二人の人間。これはもう、完全に問題。
その朝、キャンパスの空気は少し違って感じられた。
……いや、違っていたのは、たぶんアイリンのほうだった。
空気は軽くて、周りの音もどこか遠い。胸の奥の重さはまだ消えていないのに、前よりも静かで、ちゃんと扱える気がした。
完全に消えたわけじゃない。ただ……前ほど支配されていないだけ。
...
心の中で、オスクリタは珍しく静かだった。腕を組んで、まるで退屈した審査員みたいな顔で周囲を観察している。
「気に入らないわね……」
小さくつぶやく声に、アイリンは歩きながら返す。
「今度は何?」
「落ち着いてるでしょ」
オスクリタは目を細めた。
「それが一番怪しいのよ」
「落ち着いてちゃダメなの?」
「いいわよ……」
少し間を置いて、肩をすくめる。
「だからこそ危ないの」
...
中庭に着くと、イーサンはもうそこにいた。低いコンクリートの壁に座って、本を膝に乗せている。
顔を上げて、軽く笑う。
「やあ」
「やあ」
アイリンは彼の隣に腰を下ろした。距離は少しだけ空けている。でも遠くはない。近すぎもしない……ちょうどいい距離だった。
しばらく、何も話さなかった。
でも、それが不自然じゃない。風の音と、遠くの会話だけで、十分だった。
イーサンが本を閉じる。
「どう?分かった?」
「何が?」
「例の一文」
アイリンは少しだけ笑った。
「まだ……」
彼はうなずく。
「分かるまでの時間のほうが、書くより長いこともあるよ」
...
心の中で、オスクリタが身を乗り出す。
「……面白いわね」
じっと彼を観察する。
「安定した調子で話し続けるタイプ……これはちょっと問題かも」
アイリンは気づかないうちに、小さく息を吐いていた。
楽だった。
彼と話すと、演じなくていい。何かを証明する必要もない。
...
オスクリタはもちろん、それに気づく。
「あーあ……」
小さくため息をつく。
「思ってたより面倒な展開ね」
「何が?」
「居心地がいいのよ」
目を細める。
「それが始まりなの」
...
ダイレンは立ち止まるつもりはなかった。ただ中庭を通り過ぎるだけのはずだった。
……彼女を見るまでは。
木の下に座っているアイリン。
そして、その隣には別の男。
イーサンが少し身を乗り出して何かを言うと、アイリンが笑った。
あの笑顔。
作ったものじゃない、本当の笑い。
ダイレンの足が、ほんの少しだけ遅くなる。
胸の奥が、鋭く締まる。
...
「……あ」
オスクリタが止まる。
「これは新しいわね」
アイリンも気づいた。理由は分からないけど、視線を上げる。
ダイレンがこちらに歩いてきている。
胸が一気に重くなる。
「落ち着いて……」
オスクリタが低くささやく。
「ただの偶然か……感情崩壊イベントよ」
...
イーサンが先に気づき、自然に振り向く。
ダイレンが目の前で止まる。
一瞬、誰も何も言わない。
空気が重くなる。
「やあ」
ダイレンが言う。軽く……軽すぎるくらいに。
「……やあ」
アイリンの声は少しだけ硬い。
イーサンが小さくうなずく。
「イーサン」
「ダイレン」
短く握手を交わす。強すぎず、弱すぎず……測るような距離。
...
オスクリタがその周りをゆっくり回る。
「面白い……」
「一人は感情不安定」
視線が移る。
「もう一人は、妙に安定してる」
首をかしげる。
「最悪の組み合わせね」
...
ダイレンがアイリンの本を見る。
「勉強?」
「うん」
「一緒に?」
シンプルな質問。でも軽くない。
アイリンは感じる。その奥にあるものを。
イーサンは何も言わない。ただ静かに見ている。それが逆に、空気を重くする。
「うん……」
短い沈黙が落ちる。
...
「いいと思うよ」
ダイレンが言う。
「それに集中したほうがいい」
「それに?」
「自分に」
言葉は正しい。でも、どこか違う。
...
「じゃあ……練習あるから」
誰も止めない。
止められない。
彼は軽くうなずいて、そのまま去っていく。
...
アイリンはその背中を見つめた。
胸がまた締まる。
でも——前とは違う。
ダイレンは振り返らない。
...
「……これはもう完全に状況ね」
オスクリタがため息をつく。
アイリンは答えられない。
まだ、言葉にならない。
...
イーサンが本を持ち直す。
「大丈夫?」
「うん……」
やわらかい嘘。
...
オスクリタが近づく。
「面白いわね……」
「一人は、いなくなると痛い」
視線が動く。
「もう一人は、いると静かになる」
少し間。
「どっちが危ないか……分かってないでしょ」
...
アイリンはノートを見る。
書きかけの一文。
まだ終わっていない。
……
全部と同じみたいに。




