80億人って、かなり大きな読者層だよ
翌朝、アイリンはまた原稿を開いた。
私はというと、昨夜からずっと自分の物語のタイトルを考えていた。でも、まだ納得できるものがない。
タイトルを決めるというのは、思っていたより難しい。
そのあいだに、アイリンはもっと重大な問題へ進んでいた。
出版だ。
自分の物語を公開できる場所を探し、説明を読み、いくつかのサイトを比べたあと、そのうちの一つにアカウントを作った。
私は少し離れたところから様子を見ていた。
「本当にやるの?」
「やるよ」
「私には編集権すらないのに、『私たち』でやってるみたいなのが興味深いね」
アイリンは笑って、必要な項目を入力していった。
タイトル。あらすじ。ジャンル。
もちろん、私は全部について意見があった。
どうやら、ひとつも求められていないらしい。
ところが、すべての準備が終わると、アイリンの手がマウスの上で止まった。
来た。
ようやく少し怖くなったらしい。
私は近づいた。
「まだページを閉じてもいいよ」
「わかってる」
「誰にもわからないし」
「うん」
「あと一か月くらい待って、もう一度読み直して、少し直して……重要な登場人物の描き方について再検討する時間も取れる」
アイリンが私を見た。
「重要な登場人物って、あなたのことでしょ」
「私は『重要な登場人物』と言っただけ」
アイリンは笑った。
でも、まだクリックしなかった。
少しのあいだ、私たちは黙って画面を見ていた。
やがてアイリンが言った。
「この世界には80億人近くいるんだから、その中の誰か一人くらい、私の物語を読んで勇気をもらってくれる人がいるはず」
私は彼女を見つめた。
「それが作戦?」
「なにが?」
「80億人」
「80億人近くね」
「数字の正確さをありがとう。つまり、80億人近くいる世界に小説を放り込んで、そのうちの一人が偶然見つけてくれることを期待するのが、あなたの出版戦略?」
アイリンは笑った。
「だいたい、そんな感じ」
心配になってきた。
「その80億人が、本や小説や動画やレシピや猫の写真や、ネットで知らない人と喧嘩してる人たちを、どれだけ見られると思ってるの?」
「知らない」
「私も知らない。でも、希望をなくすには十分な量だと思う」
アイリンはまた笑った。
でも、そのあと少し真剣な表情になった。
「80億人全員に読んでもらう必要はないよ、オスクリタ」
妙にまともなことを言い始めた。
「一人でいいの。誰か一人が読んで、昔の私みたいなアイリンを見て、自分と同じだって思ってくれたら」
私は黙って聞いた。
「その人が、自分自身とずっと闘っていたことに気づくかもしれない。自分は十分じゃないって何年も思い続ける前に、自分と向き合って、変わっていく勇気を持てるかもしれない」
危険なくらい真面目な話になってきた。
「今度は人類を救うつもり?」
「違うよ」
「よかった。そんな予算はないから」
アイリンは笑った。
「一人で十分」
私はすぐには答えなかった。
これまでのアイリンは、たった一人の意見に怯えることができた。
一つの批判。一度の拒絶。誰か一人に「十分じゃない」と思われるかもしれないという可能性。
それなのに今は、たった一人の誰かに自分の物語が届くかもしれないという理由で、そのすべてを受け入れようとしている。
非常に反論しにくい。
それでも私は努力した。
「最初に読んだ人が嫌いって言うかもしれないよ」
「うん」
「二人目も」
「うん」
「三人目なんて、ひどいコメントを残すかもしれない」
「たぶんね」
「それでもやるの?」
アイリンは公開ボタンを見た。
「やる」
そして、クリックした。
それだけだった。
ドラマチックな音楽もない。花火もない。海外の出版社から「おめでとうございます」と電話がかかってくることもない。
ただ、画面に物語が公開されたことが表示された。
アイリンはそれを見つめた。
私も見た。
「さて。残りは79億9999万9999人」
アイリンは声を上げて笑った。
…
何も起こらなかった。
十分経った。
二十分経った。
私はだんだん自信を取り戻してきた。
ところがアイリンは、平然とコーヒーを淹れ始めた。
「確認しなくていいの?」
「さっき見たよ」
「七分前だけど」
アイリンが私を見た。
「誰かが読むの、待ってるの?」
「まさか。資料を集めてるだけ」
アイリンはコーヒーを持ってソファに座った。
スマートフォンはテーブルの上に置いたまま。
私はそれを見張った。
調査のために。
そのとき、スマートフォンが震えた。
アイリンは手を伸ばし、通知を確認した。
誰かが読み始めていた。
コメントはない。
感想もない。
人生が変わりました、という宣言もない。
ただ、一人の読者。
アイリンは笑った。
「一人」
まずい。
その顔は知っている。
一度でも自分が正しかったとわかったら、しばらくこの話を聞かされることになる。
私は念のため釘を刺した。
「まだ喜ぶのは早いよ。その人のこと、何も知らないでしょ。間違ってクリックしただけかもしれない」
「かもね」
「最初の数行で読むのをやめるかもしれない」
「それもあるかも」
アイリンはまだ笑ったまま、コーヒーを手に取った。
「でも、誰かが見つけてくれた」
私は画面に表示された小さな数字を見た。
80億人近くいる世界で、たった一人。
統計的には、ほとんど何の意味もない。
でもアイリンにとっては、どうやらものすごく大きな意味がある。
そして何より困ったことに――
アイリンはもう、第2話を開いていた。




