正しいことの代償は、だいたい痛い
噂は、火がついたみたいに広がった。
アイリンが——
ダイレンを振った。
…
誰も彼の前では言わない。
でも、空気が変わった。
笑いはぎこちなくなり、
冗談は途中で消える。
あの場を明るくするはずの彼が——
見えない重さを抱えているみたいだった。
…
練習はしている。
でも、熱がない。
笑っている。
でも、心がついてこない。
その笑いはどこか空っぽで、
笑うこと自体が少し痛そうだった。
…
その空白に、ヴィヴィアンが入った。
やさしい影みたいに。
いつも近くにいて、
飲み物を差し出し、
甘い笑顔で寄り添う。
求められていなくても、そこにいる優しさ。
…
そしてダイレンは——
その空虚に疲れて、受け入れた。
…
ある日の午後。
ヴィヴィアンが話し続けている横で、
ダイレンの視線がふと逸れる。
…
バレーコート。
アイリンがいた。
アンドレアと笑っている。
光が髪に絡んでいる。
…
ヴィヴィアンも、その視線を追う。
そして——気づく。
笑顔が、ほんの少し崩れた。
すぐに取り繕う。
でも、遅かった。
…
小さく言い訳をして、その場を離れる。
誰にも見られないように、涙を拭きながら。
…
その頃、アイリンは——
少し軽くなっていた。
静かな軽さ。
…
自分の本音で選んだことが、
こんなにも心を落ち着かせるなんて。
…
勉強して、
練習して、
書いて、
呼吸する。
ちゃんと、自分でいられる。
…
「で?」
オスクリタが言う。
「もう寂しくないフリ?」
…
「フリじゃない」
アイリンは小さく答える。
…
オスクリタは首をかしげる。
「へえ」
少し目を細める。
「感情の否認、検出」
…
くすっと笑う。
「すごいわね。私まで騙されそうだった」
...
少し近づいて、ささやく。
「じゃあ、どうしてまだ名前を書いてるの?」
…
アイリンはノートを閉じた。
答えは出なかった。
…
休みが来た。
ダイレンは家族と旅行に出た。
距離が、心を整えてくれると信じて。
…
日々は過ぎていく。
笑い声。庭での追いかけっこ。
弟や妹との遊び。
…
「お兄ちゃん、遊ぼう!」
「これ見て!」
…
彼は笑う。
本当に。
その時間だけは、ただの兄に戻れた。
…
ある夜。
星空の下で、妹が聞いた。
「何か悲しいの?」
…
少しだけ、間。
「ちょっと疲れてるだけ」
…
そう言って、くすぐって笑わせる。
二人で笑う。
…
痛みは残っている。
でも——少しだけ、やわらいでいた。
…
アイリンは夜、バルコニーで書いていた。
風に向かって、思考をほどくように。
…
母が近づく。
「何を考えてるの?」
「別に。整理してるだけ」
「思考?それとも気持ち?」
…
アイリンはかすかに笑った。
…
あとで、彼女は一枚のページを破る。
ダイレンの名前が書かれたページ。
それを引き出しにしまう。
…
オスクリタが影から見ていた。
「手放したフリして、ちゃんと持ってるのね」
…
少し近づく。
「面白い戦略」
唇に薄い笑み。
「人間って、それを“自己欺瞞”って呼ぶのよ」
…
「どうして隠すの?気にしてないなら」
…
アイリンは静かに答えた。
「忘れたくないから」
少し間を置いて、
「でも、その中で生きたくもない」
…
オスクリタは、わずかに後ずさる。
「もう、私いらない?」
小さな声。
…
アイリンは首を振る。
「必要」
「でも——逃げるためじゃない」
…
その言葉に、影は少しだけ揺れた。
…
休みの終わり。
アンドレアが訪ねてくる。
ポーチに座り、溶けかけたアイスを持ちながら。
…
「大丈夫?」
「たぶん」
「それ、ダイレンも含めて?」
…
アイリンは視線を落とす。
「分からない」
「正しかったと思う」
少し間。
「でも、壊したかもしれない」
…
「怖いの?それとも後悔?」
「怖い」
彼女は認めた。
「もう、同じように見てくれないかもしれないのが」
…
胸の奥で、オスクリタがささやく。
「もし、もう見てなかったら?」
声はやわらかい。
…
「それとも——」
少しだけ間を置く。
「もう誰か見つけてたら?」
…
その言葉は、静かに深く刺さった。
…
新学期。
ダイレンは——変わっていた。
生き生きしている。
自信もある。
笑っている。
まるで、何もなかったみたいに。
…
アイリンはそれを見て、
胸の奥が少しねじれる。
嫉妬。
不安。
たぶん、その両方。
…
「ほらね」
オスクリタがささやく。
「無関心じゃない」
…
ゆっくり微笑む。
「あなた、彼を失ったんじゃない」
…
腕を組む。
「ただ——」
少しだけ間を置いて、
「世界に返しただけ」
…
アイリンは息を飲む。
「私、正しかったよね…?」
…
「もちろん」
オスクリタは静かに答える。
その声は、いつもより少しやわらかい。
…
「でも——」
少しだけ目を細める。
「それで痛くならないとは言ってない」
…
コートの向こうで。
ダイレンが誰かと笑っている。
…
そして——
もう彼女を探していない。
…
胸の奥が、きゅっと締まる。
静かに。
深く。
…
オスクリタはそれを見て、小さく息をついた。
「ようこそ」
肩をすくめる。
「選択の代償へ」
…
アイリンは何も言わなかった。
…
だって初めて——
正しいことをしたのに、
勝った気がしなかったから。
…
それは、勝利じゃなかった。
ただ——
静かに、何かを失っただけだった。




