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17.はじめまして いかく





 36番は、いつも通り魔術強化を施したガラスの中にいた。

 その体は透明な粘土の高い液体のような性質で、ぷるぷるしている。移動は這ってが多い。大きさはラクーシャの掌に収まるほど。臭いなし。思考は不明だが嗜好はあり。全ての器官発見なし。

 透明なその液体のみで身の内まで満たす小さな魔物は、それでも研究員の動きや音に反応していることから、類似の器官が存在しているか、魔術による補正があるのか、だ。

 餌はあるだけ食べるが、食後も体重が一切変化なし。調査結果では、食べた分をそのまま魔力に変換していた。食前と食後では、与えた餌の量によって魔力量が目に見えて違ったのだ。

 与えれば与えるだけ魔力を蓄える能力は脅威であるが、その傍から消費しているのでそこまで心配はない。常に五感を魔術によって補っているのであれば、その消費量も頷ける。


 いつもは枝の下でじっとしているが、最近は人間にも好みが出てきた。好んでいる人の前では枝下からいそいそと出てくるのに、興味がない場合は動かず、苦手だと奥へと潜っていく。

 二課全員で36番の前に謁見を願い出た結果、傾向としては日頃から世話をしている人には比較的好印象を抱いているようだ。付き合いが少ない隊員であっても、口調が穏やか、動作が丁寧な人間の前では活動時間が増える傾向にある。しかしこの辺りは、自らを脅かす危険性が少ない存在として、動物全般が判断を下す挙動でもあるので、嗜好と断定することはできない。

 それでも普段から関わり深い隊員が顔を出せば、寄ってきた後に寛ぎ始める。活動量も増え、遊んでいると思わしき動作も行うので、やはり何らかの方法でこちらを認識しているのだ。

 それが視覚的情報か嗅覚か、または聴覚か魔力の形か。それらの判断はまだついていない。

 何あれ、懐かれると嬉しい。私とラクーシャは関わる機会が多いこともあり、懐かれ組に入っている。だから36番の行動の多くを把握しているが、今は見たことのない行動を取っていた。


 弾力のある体を目いっぱい揺らし、勢いをつけて側面に張りついたかと思えば、べしゃりと落ちると体を細く長く変形させ、小刻みに揺れる。かと思えば風船のように体を膨らませ、色を変えた。


「すげぇ! 透明以外になったの初めてじゃないかなあミント見たかミント見てほら見て!」

「見てます見てます、ラクーシャが引っ張ってずり落ちそうなズボンを必死に抑えて見てます」


 確かに、初めて見た。体を大きく見せ、色を変え、挙動を派手にする。生き物全般としては威嚇に近い行動だ。尚且つ飛びかかっていることを考えると、威嚇を通り越して攻撃行動だ。


「見慣れない奴がいるから警戒してるのか?」

「どうでしょう……二課全員と顔合わせした時も、こんな行動はとりませんでしたし……」


 慣れ不慣れの問題でないのなら、別の原因があるはずだ。


「我々が人殺しだからだ」


 ぽそぽそと、ムカジーユが言った。しかしそれは彼特有の小声であって、言葉を躊躇っているからではない。躊躇いのないはっきりとした瞳で、彼はそう言い切った。


「殺気のない空間に馴染みがなく、殺気を完全に消しきれない。生き物にとっては外敵そのものだ」


 アンも否定しない。そして彼らはまさしく戦場帰りだ。ムカジーユは自らを人殺しと言った。その言葉は正しいのだろう。だが国のための大義がそこにある以上、それは国民全てで追うべき咎だ。

 国を守るための行いを罪とするならば、その国が守られねば弱り果てる人間、つまりはこの国に生きるすべての人間が対象だ。

 そう、言葉にするのは簡単だった。

 だが戦場を日常とした人々に、戦場を知らぬ私からの言葉など烏滸がましい。言葉など何とでも言えるが、それを口にすることは許されるのだろうか。彼らの犠牲を恩恵とし、平和を享受し、真っ当とされる人生を築いた私が。どの口で。


「ばっかだなぁ。ムーム」


 未だ奇妙な動きを繰り出す36番に釘付けのラクーシャは、ムカジーユを振り向きもしない。


「他の被検体達は全然反応してないから、その仮説は外れだって見れば分かるじゃん。仮説だからこそ、広い視野を持ってたてるんだよ。最初の間口が狭かったら、後々の研究にも支障を来して、閃くものも閃けなきゃなっちゃうんだぞ。まったく、これだから凡人はダメなんだ」


