠かさない。二課を貸し出して市民感情が良好へ傾くのであれば安いものだ。
「よかった」
「そうだねぇ」
慣れぬ頃は記憶と吐き気に苛まされながら、必死に食事を詰め込んでいたものだが、手紙に書いたことはない。
守秘義務だけでなく、手紙は楽しいことで敷き詰めたかった。
ちょっとした悩みを書いたことはあったが、戦場で生きる彼に血なまぐさい話だけはしないと決めていた。
「僕は、たくさん人を殺したから。死体を嫌がる人間は、死体を作った人間も嫌がるって」
「……誰がそんなこと言ったの?」
「戦争反対団体の集会」
「あー……」
戦争反対団体は、その名の通り戦争を反対している団体だ。
王都や地方を巡回するだけでなく、戦場近辺でもよく集会を開き、戦争反対と掛かれた立札を持ち、戦争反対を叫んでいる。
どんな主義主張を抱こうと個人の勝手だが、人に押し付けるのはいただけない。
まして戦争とは、片方だけでできることではないのだ。こちらが戦争を止めたとて、向こうが止めなければそのまま攻め込まれて国を失うだけである。そして国を失う過程で、大量の命と尊厳が踏みにじられ、技術と文化が売り捌かれ、全ての名を失う。
戦時中に軍を批判する人間は、自らの損失なく、それに思い至れない稚拙な思考の持ち主だけだ。攻め込まれた側であるのなら尚更だ。
国家反逆罪か、敵国の密偵罪を適用されても文句は言えない所業であるが、真面目で素直なアンは、いろんな言葉を真剣に考え抜いてしまうのだろう。
「いろんな人の話を自分の中に溶け込ませるのはアンのいいところだと思うけど、自分に取り込む言葉は選んだほうがいいよ。誰の言葉を優先するかも」
私だったら最初から切り捨ててしまうような言葉まで大切にしまいこんでしまっては、いつかきっとアンの容量を超えてしまう。人生とは取捨選択で成り立っている。全てを抱えて生きられるほど、人は機能的にも豊かにもできてないのだ。
心配で思わず偉そうに忠告してしまった私を前に、アンは不思議そうに首を傾げ、私も傾げた。
私達を追ってきていた人型は一掃されている。周り中血の海だけれど、血の臭いはしない。これ、何でできた液体で、何の役割を果たすために入っていたのだろう。冷却だろうか。
「僕はミントと上官の言葉だけを信じる」
「責任重大すぎる上に適当が九割を占めるお父さんと同列に扱われてる事実が嫌だ!」
正確に言えば、とても嫌だ。
「ミントは、僕と結婚して後悔してないの」
「あんまり結婚したって自覚はないんだけど、嬉しいとは思います」
「理由は何であれ、後悔してないならよかった」
その言葉通りアンは嬉しそうに頷いたけれど、それでいいのだろうか。自分で言っておいてなんだけど、全然よくない気がするのだ。けれど、アンの不安が拭えるなら何でもいい。
「急展開過ぎて自覚が追いつけてないのは本当だけど……私は、アンと家族になれて嬉しい。名実ともに家族であれば、誰を介さなくても安否を知れるし、関係者でいられるから」
同じ光を家と呼び、確認を取らずとも目的地を同じく帰還できる。
それがどれだけ希少なことか。互いにそうと交わした約束上の関係性で得られる関係が、どれだけ。
どれだけ、得難い奇跡か。
生まれ持った関係性でも難しい現実を、自らの手で組み立てられる奇跡を。
私は、知っているのだ。
そして、私は嬉しいのだけれどアンはどうなのだ。
私には質問してくれるけれど、自分のことはあまり話さない。話す必要性を感じていないのか、不平不満まで気づかないからか。
魔術で人型を弄っていると、その奥に奇妙なものを見つけた。臓器でも臓器もどきでもない、丸い石だ。大きさは亀の卵くらいの。白い、魔石だ。
魔力が消え失せていて、魔術で様子を見たときは気づけなかった。
魔術で取り出し、目線の高さに掲げる。素手で触るわけにはいかない。私への影響と、私が石に与える影響を避けたいからだ。
