表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
44/47

まだ、間に合うかもしれない

私は昔、人はたった一度の会話で変われるものだと思っていた。

違った。

人が変わるのは、話し合いの最中じゃない。

その翌朝。

昨日とは違う選択をしたときだ。

もちろん――

そんなことができる人は、そう多くない。

でも、この二人は。

少なくとも、やろうとはしていた。

月曜日は、いつもの月曜日と何一つ変わらない顔で始まった。

ディランは朝早く仕事へ向かい、アイリーンは家で仕事をする。

特別なことは何も起こらない。

でも、それこそが特別だった。

口論もない。

すべて元通りになったふりをすることもない。

数日前にようやく見つけた本音を、無駄にしないよう、お互いが少しずつ気をつけている。

私は腕を組んだ。

「努力なんて、誰でもできるのよ。」

問題は、それを続けられるかどうか。

人間って、大体そこで失敗する。

その日の夕方。

玄関のドアが、いつもよりずっと早く開いた。

私は時計を見る。

六時十五分。

もう一度見る。

やっぱり六時十五分。

「……誰か死んだ?」

パソコンから顔を上げたアイリーンが苦笑する。

「それか、あなたの夫が別人になったとか?」

ドアが開く。

ネクタイを少し緩めながら、ディランが笑顔で入ってきた。

「ただいま。」

アイリーンは目を丸くした。

「今日は早いのね。」

「ああ。」

どこか誇らしそうな声だった。

「今日できる仕事は全部終わらせてきた。」

そう言って彼は上着を脱ぎ、アイリーンの額に軽くキスをする。

「今夜は仕事しない。」

私はブリーフケースを見る。

「充電ケーブルが出てこなければ信じてあげる。」

ディランが笑った。

「今、誰かに疑われた気がする。」

「気のせいよ。」

聞こえるはずがない。

私の声は、アイリーンにしか届かないのだから。

アイリーンだけが、小さく笑った。

夕食は、ごく普通だった。

だからこそ良かった。

長男から電話があったこと。

アンドレアがくだらない画像を送ってきたこと。

下の階の住人がようやく水漏れを直したこと。

そんな、どうでもいい話ばかり。

でも、人は案外そういう時間の中で生きている。

私は何度かアイリーンの視線に気づいた。

彼女はディランを見ていた。

答えを探しているわけではない。

ただ、話を聞いていた。

そして、何か月ぶりだろう。

ディランもまた、ちゃんとそこにいた。

その後の数日も、似たような毎日が続いた。

完璧ではない。

でも、前より少しだけ良くなった。

ディランは帰れる日は早く帰り、

夕食のあと二人で近所を散歩したり、

ソファで映画を見始めて、途中でどちらかが寝てしまったり。

私は毎日のように文句を言った。

「なんだか健全すぎて落ち着かないわ。」

アイリーンは笑う。

「そのうち慣れるよ。」

「慣れたくない。」

本当に。

土曜日の午後。

二人は公園を歩いていた。

行き先は決めていない。

予定もない。

子どもたちは鳩を追いかけ回している。

どうして人間は、

『追いかけちゃダメ』

と言われると、

全力で追いかけたくなるんだろう。

不思議な生き物だ。

しばらく歩いたあと、

ディランが何気なくアイリーンの手を握った。

彼女も自然に握り返す。

どちらも何も言わない。

沈黙には種類がある。

傷つける沈黙もあれば、

傷を癒やす沈黙もある。

……認めたくないけど。

「ずっと考えてたんだ。」

ディランが口を開いた。

「知ってる。」

「数日、どこかへ行かないか?」

アイリーンが彼を見る。

「二人だけで?」

「ああ。」

「仕事は?」

「置いていく。」

「電話は?」

「……できるだけ。」

彼女は眉を上げた。

「"できるだけ"?」

「今は交渉中だから。」

その瞬間、

アイリーンが笑った。

愛想笑いじゃない。

気を遣う笑いでもない。

心からこぼれた笑顔だった。

私は、その笑い声を最後に聞いたのがいつだったのか思い出せなかった。

家に帰ると、

ディランはノートパソコンを開いた。

私は即座に指をさす。

「はい、却下。」

ディランは苦笑した。

「仕事じゃない。」

アイリーンは腕を組む。

「証拠は?」

彼は旅行サイトを開いた。

「ここはどう?」

画面には湖のほとりの小さなホテルが映っていた。

アイリーンが身を乗り出す。

「静かそう。」

「私は海でもいいと思ったんだけど。」

「海は人が多いもの。」

「山は虫が多い。」

「山はコーヒーがおいしい。」

「海は夕日がきれい。」

「山はハイキングできる。」

「海はハイキングしなくて済む。」

「それが魅力なの。」

二人は顔を見合わせた。

そして同時に笑い出す。

私は大きくため息をつく。

「見てるこっちが恥ずかしい。」

アイリーンは画面から目も離さず言った。

「頑張って耐えて。」

「努力してみる。」

保証はしないけど。

一時間ほどして、

ディランが予約ボタンを押した。

確認メールが届く。

彼は椅子にもたれた。

「これで決まり。」

アイリーンは画面を見つめていた。

ホテルを見ていたわけじゃない。

約束を見ていた。

ディランはテーブル越しに彼女の手を握る。

「今度の週末。」

「誰にも邪魔されない。」

「約束する。」

アイリーンはしばらく彼を見つめてから、

静かにうなずいた。

「……楽しみにしてる。」

その夜。

ディランが寝室へ上がったあとも、

アイリーンはリビングに残っていた。

膝の上にはスマートフォン。

画面には予約確認のメールが光っている。

私は隣に腰を下ろした。

「少し元気そうね。」

彼女は少し考えてから答えた。

「うん……。」

そして、小さく笑う。

「久しぶりに、何かを楽しみに待つ気持ちを思い出した。」

私はもう一度、

画面を見つめた。

湖。

小さなホテル。

たった二日間の旅行。

それだけだった。

でも、

希望はいつだって、

大げさな奇跡と一緒にやって来るわけじゃない。

時には、

ただ一通の予約確認メールとして、

静かに現れることもある。

そして私は――

長い長い時間を経て、

本当に久しぶりに思ってしまった。

もしかしたら。

本当に、もしかしたら。

まだ、間に合うのかもしれない。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