どうやら読むものがまだ足りなかったらしい
数日後、アイリンは職場に戻った。
もちろん戻った。
どうやら多発性硬化症は、世の中に「しばらくメールを送るのをやめてください」と連絡してくれなかったらしい。
まったく気が利かない。
昼までにアイリンはメールに返信し、翻訳をチェックし、誰かの受信箱に三日間も放置されていたくせに「緊急」と書かれた案件まで修正した。
人間の「緊急」の定義というのは、実に興味深い。
昼過ぎ、ルーシーがオフィスのドアから顔をのぞかせた。
「入っていい?」
「もちろん」
ルーシーは中に入り、ドアを閉めた。
私は少し警戒した。
「結果、出た?」
アイリンはうなずいた。
「多発性硬化症だった」
ルーシーの表情が変わった。
「……アイリン」
まただ。
この「……」のあとに来る声。
MRIも、血液検査も、腰椎穿刺も、理不尽なほど長い待ち時間も必要だった情報なのに、それを受け止める言葉はこんなにも短い。
「確定したの?」
「うん」
ルーシーは向かいの椅子に座った。
しばらく、何も言わなかった。
私はそれをありがたく思った。
最近、みんな少ししゃべりすぎていたから。
やがてルーシーが聞いた。
「今、どんな感じ?」
アイリンは椅子にもたれた。
「みんな、それを聞くのよね」
「たぶん、理由があるんじゃない?」
「まだわからない」
ルーシーはうなずいた。
「それでいいと思う」
励ましの演説なし。
「あなたなら大丈夫」もなし。
私はだんだん、この人が気に入ってきた。
アイリンは机の上の書類に目を落とした。
「いろいろ理解しようとしてるの。病気のことも、治療のことも。これから何が変わって、何が変わらないのかも」
「いろいろ読んでる?」
アイリンがルーシーを見た。
ルーシーは笑った。
「ごめん。聞くまでもなかったね」
ありがとう。
ようやく、私たちがどういう人間を相手にしているのかわかっている人が現れた。
「それとね、自分の実践についても考えてる」
お。
そっちは少し危険な匂いがする。
「まだ始めてそんなに長くないでしょう。でも、唱題すると自分がどうなるかはわかってきた。気持ちが落ち着くし、同じ考えの中にずっと閉じ込められなくなる」
「閉じ込められる」という表現には異議がある。
私は「徹底的に検討している」と呼びたい。
「でも、今回のことがあって……」
アイリンは少し言葉を止めた。
「もっと知りたくなったの」
ルーシーはうなずいた。
「読んでみたらいいと思うものがいくつかあるよ」
「いくつか?」
「記事とか、本の一部とか、指導とか」
「本も?」
「二冊くらいかな」
「ルーシー」
「聞いたのはアイリンでしょう?」
「少し資料が欲しいって言ったの。講座を受講したいとは言ってない」
「でも読むでしょ?」
アイリンはルーシーを見つめた。
残念ながら、ルーシーの言う通りだった。
「送って」
「送る」
それだけだった。
講義もなし。
アイリンが何を信じるべきか、何を見つけるべきかという説明もなし。
ルーシーは仕事に戻っていった。
その慎み深さは評価したい。
何しろアイリンは、すでにもう一つ学位が取れそうなくらい読むものを抱えている。
……
その日の夜、メッセージが届き始めた。
一つではない。
いくつも。
もちろんだ。
記事。
抜粋。
少し長めの文章。
そして最後に、ルーシーから一言。
『今夜、全部読もうとしないでね』
私は笑った。
ルーシーは、自分が思っているほどアイリンを理解していないらしい。
アイリンは最初の資料を開いた。
「やめなさい」
無視された。
「医療関係の資料だけでも読むものがあるでしょう」
反応なし。
「仕事もある」
なし。
「韓国語も」
まだなし。
「娯楽って言葉、覚えてる?」
「読書が娯楽だけど」
「その一言で、あなたという人間のかなりの部分が説明できるわ」
アイリンは読み続けた。
最初のうちは、特に警戒するようなことはなかった。
生命。
苦しみ。
病気。
まあ、いい。
人間は自分たちがいつか死ぬと気づいて以来、ずっとそんなことを考えてきた。
ところが、ある部分でアイリンの読む速度が落ちた。
色心不二。
アイリンはその箇所を読んだ。
少し戻った。
そして、もう一度読んだ。
おや。
私は、読む速度が落ちるのが好きではない。
速く読むのは情報収集。
ゆっくり読むのは思考。
そして最近、この家では思考がかなり危険なものになりつつある。
「何か問題?」
「別に」
「そこ、三回読んでるけど」
「考えてるの」
ほら。
危険な言葉が出た。
その文章には、心と体は完全に切り離された別々のものではなく、同じ一つの生命の異なる側面であり、深く結びついていると書かれていた。
アイリンはルーシーが送ってきた別の資料を開いた。
「今度は照合まで始めるの?」
無視。
素晴らしい。
そこにも同じ考え方があった。
心と体。
一つの生命。
アイリンの手が止まった。
私は待った。
そして気づいた。
もう文章を見ていない。
神経内科医の言葉を思い出している。
本来、免疫系は体を守る。
でも自己免疫疾患では、その免疫系が自分自身の組織を攻撃する。
なぜ?