決して触れず、目を凝らす。罅が入り、石に篭っていたはずの魔力は完全に消え失せている。もはやただの石だ。だがこれは、命を持たぬ人型の内部に埋まっていた。ただの石のはずはない。
この魔石は、人型を稼働させていた動力源。これが核だ。
ざっと分析した感じだと、人工的に作り出した魔石だと思われる。
「アンは、私と結婚して後悔してないの?」
「ない」
即答である。
「僕は喜んでって言った。上官から聞いてない?」
「聞いたけど……あの流れで本心なことってあるんだ……」
そうこうしている間も、他の人型から同じ形状の白い石を発見した。どれも魔力消失した白い石だ。
魔力残量が尽きたのは、アンによって破壊される前か後か。前ならば純粋に燃料不足だが、後者ならば肉体の損傷が核へ影響を及ぼしたことになる。つまり燃料と本体が直結しているのだ。
「ミントは」
「うん?」
それでは本当に、心臓のようではないか。
魔石を心臓代わりにする魔術。解明が待たれる興味深い事象だ。早く研究したい。二課に戻りたい。この研究、ここで途絶えさえていいのだろうか。
「手紙で、僕と行きたい場所がいっぱいあるって言ってた」
「そうだねぇ」
魔術で組み上げた瓶に、白い魔石を一つ入れていく。持ち帰るといろいろ問題が生じるかもしれないが、この魔石構造を分析しておかないと、後々同じような培養生物が出てきた際に困るのだ。
杖先をちょいちょいと動かして微調整しながら石を詰めていく作業を、アンはまじまじと見つめている。その様子はどこか幼い子どものようで、可愛らしい。
「おいしい焼き菓子の店、たくさんお茶が飲めてのんびりできる店、図書館、店主がちょっと小難しいけれど品揃えは他店の追随を許さない魔道具屋、図書館、古本屋、腕のいい魔術師が演出を行ってくれる観劇。サシャのアップルパイも、一緒に食べたいって」
「……覚えてたんだ」
全部、一つの手紙で書いたわけではない。一区切りのやり取りで書いたわけでもない。
長い間。アンと出会ってからの歳月全てを使って、様々な話題の間を縫いながら、ぽつり、ぽつりと。
そうして紛れ込ませたわがままを、アンは何一つ取りこぼさず会いに来てくれたらしい。
「僕は、ミントのように多数の物事へ好奇心を向ける能力が著しく低い。けれど、君が教えてくれた全てを握りしめてきた。君の未来に願望として僕を置いてくれたことが、本当に嬉しかった」
私が握りしめられなかった全てを持って、アンは会いに来てくれたのか。
「僕は、君と結婚できて嬉しかった。僕は君が好きだから」
「ありがとうございます……」
「恋愛として」
面と向かって告げられると居た堪れなくなる。家族という関係性に恋して育ってしまった私には、その熱量を向けてくれた存在がアンであるという事実だけで爆散してしまいそうになるのだ。
「えー、と……な、なんか、そうって思った理由とか、あったり、する? ゆ、友情、とは違うって、思ったきっかっけっとか、根拠っていうか理由っていうか原因っていうか要因っていうか……」
世間とは少しだけ乖離した感性を持ち、少しだけ常識を記憶する箇所に空きのあるアンのことだ。私に関する何らかの感情を、恋愛と誤認した可能性も残っている。むしろ高い。
その可能性に甘えて油断した私に、アンは容赦なかった。
「君の人生の一番近くにいたいと思った」
「初手で攻撃力が高すぎる」
「理由を知りたくて上官に相談したら」
「出たここで一番出てきちゃ駄目な名前」
「小説をたくさん読むようにと」
「存外まともな助言で驚愕してる」
「成人婦女子を対象とした本と成人紳士を対象とした本を山ほどくれた」
「一瞬でも信じてしまった自分に驚愕してる」
「その結果、僕は君が好きなんだと分かった」
「この流れでそれは一番言っちゃいけないやつだと思う!」
どうしよう。本来ならば嬉しくなるであろう情報と、全てを台無しにする情報が交互に開示された感情が着地点を見失った。