 ぱこんと頭を叩けば、ラクーシャは両手で頭を押さえ、不満いっぱいの顔を私へ向けた。


「何で! 仮説の立て方はミント達が言ったんだぞ!」

「前半は覚えていてくれて嬉しかったですが、最後に他者軽視が見られたので、百点満点中三点」

「は、はぁー!?」


 ラクーシャは顔をまん丸にしてむくれた。そのままどすどすと私のお腹に頭突きを繰り返す。


「ミントのばーか! 行くぞ、ムーム!」

「あ、36番に変化ありって、オジナに伝えといてくださいねー」

「ばぁーかっ!」


 地団太の勢いそのままに歩き出したラクーシャへ、体の向きを変えたムカジーユに頭を下げる。


「すみません。監督不行き届きで失礼を申しました」

「いや。微笑ましく、可愛らしい」


 ムカジーユは、小さな歩幅いっぱいでずんずん歩く背中を眩し気に見つめた。


「あれが、我々が戦場で生きた結果ならば、そう悪くないと思える」


 気のいい人でよかった。ラクーシャは万事あの調子なので、いらつく人には向いていないのだ。大人の中で生きる子どもの強がりを、微笑ましく見つめてくれる人でよかった。


「あの、重ねて失礼を申し上げますが、喉の調子に変化がおありでは?」


 ムカジーユの声は先程から掠れることなく、心なしか声量も上がっている。


「オジナ殿が飴を。とても、効く」

「ああ、それは何より。彼は薬学にも長けていて、色々と症状に合わせて調合してくれるのです」

「成程……継続して飴の購入は可能だろうか」

「大丈夫だとは思いますが、一応本人にもお尋ねください」


 きっと喜んで提供してくれるだろう。今の飴は彼仕様ではないので、改良を重ねるため診療と質問責めになるかもしれないが、その辺りの折り合いは本人達でつけてほしい。


「了解した。そして私へは、ラクーシャ軍曹へのように、砕けた話し方で構わない」

「そう申されましても、父の隊の皆様に、失礼は致しかねます」


 どこをどう切り取っても、砕けられる気がしない。だって、父が命を預かり、預ける人達なのだ。

 弱っていると、顔に出ていたのだろう。ムカジーユが小さく微笑んだ。


「なればこそ、君は身内のようなものだろう」

「……ありがとう、ございます」


 そう言われると、断れない。この人、声が小さかっただけで、お喋りが不得手はわけでは決してないようだ。そしてアンは一切喋らない。不得手はこっちか。


「ムーム! 早く!」


 痺れを切らしたラクーシャが吠える。


「では、失礼する」

「ラクーシャをよろしくお願いします。いい子ではあるんです」


 子どもらしい無謀さと好奇心、子どもらしからぬ知識と実力が折り重なった無礼さゆえ繰り出す失礼があるだけで……。

 大変、申し訳ない。

 だが、どうしたって同世代には交ざれなかった子を、どうか大人まで煙たがらないでほしいと親御さんは願い、二課へ託してくれた。

 才はどちらに傾こうと、残酷なまでに人を分ける。断裂は弾劾を呼び、訣別は裁きを呼ぶ。子どもの幼さがため犠牲になれとは言わないが、せめて許しの幅を大きく持ちたいと二課は思っている。


「問題ない。あの子はあのまま健やかに育ってほしい」


 ムカジーユは気にした風もなくラクーシャと合流し、去っていった。ラクーシャの失礼を気にしていない様子にほっとはしたが、あのまま育たれると二課は困る。

 改めて36番を見れば、大きく膨らませた体を、まるで毒ガエルのような色に変えていた。


「36番、どうしたの? あなたが喋れたらいいのにねぇ」


 魔術を使ってその頭、頭かどうかは分からないがとにかくその天辺を撫でる。


「縄張り侵入に対する威嚇行動と番判定したミントに雄個体が接近していることへの排除行動だ」

「どこをどう見てそう判断したか教えてもらっていい!?」


 一瞬で判断を下したアンに抱く感情は、疑問と尊敬と悔しさである。それにしても。


「番判定!? 36番、私のこと番判定してたの!?」

「うん」

「あらぁ……」


 どの行動からそう判断したのかは後で教えてもらうとして、何とも言えない切なさを優先しよう。


「駄目だよ、36番。ちゃんと同種族に恋をしないと」


 飼育していると、こういうことは多々ある。ここに同種続がいないこともきっと大きいのだろう。


「それにごめんね。私結婚してるの」


 36番の同族は、未だ発見されていない。36番を捕獲した森にも行ったけれど、生き物の姿すら見つけられなかった。それなのに同種族に恋をしろとは、惨いことを言っているとは思う。


