表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/9

シンプルなはずだった。でも、そうじゃなかった

その日の午後は、穏やかだった。

……穏やかすぎるくらいに。

本来なら、安心できるはずの静けさ。

でも、どこかで届いていない。

アイリンはキャンパスのカフェの外、小さなテーブルでイーサンと向かい合って座っていた。

やわらかい風がノートのページを揺らし、書きかけの一文をめくっていく。

イーサンは話している。

授業のこと。

教授のこと。

どうして簡単なことを、あんなに複雑にするのかという話。

アイリンはタイミングよくうなずき、

必要なときに微笑み、

ちゃんと返事もしていた。

全部……うまくいっていた。

それなのに。

何かが、足りなかった。

...

心の中で、オスクリタは静かに見ていた。

それ自体が、珍しい。

コメントもない。

皮肉もない。

いつもの警告もない。

ただ——観察しているだけ。

アイリンはそれに気づいた。

「……珍しいね」

小さくつぶやく。

「何が?」

イーサンが聞く。

「ううん、なんでもない」

彼女は彼を見る。

ちゃんと。

しっかりと。

優しい人だった。

何も求めない優しさ。

押しつけない優しさ。

期待しない優しさ。

一緒にいると、楽だった。

軽くて、

安全で、

安心できる。

——本当は、それで十分なはずだった。

...

イーサンは少しだけ話すのを止めて、彼女の表情を見た。

「無理して聞いてなくてもいいよ」

やさしく言う。

アイリンは瞬きをする。

「ちゃんと聞いてるよ」

彼は少し笑った。

「……いや、そんな感じじゃない」

責める声じゃない。

ただ、分かっているというだけ。

それが、逆に隠しにくかった。

...

心の中で、オスクリタが首をかしげる。

「面白いわね……」

少し近づく。

「緊張してない」

アイリンはわずかに眉をひそめた。

「それってどういう意味?」

オスクリタはゆっくり歩く。

「何を考えてるか、気にしてない」

「間違えることも怖がってない」

少し間を置いて——

「……失うことも、怖がってない」

アイリンは視線を落とした。

胸の中が……静かだった。

静かすぎるくらいに。

...

「それって、いいことじゃない?」

小さくつぶやく。

オスクリタは否定しない。

「そうよ」

腕を組む。

「でも——あなたが感じてるものじゃない」

アイリンはゆっくりノートを閉じた。

「たぶん、ちょっと疲れてるだけ」

イーサンはうなずく。

それ以上は聞かない。

「考えすぎてるんだね」

「うん……ちょっと」

「そういうときもあるよ」

少し間を置いて、

「全部すぐに分かろうとしなくてもいい」

アイリンはもう一度彼を見る。

そこにあるのは——

あの落ち着き。

揺れない感じ。

何も乱さない静けさ。

痛くならない安心感。

...

そして、ふと思った。

——それが、足りない。

欲しかったのは、安心じゃなかった。

その逆。

混乱。

緊張。

心が追いつかなくなる感覚。

一つの視線で、一日中引きずられるような——

ダイレン。

...

アイリンの指が、ペンを少し強く握る。

名前は口にしていない。

でも、そこにある。

まだ。

...

オスクリタはすぐに気づいた。

当然のように。

「……ああ」

その声は、いつもと違っていた。

皮肉でも、からかいでもない。

少しだけ、理解している声。

「一人は、あなたを安心させる」

イーサンを見る。

そして、視線を動かす。

「もう一人は、あなたを生きてるって感じさせる」

アイリンは息を飲む。

「それ、ずるいよ」

オスクリタは肩をすくめる。

「感情に公平さなんてないわ」

...

イーサンは椅子にもたれながら、彼女を見ていた。

「どこか行ってるね」

アイリンは少し迷ってから、うなずく。

「……うん」

彼はそれ以上聞かない。

無理に引き戻そうともしない。

直そうともしない。

それが——逆に、はっきりさせる。

...

心の中で、オスクリタがため息をつく。

「シンプルなはずだったのにね」

アイリンも、小さく息を吐く。

「そうだね」

「でも、違う」

「うん……違う」

...

しばらく、二人とも何も言わなかった。

周りでは、いつも通りのキャンパスの音が流れている。

声。足音。笑い声。

全部が普通で、簡単で、何も問題がないみたいに。

...

アイリンはノートを見下ろした。

書きかけの一文。

まだ終わっていない。

決まっていない。

...

オスクリタが少し近づく。

声を落として言う。

「あなたが選んでるのは、人じゃない」

アイリンは顔を上げない。

「じゃあ、何?」

オスクリタはやわらかく答える。

「どの痛みを理解するか、ってこと」

...

アイリンはノートを閉じた。

終わったわけじゃない。

解決したわけでもない。

ただ——止めただけ。

...

向かいで、イーサンが少し笑う。

「続き、やる?」

アイリンは彼を見る。

そして、うなずいた。

「うん」

...

でも、心の奥では分かっていた。

これは、何も終わっていない。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