医学にも、まだ完全な答えはない。
関係しているさまざまな要因はわかっている。
多発性硬化症がアイリンの神経系で何を起こしているのかもわかっている。
損傷を見ることもできる。
病気をコントロールするための治療法もある。
でも、なぜ自分の免疫系が自分自身の体を攻撃し始めたのかとアイリンが尋ねたとき、完全な答えはなかった。
アイリンはもう一度、文章に目を戻した。
心と体。
同じ生命の異なる側面。
私は居心地が悪くなった。
「またやってる」
「何を?」
「考えすぎ」
アイリンは少し笑いそうになった。
でも、すぐに真剣な顔に戻った。
「もし、心と体が本当は切り離されたものじゃないなら……」
私は待った。
アイリンはその先を言わなかった。
よし。
ここで終わろう。
実にいい終わり方だ。
ところがアイリンはノートに手を伸ばした。
いや。
絶対にダメ。
「アイリン」
白紙のページを開いた。
「もう医療用のノートがあるでしょう。これ以上、部署を増やす必要はないと思うけど」
アイリンは書いた。
心と体が切り離せないものなら、それは私にとって何を意味するんだろう?
私はその文章を見つめた。
「火曜の夜に考えることとしては、ずいぶん大きくない?」
アイリンはしばらく、その問いを見ていた。
そして、もう一つ書いた。
私は自分の人生に、どんな原因をつくってきたんだろう?
私は止まった。
あ。
いや。
これはもっと危険な質問だ。
なぜなら、私は答えのいくつかを知っていたから。
まだ足りない。
これは皆勤賞ものだった。
まだ十分じゃない。
まだ成功していない。
まだきれいじゃない。
まだ勇気が足りない。
十分に良い娘じゃない。
妻として。
母親として。
仕事をする人間として。
いつだって何かがあった。
もっと良くしなければならないもの。
証明しなければならないもの。
今の自分に満足することを許される前に、ならなければいけない「別の自分」。
アイリンはページを見つめた。
そして、もう一つ質問を書いた。
私はこれまでずっと、自分自身をどう扱ってきたんだろう?
ちょっと待って。
私たちは多発性硬化症の話から始めたはずだ。
そこから心と体の話になった。
なのに、いつの間にアイリンとアイリン自身との関係を全面調査することになった?
この研究の方向性には賛成できない。
アイリンはそれ以上何も書かず、しばらく座っていた。
私はその顔を知っている。
そして何より、彼女が入り込もうとしている場所も知っていた。
何度も何度も振り返らなければ気が済まなかった失敗。
何かを達成しても、もっとできたはずだと思ったこと。
疲れ果てていても、そのあとには必ず「まだ頑張れる」。
何かが必要でも、誰かに頼めば迷惑になるんじゃないかと真っ先に考えたこと。
私が「備え」に変えた、あらゆる恐怖。
私が「やる気を出させるため」と呼んだ、あらゆる批判。
私は落ち着かなくなった。
これは私の話じゃない。
もちろん。
アイリンはもう一度、ノートの質問を見た。
「もし私が、ずっと自分の人生の中で原因をつくってきたのなら……」
私は動きを止めた。
アイリンはその続きを言わなかった。
まだ。
でも、その表情には何か変化があった。
罪悪感ではなかった。
そこは重要だった。
「私が自分を病気にしたんだ」という顔ではない。
自分を罰しようとしているわけでもない。
自分を責めているわけでもない。
ただ、何かを知ろうとしていた。
そして――
ほんの少し、希望を感じているようにも見えた。
私は罪悪感のほうが好きだった。
罪悪感なら慣れている。
希望には、ろくでもない可能性がある。
アイリンはノートを閉じた。
「今日はここまで」
やっと。
合理的な判断だ。
そしてアイリンは、また資料を手に取った。
私は彼女を見つめた。
「今、ここまでって言ったばかりでしょう」
「ノートはね」
「『ここまで』って、そういう意味じゃないから」
アイリンは笑って、続きを読む。
私は近くにいた。
警戒しながら。
神経内科医は、アイリンの病気に名前を与えた。
ルーシーは、アイリンに読むものを与えた。
そして今、アイリンは自分がこれまでの人生でつくってきた原因について問い始めている。
どんな答えを見つけるのか、私にはわからない。
でもなぜか、その問いをアイリンは怖がっていなかった。
むしろ、自分にも何かできることがあると気づき始めたように見えた。
そっちのほうが、私にはずっと心配だった。
だって、もしアイリンが――
これからは違う原因をつくっていける
なんて考え始めたら……。
私が人生をかけて積み上げてきた仕事のかなりの部分が、再検討の対象になる気がする。
しかも誰も、事前にファイルを整理する時間すらくれなかった。