「君は?」
「この流れでそう振ってくるのは流石アンだと思います!」
「ありがとう」
「褒めてはいない! 絶対に!」
「それで、君は?」
「一切ぶれないところもアンらしいと思います!」
未だかつて、こんなにも困ったことがあるだろうかっ……お父さんとアン関係だと結構ある気がするな。切ない事実に思い至ってしまったが、後で考えよう。
「……私も、アンのこと好きだよ」
それは、嘘ではない。本当だ。この世に存在するすべての計測器及び分析魔術を使って測定してくれても構わない。何一つとして偽りはない。
「けど……そういう意識で考えたことが一度もなくて、即答できないのも事実です」
「うん」
アンは、嘘を酷く厭うていた。丁寧に感情を向けてくれるアンに返せる好意は、誠実でしか証明できない。
私はアンが好き。それは純然たる事実だ。嫌いになる要素は欠片もなく、大事にしたい思いは募るばかりだ。アンに対して一切のゆるぎなく好意を抱いているエーヴァを見てなお、彼女のほうが適任だと身を引けない程度に執着の自覚もある。
ならばきっと、事態が急展開過ぎて好意を自覚する隙が無かっただけで、落ち着けばあっという間に恋に落ちるのではなかろうかと推測している。
恋に落ちたことはないけれど、36番に対し強烈な興味と好奇心を刺激されたことはある。おそらくはあんな感じだと思う。36番に対し独占欲を抱いたことはないので、そことの違いが好奇心と好意の違いではなかろうか。
「ミントはこれから好きになってくれると嬉しい。僕はきっと、男が世間一般的に望まれる常識的で正しい行動はとれないけど、ミントがそれを望むのなら絶対に模倣して形にするから」
私が意識を他所へ逸らしている間に、アンが畳みかけてくる。怒涛の誠実さだ。
「ミント、君の手紙が僕に世界をくれた。僕では君の好奇心を満たすことはできないけれど、せめて君が僕といて不利にならないよう努力する。僕ができる限り、できないこともできるようになる。だから、だからミント、どうか僕を好きになって。僕は君が、君が好きなんだ」
流石戦場の若き竜と名高い英雄。攻撃に躊躇もなければ容赦もない。
恥ずかしさと照れくささと、頭を抱え胸を殴りつけるような、もどかしさ。
こんな、頬へ熱が集まる事態が私に訪れるとは想像しておらず。それらに対する対処法を一切検討していなかったが為に、全く成す術がない。
やはり予防は大事だ。予防、予習、それらは来る日への備えであり財産であり余裕であり、命綱を掴むまでの猶予だ。やはり無駄は余裕で、余裕は冷静さを生み出す。
世の人々は、こんな身のやり場のない羞恥と焦燥感に襲われる過程を得て、夫婦になっているのかと思うと、足を向けて眠れない。隣人は皆、尊敬すべき先達である。
「ア、ンは、アンのままでいいと、思う」
身のやり場がなくて、無意味に杖で地面を抉る。地面と言っても石畳だし血みどろだ。
「……僕は」
思いつめた顔をしたアンに、居住まいを正す。
「あの古代施設で作られた人工生命体の一つなんだけど」
「なんて?」
声として疑問を返せた自分を、この時ほど褒め称えたいと思った日はない。
「僕は王宮魔術師が作った生物兵器だし、最古の魔石は僕の中にあるんだけど、ミントいる?」
「……………………………………………………へぇー」
アンなりの冗談である可能性を最後まで信じよう。そう思っている時点でもう駄目である。
「僕、化け物なんだけど大丈夫?」
夢にまで見た私の家族は、化け物だった。
激しい動揺と討論が私の中で沸き上がり、最終的に感情がそれら全てを制した結果を、私はアンに伝えられず口籠る。
「あいつらは様々な要素を混ぜ合わせた複合品が生き物して成り立つのか。その研究に一番手を掛けていた。本当に手当たり次第だったけど、そうして作られた物は結局、巨大な魔物と僕を含めた人型二体以外は機能不全で死んだ。あいつらは最古の魔石を三つに割って僕らに入れてたけど、でも僕の調子が悪くなって、全てを僕の中に入れて、他には自分達が作っていた魔石を入れてた」
