シンプルなはずだった。でも、そうじゃなかった
その日の午後は、穏やかだった。
……穏やかすぎるくらいに。
本来なら、安心できるはずの静けさ。
でも、どこかで届いていない。
…
アイリンはキャンパスのカフェの外、小さなテーブルでイーサンと向かい合って座っていた。
やわらかい風がノートのページを揺らし、書きかけの一文をめくっていく。
イーサンは話している。
授業のこと。
教授のこと。
どうして簡単なことを、あんなに複雑にするのかという話。
アイリンはタイミングよくうなずき、
必要なときに微笑み、
ちゃんと返事もしていた。
全部……うまくいっていた。
それなのに。
何かが、足りなかった。
...
心の中で、オスクリタは静かに見ていた。
それ自体が、珍しい。
コメントもない。
皮肉もない。
いつもの警告もない。
ただ——観察しているだけ。
アイリンはそれに気づいた。
「……珍しいね」
小さくつぶやく。
「何が?」
イーサンが聞く。
「ううん、なんでもない」
…
彼女は彼を見る。
ちゃんと。
しっかりと。
…
優しい人だった。
何も求めない優しさ。
押しつけない優しさ。
期待しない優しさ。
一緒にいると、楽だった。
軽くて、
安全で、
安心できる。
——本当は、それで十分なはずだった。
...
イーサンは少しだけ話すのを止めて、彼女の表情を見た。
「無理して聞いてなくてもいいよ」
やさしく言う。
アイリンは瞬きをする。
「ちゃんと聞いてるよ」
彼は少し笑った。
「……いや、そんな感じじゃない」
責める声じゃない。
ただ、分かっているというだけ。
それが、逆に隠しにくかった。
...
心の中で、オスクリタが首をかしげる。
「面白いわね……」
少し近づく。
「緊張してない」
アイリンはわずかに眉をひそめた。
「それってどういう意味?」
オスクリタはゆっくり歩く。
「何を考えてるか、気にしてない」
「間違えることも怖がってない」
少し間を置いて——
「……失うことも、怖がってない」
…
アイリンは視線を落とした。
胸の中が……静かだった。
静かすぎるくらいに。
...
「それって、いいことじゃない?」
小さくつぶやく。
オスクリタは否定しない。
「そうよ」
腕を組む。
「でも——あなたが感じてるものじゃない」
…
アイリンはゆっくりノートを閉じた。
「たぶん、ちょっと疲れてるだけ」
イーサンはうなずく。
それ以上は聞かない。
「考えすぎてるんだね」
「うん……ちょっと」
「そういうときもあるよ」
少し間を置いて、
「全部すぐに分かろうとしなくてもいい」
…
アイリンはもう一度彼を見る。
そこにあるのは——
あの落ち着き。
揺れない感じ。
何も乱さない静けさ。
痛くならない安心感。
...
そして、ふと思った。
——それが、足りない。
…
欲しかったのは、安心じゃなかった。
その逆。
…
混乱。
緊張。
心が追いつかなくなる感覚。
一つの視線で、一日中引きずられるような——
ダイレン。
...
アイリンの指が、ペンを少し強く握る。
名前は口にしていない。
でも、そこにある。
まだ。
...
オスクリタはすぐに気づいた。
当然のように。
「……ああ」
その声は、いつもと違っていた。
皮肉でも、からかいでもない。
少しだけ、理解している声。
「一人は、あなたを安心させる」
イーサンを見る。
そして、視線を動かす。
「もう一人は、あなたを生きてるって感じさせる」
…
アイリンは息を飲む。
「それ、ずるいよ」
オスクリタは肩をすくめる。
「感情に公平さなんてないわ」
...
イーサンは椅子にもたれながら、彼女を見ていた。
「どこか行ってるね」
アイリンは少し迷ってから、うなずく。
「……うん」
彼はそれ以上聞かない。
無理に引き戻そうともしない。
直そうともしない。
それが——逆に、はっきりさせる。
...
心の中で、オスクリタがため息をつく。
「シンプルなはずだったのにね」
アイリンも、小さく息を吐く。
「そうだね」
「でも、違う」
「うん……違う」
...
しばらく、二人とも何も言わなかった。
周りでは、いつも通りのキャンパスの音が流れている。
声。足音。笑い声。
全部が普通で、簡単で、何も問題がないみたいに。
...
アイリンはノートを見下ろした。
書きかけの一文。
まだ終わっていない。
決まっていない。
...
オスクリタが少し近づく。
声を落として言う。
「あなたが選んでるのは、人じゃない」
アイリンは顔を上げない。
「じゃあ、何?」
オスクリタはやわらかく答える。
「どの痛みを理解するか、ってこと」
...
アイリンはノートを閉じた。
終わったわけじゃない。
解決したわけでもない。
ただ——止めただけ。
...
向かいで、イーサンが少し笑う。
「続き、やる?」
アイリンは彼を見る。
そして、うなずいた。
「うん」
...
でも、心の奥では分かっていた。
これは、何も終わっていない。
…




