これが習慣になるなんて聞いてない
私は、南無妙法蓮華経の一件は一度きりのものだと思っていた。
アイリーンは泣いていた。ルーシーがそこにいた。誰かが唱え始めて、私は存在するはずのない海に浮かぶことになった。
まあ、いい。
感情が大きく揺れているときには、変なことも起きる。
でも、アイリーンがもう一度やるとは思っていなかった。
それは二日後だった。
土曜日の朝。
アイリーンはコーヒーを淹れ、カーテンを開けてソファに座った。何も変わったことは起きていなかった。嫌な電話もない。突然の知らせもない。ディランが年下だろうが年上だろうが、妙に彼に夢中な女性と一緒にいたという報告もない。
どう見ても、ごく普通の朝だった。
ところがアイリーンはコーヒーをテーブルに置き、目を閉じた。
そして始めた。
「南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……」
私は固まった。
「いや。」
アイリーンは続ける。
「南無妙法蓮華経……」
「ちょっと待って。またやるの?」
どうやら、やるらしい。
「アイリーン。」
返事はない。
「今、泣いてないよね?」
アイリーンが少し笑いそうになった。
それは余計だった。
「何も起きてないよ。」
それでも唱え続ける。
「じゃあ、いったい何を解決しようとしてるの?」
返事はなかった。
そして部屋が消えた。
そこにあった。
海。
また。
私は明るい太陽の下、水面に仰向けで浮かんでいた。
「これは問題になってきた。」
水は静かに私の周りで揺れている。
「日焼け止めだって持ってないのに。」
何もない。
水。
太陽。
そして相変わらず、何の説明もない。
「ここが定期的に連れてこられる場所になるなら、せめて事前に知らせるべきじゃない?」
私の意見に興味を持つ者はいないらしい。
ひどいサービスだ。
そして私は戻ってきた。
アイリーンはまだソファに座っていた。
目を開け、コーヒーに手を伸ばす。
私は待った。
涙はない。
危機もない。
何もない。
なぜか、それが一番気になった。
「今のは何のため?」
アイリーンはコーヒーを一口飲んだ。
「やりたかったから。」
「やりたかった?」
「うん。」
「別に落ち込んでなかったよね。」
「うん。」
「泣いてもなかった。」
「うん。」
「何も大変なことは起きてない。」
アイリーンは私を見た。
「大変なことが起きないと、やっちゃいけないの?」
ええと……
普通は?
そうでしょう?
少なくとも私の経験では、人間というものは、すべてが燃え始めるまで新しいことを試そうとはしない。
どうやらアイリーンは、別のやり方を試しているらしい。
「何か感じた?」と私は聞いた。
アイリーンは少し考えた。
「落ち着いた。」
「最初から落ち着いてたでしょう。」
「今はもっと落ち着いてる。」
それには返す言葉がなかった。
主に、効率が悪い気がしたから。
アイリーンは立ち上がり、コーヒーを持ってキッチンへ向かった。
私はついていった。
当然。
「それで終わり?」
「何が?」
「そこに座って、あの言葉を繰り返して、許可もなく私を海に送り込んで、そのまま普通に土曜日を続けるの?」
アイリーンが笑った。
「そうみたい。」
私は納得していなかった。
まあ、誰も私の意見なんて聞いてないけど。
…
月曜日、アイリーンは社員食堂でルーシーを見つけた。
ルーシーが昼食を半分ほど食べたところで、アイリーンは向かいの席に座った。
「もう一度やってみた。」
ルーシーが顔を上げる。
「何を?」
「この前の。唱えるやつ。」
ルーシーの表情がぱっと明るくなった。
「やったんですか?」
「土曜日に。」
「それで?」
アイリーンはランチを開けた。
「分からない。」
ルーシーが笑った。
「ずいぶん詳しい感想ですね。」
「落ち着いた。」
「それはよかった。」
アイリーンは待った。
