新しい人間、発見。ちょっと厄介かもしれない
図書館は、その日の午後、やけに静かだった。
高い窓から差し込む光が、空気中の埃を小さな星みたいに見せている。
ページをめくる音だけが、やわらかく響く。
…
アイリンは奥の席に座っていた。
本に囲まれているのに、ほとんど読めていない。
ペンはノートの上で止まっている。
同じ一文を、三回も書いていた。
…
どうしてこんなに、全部が難しく感じるんだろう。
…
その上に、オスクリタが寝転がっている。
「いいわね」
だるそうに言う。
「人間の典型的行動」
ノートを見下ろして、
「考えすぎ」
…
「考えすぎてない」
アイリンが小さく言う。
…
オスクリタは眉を上げる。
「へえ」
少し身を乗り出す。
「否認、検出」
…
ページを見る。
でも、集中できない。
どの行も、ダイレンの名前に見えてしまう。
…
沈黙の中に、言えなかったことが残っている。
…
オスクリタがため息をつく。
「恋愛による混乱はね」
少し講義みたいに言う。
「高確率で感情的カオスを引き起こすの」
…
「少し黙ってくれない?」
アイリンがささやく。
…
「無理」
伸びをする。
「それ、私の仕事だから」
…
そのとき、向かいの席で軽く咳払いが聞こえた。
…
「普通は」
静かな声。
「三回も書く前に消すけどね」
…
アイリンは顔を上げる。
柔らかい茶色の髪。落ち着いた目。
彼はノートを指していた。
…
「……ごめん」
小さく言う。
…
「謝らなくていいよ」
彼は少し笑う。
「面白いから」
…
オスクリタが、すっと起き上がる。
「……あら」
目が細くなる。
「新しい人間、検出」
ゆっくり観察する。
「しかも、分析タイプ」
…
彼は手を差し出す。
「イーサン」
…
「アイリンです」
…
彼はノートを見る。
「難しいこと考えてる?」
少し声を落とす。
…
「そんな感じ」
彼女が答える。
…
イーサンは少し体を引く。
自然に。
「複雑に考えてるときって、たぶん正直なときだよ」
…
オスクリタが彼の周りを回る。
「へえ」
首をかしげる。
「情緒が安定してる」
少し間。
「……怪しいわね」
…
アイリンは思わず笑いそうになる。
…
気づけば、一緒に勉強していた。
計画したわけじゃない。
ただ——どちらも動かなかった。
…
ページをめくる音。
ペンの音。
沈黙が、心地いい。
…
イーサンはあまり話さない。
でも、話すときはちゃんとしている。
押しつけない。
重くない。
ただ——落ち着いている。
…
ふと、彼が言う。
「自分が誰か、もう分かってるって思われる感じ、ある?」
…
アイリンはまばたきする。
「いつも」
小さく言う。
…
彼はうなずく。
「たぶん、みんなまだ途中だよ」
…
オスクリタが腕を組む。
「なるほど」
じっと見る。
「賢いか——」
少し表情が暗くなる。
「危険か」
…
「なんで危険?」
アイリンが小さく聞く。
…
オスクリタが近づく。
「落ち着いてる人間はね」
声を落とす。
「安心させるの」
…
少し間。
…
「安心って——一番危ない入り口よ」
…
その頃、体育館では——
ダイレンが練習を終えたところだった。
ボールの音と笑い声。いつもの風景。
……のはずだった。
…
アンドレアが何気なく言う。
「そういえば、アイリン、心理学の子と勉強してるよ」
…
動きが止まる。
「……誰?」
…
「イーサンって子」
…
ボールが手から落ちる。
一度、跳ねる。
もう一度。
そして、そのまま転がっていく。
…
その日の午後。
ダイレンは図書館の前を通る。
入るつもりはなかった。
ただ——見た。
ガラス越しに。
…
アイリンがいる。
誰かと向かい合って、笑っている。
…
作った笑いじゃない。
本当のやつ。
彼がよく知っている笑い。
…
胸が締まる。
鋭く、突然に。
…
図書館の中で、オスクリタが止まる。
「……あ」
視線が窓に向く。
「これは面白い」
…
「何?」
アイリンがささやく。
…
オスクリタが指す。
「元・感情トラブル」
…
振り向く。
ダイレン。
立っている。見ている。
…
時間が止まる。
静けさが重くなる。
…
そして彼は——
目をそらす。
そのまま歩き去る。
…
胸の奥で、何かがねじれる。
深く、避けられない形で。
…
オスクリタがゆっくり息を吐く。
「急展開ね」
…
「何が?」
アイリンが聞く。
…
オスクリタは少し笑う。
「感情の同時発生よ」
…
「どういう意味?」
アイリンが眉をひそめる。
…
オスクリタは顔を近づける。
「つまり——」
少しだけ声をやわらかくする。
…
「もう、彼を恋しく思うだけじゃない」
視線が動く。
「まだ始まってない何かも、失いたくないの」
…
イーサンがノートを閉じる。
「大丈夫?」
静かな声。
…
アイリンは笑う。
小さく。
「うん」
…
でもオスクリタは見ている。
両方を。
…
そして、ささやく。
「面白いわね」
ゆっくり笑う。
…
「一人は、あなたを壊した」
視線が移る。
「もう一人は、それを忘れさせるかもしれない」
…
少し間。
そして——
…
「ここからが、本当に厄介なのよ」