「ふぅんー……」
「施設の入り口に杖を持っていない死体があったと思うけど、あれは二体の死体だよ。臨時的に入れた魔石では混ぜられすぎた身体が安定せずに暴走して、結局人型に近い形で死んだ」
「ほぉー……」
「王宮魔術師を吸収したり自分達を融合させたりと、もうぐちゃぐちゃだったのに最後は人型で、レギネに似ていた。僕はあいつらが他を食っている混乱に乗じて外に出て、そのまま上官に拾われた。二本足の生き物は全部同じだと思ってたから上官を殺そうとしたけど返り討ちにあって」
あいつらとあいつらが重なっているけれど、意味は分かる。もしかしたらアンも、この話をするために緊張しているのかもしれない。
「それで、事情を聞いた上官がいろいろと手を回してくれて」
「お父さん、そんな策略的なことできたんだね……」
「人間性を獲得するために同世代の子どもと交流して学ぶべきだという話が出たけど、ルクトス隊は勿論戦場には同世代の人間がいなくて」
流れが分かってきた。全てがあまりに唐突過ぎてほとんど理解できていないけれど、分かる。
「ミントは、僕が人間性を獲得するための生贄」
自身の感情含め、何も分からないことは分かった。
「上官が帰還と同時に僕とミントを結婚させてくれたのは、軍部が人員の総洗いを掛けている間、僕の戸籍を移動させるためだ。僕と君の戸籍は司祭が持っていたから、人の目に触れていない。上官は王宮魔術師と王の行動を上層部に報告していたけれど、僕の身元だけは伝えていなかった。殺処分されるか、よくて施設内と同じ処遇になると分かっていたからだ」
分からないこと以外は何も分からない。全ての事象も、アンの素性も、お父さんの思惑も、ほとんど全てにおいて分からない。
「ごめん。僕だけが嬉しさを獲得して、君には何の得もない関係性だったのに、その関係を法的に確立させてしまった。上官は君に確認を取ったと言っていたけど、きっと君は何も聞いていないんだ。だってもしも聞いていたのなら、僕と会ったときに僕を解剖させてほしいって言うはずだから」
そ、んことは流石に言わないけどちょっとだけ中を見せてほしいとは思っている。
「僕は君に、自身に不利となる情報を開示せず無理やり押し通した。こんなのは、詐欺と一緒だ。僕は、誰よりも大切な君を騙し、君との関係性を確立させた」
それでも。
「君は僕を殺すべきだ。僕は王宮魔術師共が弄繰り回して作り上げた歪な存在で、戸籍さえも弄っている。魔物のみならず、動植物に鉱石まで、ありとあらゆる要素を詰め込めるだけ詰め込んで弄り回されてなお、人の見た目で稼働している化け物だ。ミント、僕は化け物だよ。それなのに君が好きで、そんな君を巻き込みたくて必死な化け物だ。上官は僕を化け物じゃないと言ったけれど、それなら魔具だ。だって僕の中には、君達が最古の魔石と呼ぶ物が入っているんだから」
それでも。
「僕の心蔵は君達と同じじゃない。君達と同じ臓器はとうの昔に圧し潰され、僕を稼働させているのは臨時で押し込まれた魔石に過ぎない。さっき君も見ただろう。培養装置で作られた物の核は使い捨ての魔石だ。僕のも、大きな魔力を秘めているに過ぎないだけで、根本的にはあれと同じだ」
それでも。
「ミント、君は好奇心旺盛で、魔術にも魔具にも長けた優秀な魔術師だ」
無意識に握りしめていた杖が、気が付けば体の横でだらりとぶら下がっていた。体の力が入らない。杖を手放さなかったのは、これもまた無意識だった。
魔術師になってから、どんな時も最終的に縋ってきたはこの杖と。
アンの手紙だった。
「ミント、君が……君が僕の制作者ならよかったのに」
あれだけまっすぐに私を見ていた人が、項垂れ、私を見ようとしない。顔も上げず、あちこちに様々な色を秘めた髪で、その表情を隠してしまっている。
「あなたが魔具だというのなら、私が整備してあげる。魔具の整備なら得意分野だよ」
だって二課だもん。
その頬に触れた手から伝わる感触は、ただひたすら温かくて。
「でも、あなたは人だよ。だって、人と思い出を共有できる人型の生き物を、人は人間として認識してきたんだから」
私の拒絶を恐れ、震えるその肩を人と呼ばずしてどうするのだ。
「それでね。あなたが人だというのなら」
杖をしまい、今度は両手でその頬を挟み込む。そのまま顔を上げさせようとするも、わずかな抵抗にあった。それを無理やり押し上げたから、アンの頬はむにりと動く。
唇の隙間から、八重歯にしては少々立派な歯が見える。これは何の要素でこうなった歯だろう。でも可愛い。噛みつかれたら痛そうだけど、アンはそんなことしない。
「ねえ、アン」
この人の全ては、私を傷つけるためにあるわけじゃない。それはアンへの信頼だけではない。お父さんは、私を傷つける存在と私を引き合わせたりしない。
「私と家族やろうよ」
誰に理解されずともいい。けれどアンとの手紙の中には、私の孤独が詰まっていた。
「私ね、アンの話を聞いたとき、アンがお父さんと出会ってくれてよかったって思ったんだよ」
さっきの私のように、体の横にだらりと垂れ下がっていたアンの腕から、正体不明の赤い液体で染まった剣が、音を立てて滑り落ちる。
「アンがお父さんに会ってくれたから、私はアンと会えた。それだけあれば……どんな情報が付属していてもそこまで重要じゃないなって……軍人としてはまずいんだけどね」
「……僕、ミントと帰りたいんだ」
ゆっくりと持ち上げられた腕が、そっと私の背に触れる。一度触れ、脅えたように離れていくから、思わず笑ってしまう。それならばと私からその背に腕を回して強く抱きしめると、アンは驚いた勢いで私を抱きしめてくれた。
そうして一呼吸置いた後、今度は強く抱きしめ直された。
私の首筋に頭をうずめ、掻き抱くように力を籠めるもんだから、私の足はちょっと浮いた。
アンの怪力はそういった事情からだったのか。これは説明できない。
つまり、これからずっとクレスを躱し続けていく必要があるというわけで。はっきり言って、昨夜の襲撃などよりもっとずっと大変だ。
大変だなぁと思うけれど、うんざりだとは思わない。だって二課は、必要とあらば何千回何毎回同じ手段を取れる人種だ。そして幸いにも、私は二課なのである。
「いつだって、どこだっていい。ただ、ミントと同じ場所に帰りたい。ずっと……それが夢だった」
「帰ろうよ。アンがそう思ってくれるなら、私達はいつだって同じ場所に帰れるんだよ」
抱きしめる体は、思っていたより厚みがあった。けれどお父さんより小さいし、お父さんより薄いし、お父さんより体温が低い。だから抱き着きやすいし、なんだか収まりがいい。
「何にもいらなかったのに……初めは、ミントからの手紙も、上官命令だからで」
「あ、それは分かってた」
「……ミントの手紙はいつも難しくて」
「え!? そうだった!?」
「何言ってるのかよく分からなかった」
大問題である。
「だから、分かるように勉強した。分からないところは上官に聞いた。上官はいつも疎ましがらずに教えてくれた。嘘も含めて」
「お父さんっ!」
「……けどいつからか、手紙が届くと嬉しくて、待ち遠しかった。あれが楽しみにするという感情だって、上官が教えてくれた。戦火が激しくなったら、君からの手紙が恋しかった。けれど、あんな場所に君の欠片が届くことは申し訳なくて、それが僕のせいだと思うと嫌だった」
私だけが安全な場所にいると思っていた。私は私の大切な人達を戦わせて、自分の安全を確保しているように思えて苦しかった。
けれどこの人は、私の欠片と言ってくれた。アンに届けたかった私の言葉を、そう言ってくれたのだ。
「君からの手紙が何より大切で、それさえあればよかったのに……いつからか手紙じゃ足りなくなった…………ごめん、ミント。僕はぐちゃぐちゃな僕の人生に、君が巻き込まれて嬉しかったんだ」
「それは私も嬉しい。だって私、あなたを知らないで生きていきたくなかったの」
そう思える相手と人生を歩む約束が結婚という形に収まるのであれば、たとえ変則的であろうと正しい選択なのではないだろうか。
抱きしめてくれる体は、お父さんとは全く違うけれど、どこか眠たくなってくる温度だ。
でも何だろう。お父さんと違って落ち着く匂いがする。お父さんにも昔はそう感じていたけれど、今はなんか臭い。
あと、お父さんと違って何だかどきどきする。眠たくなるし、ずっとこうしていたいし、今すぐ離してほしいし。私の感情は、アンと出会ってからずっと忙しない。
嬉しくてうれしくて。寂しくてさびしくて。悲しくてかなしくて。
泣きたくてわらいたくて、叫びたくてうたいたくて。
私の戸惑いと惨めさを詰め込むとアンになる。
私の寂しさと虚しさを詰め込むとアンになる。私の愚かさと無力さを詰め込むとアンになる。それら全てから私を支えてくれた手紙が、アンになる。
「私に手紙をくれたアンなら、どんなアンもただのアンだよ。私にとってその事実だけあれば、後はいいよ。でも……その体をいろいろ調べさせてほしいとは、思う……いやほらもし怪我とか病気とかしたとき医務課行くわけにはいかないんじゃないかって思うしそうなってから対処しても間に合わなかったら絶対嫌だから事前に調べて用意しておきたいなって思っただけで嘘です嘘じゃないけど二割は好奇心ですすみません正直言うと三割くらいは好奇心です本当にすみません」
「ミントって変な人だよね」
「ぐっ! 自覚があるだけに反論できない!」
アンにだけは言われたくない気持ちと、私が格段に変な自覚がある。
「ちなみに、身体的特徴を教えてくれなかったのは、言いたくなかったから?」
「意図的に隠していたのは身体的構造だけだよ。あとは必要な情報だと思わなかった」
「アンらしくていいと思います。そういえば、アンの戸籍を隠す片棒を担がされるために、外でひたすら待たされていた司祭様はとんだとばっちりだね」
「そうだね」
「でもさ、それで誤魔化せるのは、王宮魔術師も真っ青なまずさっぷりだと思う」
王宮魔術師は、もはや隠す気もなくなっていた。一昔前ならば、最低限の偽装工作くらいはしていたはずなのに、様々な問題点が明るみに出るたびなあなあで許されてきた事実が積み重なり、もはや法律違反どころか殺人まで隠さなくなっていた。
それでも、また王宮魔術師かで許されてきたから、行きつくところまで来てしまったのがこの国だ。
そんな凄まじく雑な王宮魔術師の罪状隠しを笑えないほど、力業で簡単な誤魔化し方だ。何せ、戸籍総ざらいの際に、婚姻による戸籍書き換えで持ち出してましたなんて、笑われても仕様がない。
「大規模な調査の場合、物理的で単純な手法のほうが疑わりにくいって上官が」
「お父さんが正論言うと腹立つの、何でだろう」
確かに、大規模になればなるほど現場は大わらわになるものだ。そんな時、突発的な事例に対する対応を人伝に頼んでいれば、何だかんだと有耶無耶になっていくのは世の常だ。
言いました。伝えました。後で言っておきます。ばたばたしている時こそ、口約束が罷り通ってしまう。現場の人間は、事情も分からず上に振り回される。目の前の命令をこなすだけで手一杯で、何のためにその行動があるのかを忘れてしまう。それを忘れさせてしまった時点で、差配失敗だ。
そして、そんなおざなりであり最も有効な手段を選んでしまう辺り、お父さんはアンの戸籍作成時にそれなりの無茶をした可能性が高い。
「僕はレギネの弟だから、見つかると面倒だからね」
「その情報を最後に持ってくるの、最高にアンだなって思います!」
その生い立ちから含めた全て、自分がどうでもいいと思っている範囲も含めた洗いざらいを、今すぐ吐けぇ!