「それでどうしてそっちが落ち込むのか教えてもらっていい!?」


 切なさと申し訳なさを感じつつ、アンに教えを乞おうと振り向けば悲しげな顔があった。


「け、結婚!? 私と結婚の部分!?」


 これは由々しき事態だ。事情は全く分からないが、親友が酷く悲しんでいるのだ。


「ミントは、同族と結婚したい?」

「人間以外で結婚の制度を採用してる種族ってどれ!?」


 番という概念は存在すれど、法に絡めた結婚という制度を採用しているのは人間だけだ。私も人間の枠組みに存在している以上、結婚という誓約を交わせる相手は人間だけだと思っている。


「……ごめん」

「何が!?」


 私の夫、何に落ち込み何を悩んでいるのか見当もつかないし、それに触れていいかも分からない。


「とりあえず、今度その肌とか牙とか見せてもらってもいい!?」


 よって、別部門に触れることにする。こっちはこっちで気になる。気になりすぎる。


「嫌じゃなかったら触ってみたりとかしても……い、嫌かな!? はっ、これって変態!?」

「…………ミントの好奇心に賭ける」

「何を!?」

「それまで待って」

「何を!?」


 結局アンは何も教えてくれなかった。

 無理やり聞き出す必要もないので、アンが話したくなるまで保留にしておこう。ロニとディア相手のほうが、思い切って聞けてしまうだろう。友達との距離感は二人が教えてくれた。けれど家族との距離の詰め方を、私はまだ学べていない。








 ふと瞳の渇きを自覚すれば、途端に疲労がやってきた。肩と首を縮こまらせていた作業を中断し、顔を上げる。これが正常な位置なので、悲鳴を上げる両者には正しき姿勢を思い出してほしい。

 突き出した腕を思いっきり伸ばし、しょぼしょぼと霞む視線で状況の把握に努める。

 雑多に積みあがった物と、適当に詰め込まれた物に、それらが飽和して久しい樹海状態の部屋。

 私の前に広がるのは、とりあえず放り込んでおけと適当に重ねてきた結果、どこに何があるのか誰も把握していない開かずの倉庫の如き、二課室である。

 個々の研究室もあるにはあるが、正体不明物を調査する場合はこの部屋で行う。異変が生じた際、周囲が気づきやすいからだ。

 そのため、どうしようもない事態が起これば二課は全滅である。

 全員救われるか全滅するか、両極端しかないのも二課らしいと言えば二課らしい。諦めが猛烈に悪く、一度区切りをつければ一切悩まないのが二課である。


 私以外は皆難しい顔をしながら眠っているが、その周りには魔術防壁が存在している。

 この魔術障壁は戦闘時に使用されるものとは異なり、少し特殊だ。外から破りやすくなっているのである。障壁を張った本人に何かがあった場合、外から救助できるようになっている。

 何せこの魔術障壁、当人が意識を失ったとて解除されない。そうでなければ、毒性のある気化物が発生した場合、あっという間に二課全滅の事態となるからだ。

 この魔術障壁が開発されるに至った過程は、大体想像がつくと思われる。まあ、色々あったのだ。

 合って、在って、遭った。

 やらかしてきた歴史が今の二課を形作ったといっても過言ではない。






 何となく見上げた時計の針は、深夜の三時を示していた。部屋の中には、寝息や歯ぎしり、魔具により自動で動く機器など、様々な音が鳴っている。

 背靠れに体重を預け、作業開始時に入れた覚えのある水を啜りながら、分析結果を改めて眺める。

 雑に記載してきた文字群を、魔力を介し整えながら宙に映し出す。羅列しているだけだった情報を纏めて眺めると、ふと閃きが起こる場合があるので、今回もその恩恵にあずかりたいものだ。

 遺跡から回収してきた書類はどれも暗号化されていて、解読には時間を要する。よってクレスが暗号の解読、私がそれ以外の分析に取り掛かった。私達の映像記録はゼノンが担当している。どんな映像が保存されているか、私達でさえ分からない。情報共有の判断はゼノン案件となる。

 その過程で、壁に刻まれた古代語の解読も請け負ってくれてありがたい。しかし古代語に精通しているゼノンであっても、遺跡の壁に刻まれていた文字列は初めて見たと言っていたので、こちらも解読には時間がかかるだろう。

 今までとは文法が異なり、これは一朝一夕では終わらない。そもそも解読や分析は、時間がかかる。

 早くても間違っては何の意味もないどころか、間違った解釈が後世での基準となってしまえば、害悪なんて言葉では収まらないほどの大罪だ。解明されるはずだった謎が、謎のまま解決の術を失い途切れてしまうなんてことになれば、この首掻ききる前に自責の念で爆散するだろう。


 分析以外の二課は、通常業務と終戦に伴い発生した業務の山に埋もれての残業なので、今回は遺跡任務に救われた。古代文明調査と通常業務及び臨時業務を天秤にかけたら、誰だって前者を選ぶ。

 仲間の死を無駄にしない為にも、楽しく正確に作業し、結果を出したいものだ。

 だが、現実はそう甘くない。何一つ分からぬまま、分析結果を眺め続ける未来のほうが現実的だ。

 宙に浮かべた文字列を見つめ、瞳だけを動かしていく。遺跡からの回収物のほとんどは近代製だ。硝子片の裏に焼きついていた培養液の成分は十数年前物で、古代に比べれば昨日のようなものだ。

 成分を見るに、一般的に生き物を培養する際に使用する物と酷似している。成分比率が現代の物とは多少異なるが、当時では一般的な配合比率だ。

 しかし現代においても、生き物の培養は小動物程度の実験資料しか存在せず、あの規模の生き物を培養した前例はない。ゆえにこそ、この実験は発見の報なき古代遺跡で行われていたのだ。

 これが、レギネ殿下が言っていた王宮魔術師の罪か。あれだけの規模で生き物の培養を繰り返していたとなると、彼が化け物と呼んだ実験が成功していてもおかしくない。


 小さくしてペン代わりに使っている杖で、書きなぐったメモの上をかんかんとつつく。巨大な培養装置の硝子片からは、今のところこれといった発見はなかった。だが、問題はもう一つだ。

 巨大な培養装置と並んでいた小型の培養装置。それらからも硝子片を回収したのだが、こっちは何らかの体毛が採取できた。嬉々として分析した結果を、どこかで見たような気がするのだ。


「……どこだったかな」


 どこかで見たような成分羅列だ。

 硝子瓶に入れている一本の毛を、眺め透かし、様々な角度から眺める。保存状態が悪く、元々の色を断定できなかったが、かなり薄い色だった可能性が高い。

 鈍足に回る思考に疲れた私は机に突っ伏すも、諦めきれず顔の前に硝子瓶を置き、再び見つめる。

 この持ち主は、歴史上に生物として認識された生き物なのだろうか。親は、子は。親ならば雄雌が存在するのか。だが巨大な装置は一つだけだった。番を作らず、全て培養装置で賄おうとしたのか。一体しか作る気がなかったのか。それとも作れなかったのか。

 そもそもあの装置全てで生き物を作っていたとは限らない。植物や何らかの部品であった可能性も十分あり、結論は出しかねる。

 深く長い息を吐きだす。もっと様々な可能性を模索し、資料回収を試みたかった。

 煮えたぎりそうな怒りをできる限り思考から排除していたけれど、こうして息詰まると湧き出てしまう。これはよくない兆候なので、無理やりでも思考を他所へと流してしまうよう心掛けている。

 怒りはいくらだって気力体力を費やせてしまうけれど、特に身になる結果は生まず、消費するのみだ。消費されるのは、己の正常。正常を支払い、異常に変換する。さらに冷静な判断力を欠き、狭い視野により誤った結論へ流れやすくなり、結果が伴わない疲労でさらなる怒りを蓄積させる。

 はっきり言って、割に合わない。

 多少の怒りであれば異常へ変換される前に正常へ戻せるけれど、異常変換が癖づいてしまえば、小さな怒りであっても正常が枯渇する事態に陥る。

 考えることは山ほどあって、怒っている暇などない。そもそもこの分析以外にも仕事は山積みな上に、私生活が大変なことになっている。先日までの日常と同じ個所が一つもないのだ。


 これから毎日、お父さんが家にいる。

 そんな生活を経験したことがないので、なんだか不思議な気持ちだ。家に家族がいるという環境に慣れる日は来るのだろうか。この戸惑いを親友に相談したいけれど、その親友が悩みの主原料である。アンに関する相談相手がアンしかない。どうしよう。


「…………顔でも洗ってこよ」


 思考量だけでなく、感情まで手一杯だ。煮詰まった頭で考えてもろくな案は出てこない。

 のそのそと立ち上がり、自分の格好を見下ろす。許容範囲内のよれよれ具合だ。どうせ外に出たとしてもここは二課。特に夜ともなれば、同僚以外と会う可能性は限りなく低い。

 同僚以外と邂逅した場合、緊急事態か侵入者である。


 



 廊下は真っ暗で、欠伸をしながら首を傾げる。公共管理の施設や名の知れた建物内には、魔具による明かりが完備されている。

 定期的に魔力を補充すれば、半永久的に使える魔具だ。

 開発したのは二課なので、当然完備されている。夜に活動する人間も多いので、一晩中明るいのは助かる。

 しかし魔力の補充が当番制なばっかりに、当番の記憶や意識や関節がすっぽ抜けていたりする事態も多々あり、二課の明かりはよく消えた。なかなかに刹那的な半永久である。

 みな明日は我が身だと気づいた人間が補充する日々が常となり、良くも悪くも改善は見られない。

 特に今は変則的な業務が多く、当番がすっぽ抜けても仕様がないだろうと、私が補充していく。

 そのついでに実験中の苗木でも見てこようと思い立ち、進行方向を中庭へと変更する。魔力を混ぜ込んだ水で育てた植物の変質を研究中なのだ。

 普段ならば夜でも相当数の同僚が作業と絶望で何かと騒がしいのだが、今日はやけに静かだ。

 世界に一人きりのような夜は、ずいぶん久しぶりで。なんだか昔を思い出す。私には感じる資格のない理不尽な寂しさを、分不相応にも抱いていた幼いあの頃過ごしていた夜に、少し似ている。

 気分が暗いと、視界まで暗くなってしまう。灯りから外れた場所は、インクでもぶちまけたかのように真っ黒だ。真夜中色とはもっと、白みがかった藍色が近いはずなのに。

 それに、魔力の補充を怠ったとしても、ここまで一斉に切れるものだろうか。


「…………まあ、昨日の今日だしね」


 警戒は、しておいて損はない。

 これまでにも襲撃や数えきれない侵入者事件が発生しているのだ。私達はこれだが、二課には間違いなく歴史に残る魔具や魔術式が大量に存在する。研究資料一つとっても、価値を理解している者へと売りつければ、十年は遊んで暮らせるだろう。

 軍部の中でも群を抜いて侵入者に警戒している施設の一つが二課だ。いくら二課であろうと、そこは気をつけている。何せ一度強奪を許せば、私達の研究予算が警護予算に回されてしまうのだ。

 これまでにつけてきた灯りを魔術で消し、進路を変更する。一本ずらした廊下を通り、中庭を大幅に迂回していく。植物と土の気配を濃厚に纏った風が静かに漂っている。

 二課には畑も温室も川も湖も疑似海もあるので、それなりに自然豊かなのだ。紙とインクの匂いも好きだけれど、水や植物はそれらとは違った安定をもたらす匂いをしている。

 守秘義務品が多く、自由な出入りができず客用施設で泊っているアン達へ連絡すべきか否か。

 結論が出る前に、中庭との境界に設置されている掲示板に辿り着く。闇に慣れた瞳で当番表を見て、頷く。

 そこには、二課にしては珍しく、一度たりとも当番を忘れたことのない隊員の名が書かれていた。








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― 新着の感想 ―
アンの孤独が癒やされますように。勝手に生み出された彼が可哀想すぎるわ。
ああ……。 もしかして、とは思っていましたが。
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