ルーシーはまた昼食を一口食べた。
アイリーンはまだ待っている。
何も起こらない。
「それだけ?」とアイリーンがとうとう聞いた。
ルーシーが彼女を見る。
「何がですか?」
「次に何をすればいいか教えてくれるのかと思ってた。」
「知りたいなら話しますよ。」
アイリーンは少し考えた。
「知りたいかどうか、まだ分からない。」
「じゃあ、今は聞かなくてもいいですよ。」
ほう。
押しつけない。
長い説明もしない。
何かに誘おうともしない。
私はまだ警戒していた。
アイリーンはフォークを手に取った。
「唱えてる間は、何を考えればいいの?」
「何でも。」
「ずいぶん具体的ね。」
ルーシーが笑った。
「変えたいことでも、心配してることでも、叶えたいことでも。何でもいいんです。」
「途中で別のことを考えちゃったら?」
「たぶん、そうなりますよ。」
アイリーンが眉をひそめた。
「それでもいいの?」
「もちろん。」
アイリーンは笑った。
「それなら私にもできそう。」
私は無理だった。
人間の心があちこちに飛んでいるときこそ、私の腕の見せどころなのに。
「時間は?」とアイリーンが聞いた。
「時間を計る必要はないですよ。」
「五分でも?」
「やりたいなら。」
「十分?」
「もちろん。」
「一時間?」
ルーシーが笑った。
「やりたければ。」
アイリーンは疑うように彼女を見た。
「本当にルールを教えてくれないのね。」
「今日はまだ。」
「どうして?」
「始めたばかりだから。」
なるほど。
筋は通っている。
だからこそ、私はすぐに気に入らなかった。
ルーシーはランチの容器を閉じた。
「とりあえずやってみたらいいですよ。それで、自分がどう感じるか見てみれば。」
アイリーンはうなずいた。
そして二人は、私を謎の海へ送り込む原因となった行為について話した直後だというのに、何事もなかったように仕事の話を始めた。
人間って、本当に変だ。
…
数日後、アイリーンはまた唱えた。
今度は出勤前だった。
もう着替えも済んでいて、家を出るまで少し時間があった。
スマートフォンを見る代わりに、アイリーンは座った。
私はすぐに気づいた。
「いや。」
アイリーンは目を閉じた。
「南無妙法蓮華経……」
「アイリーン。」
唱え続ける。
「これから行くところがあるんだけど。」
「南無妙法蓮華経……」
「会社。覚えてる? 仕事っていうもの。」
海。
失礼な。
戻ってみると、数分しか経っていなかった。
アイリーンは立ち上がり、バッグを持って会社へ向かった。
遅刻もしなかった。
腹立たしい。
その二日後の夜、またやった。
帰宅して、着替えて、軽く食事を済ませる。
そしてソファに座った。
私は彼女を見つめた。
「本気?」
「南無妙法蓮華経……」
「今日は大変な一日ですらなかったでしょう。」
唱え続ける。
「誰かから電話があった?」
何もない。
「メール?」
何もない。
「渋滞?」
海。
私はだんだん、あるパターンに気づき始めていた。
そして、事前に私と相談されていないパターンは好きじゃない。
…
金曜日の朝、それは確信に変わった。
アイリーンはいつもより少し早く起き、コーヒーを淹れて座った。
私は彼女がカップをテーブルに置くのを見ていた。
そして目を閉じた。
「また?」
「南無妙法蓮華経……」
「アイリーン。」
唱え続ける。
「二日前にもやったでしょう。」
何もない。
「限度ってものがあると思う。」
「南無妙法蓮華経……」
「これ、習慣になり始めてない?」
海。
その頃には、私にも分かり始めていた。
ルーシーがアイリーンに教えたのは、彼女がボロボロになったときだけ使うものじゃなかった。
アイリーン自身が、これからも続けたいと思う何かだった。
そんな可能性があるなんて、誰も私には教えてくれなかった。
しかも、毎回海に送られているのは私なんだから……
せめて事前に相談くらいしてほしかった。




