まだ、間に合うかもしれない
私は昔、人はたった一度の会話で変われるものだと思っていた。
違った。
人が変わるのは、話し合いの最中じゃない。
その翌朝。
昨日とは違う選択をしたときだ。
もちろん――
そんなことができる人は、そう多くない。
でも、この二人は。
少なくとも、やろうとはしていた。
…
月曜日は、いつもの月曜日と何一つ変わらない顔で始まった。
ディランは朝早く仕事へ向かい、アイリーンは家で仕事をする。
特別なことは何も起こらない。
でも、それこそが特別だった。
口論もない。
すべて元通りになったふりをすることもない。
数日前にようやく見つけた本音を、無駄にしないよう、お互いが少しずつ気をつけている。
私は腕を組んだ。
「努力なんて、誰でもできるのよ。」
問題は、それを続けられるかどうか。
人間って、大体そこで失敗する。
…
その日の夕方。
玄関のドアが、いつもよりずっと早く開いた。
私は時計を見る。
六時十五分。
もう一度見る。
やっぱり六時十五分。
「……誰か死んだ?」
パソコンから顔を上げたアイリーンが苦笑する。
「それか、あなたの夫が別人になったとか?」
ドアが開く。
ネクタイを少し緩めながら、ディランが笑顔で入ってきた。
「ただいま。」
アイリーンは目を丸くした。
「今日は早いのね。」
「ああ。」
どこか誇らしそうな声だった。
「今日できる仕事は全部終わらせてきた。」
そう言って彼は上着を脱ぎ、アイリーンの額に軽くキスをする。
「今夜は仕事しない。」
私はブリーフケースを見る。
「充電ケーブルが出てこなければ信じてあげる。」
ディランが笑った。
「今、誰かに疑われた気がする。」
「気のせいよ。」
聞こえるはずがない。
私の声は、アイリーンにしか届かないのだから。
アイリーンだけが、小さく笑った。
…
夕食は、ごく普通だった。
だからこそ良かった。
長男から電話があったこと。
アンドレアがくだらない画像を送ってきたこと。
下の階の住人がようやく水漏れを直したこと。
そんな、どうでもいい話ばかり。
でも、人は案外そういう時間の中で生きている。
私は何度かアイリーンの視線に気づいた。
彼女はディランを見ていた。
答えを探しているわけではない。
ただ、話を聞いていた。
そして、何か月ぶりだろう。
ディランもまた、ちゃんとそこにいた。
…
その後の数日も、似たような毎日が続いた。
完璧ではない。
でも、前より少しだけ良くなった。
ディランは帰れる日は早く帰り、
夕食のあと二人で近所を散歩したり、
ソファで映画を見始めて、途中でどちらかが寝てしまったり。
私は毎日のように文句を言った。
「なんだか健全すぎて落ち着かないわ。」
アイリーンは笑う。
「そのうち慣れるよ。」
「慣れたくない。」
本当に。
…
土曜日の午後。
二人は公園を歩いていた。
行き先は決めていない。
予定もない。
子どもたちは鳩を追いかけ回している。
どうして人間は、
『追いかけちゃダメ』
と言われると、
全力で追いかけたくなるんだろう。
不思議な生き物だ。
しばらく歩いたあと、
ディランが何気なくアイリーンの手を握った。
彼女も自然に握り返す。
どちらも何も言わない。
沈黙には種類がある。
傷つける沈黙もあれば、
傷を癒やす沈黙もある。
……認めたくないけど。
…
「ずっと考えてたんだ。」
ディランが口を開いた。
「知ってる。」
「数日、どこかへ行かないか?」
アイリーンが彼を見る。
「二人だけで?」
「ああ。」
「仕事は?」
「置いていく。」
「電話は?」
「……できるだけ。」
彼女は眉を上げた。
「"できるだけ"?」
「今は交渉中だから。」
その瞬間、
アイリーンが笑った。
愛想笑いじゃない。
気を遣う笑いでもない。
心からこぼれた笑顔だった。
私は、その笑い声を最後に聞いたのがいつだったのか思い出せなかった。
…
家に帰ると、
ディランはノートパソコンを開いた。
私は即座に指をさす。
「はい、却下。」
ディランは苦笑した。
「仕事じゃない。」
アイリーンは腕を組む。
「証拠は?」
彼は旅行サイトを開いた。
「ここはどう?」
画面には湖のほとりの小さなホテルが映っていた。
アイリーンが身を乗り出す。
「静かそう。」
「私は海でもいいと思ったんだけど。」
「海は人が多いもの。」
「山は虫が多い。」
「山はコーヒーがおいしい。」
「海は夕日がきれい。」
「山はハイキングできる。」
「海はハイキングしなくて済む。」
「それが魅力なの。」
二人は顔を見合わせた。
そして同時に笑い出す。
私は大きくため息をつく。
「見てるこっちが恥ずかしい。」
アイリーンは画面から目も離さず言った。
「頑張って耐えて。」
「努力してみる。」
保証はしないけど。
…
一時間ほどして、
ディランが予約ボタンを押した。
確認メールが届く。
彼は椅子にもたれた。
「これで決まり。」
アイリーンは画面を見つめていた。
ホテルを見ていたわけじゃない。
約束を見ていた。
ディランはテーブル越しに彼女の手を握る。
「今度の週末。」
「誰にも邪魔されない。」
「約束する。」
アイリーンはしばらく彼を見つめてから、
静かにうなずいた。
「……楽しみにしてる。」
…
その夜。
ディランが寝室へ上がったあとも、
アイリーンはリビングに残っていた。
膝の上にはスマートフォン。
画面には予約確認のメールが光っている。
私は隣に腰を下ろした。
「少し元気そうね。」
彼女は少し考えてから答えた。
「うん……。」
そして、小さく笑う。
「久しぶりに、何かを楽しみに待つ気持ちを思い出した。」
私はもう一度、
画面を見つめた。
湖。
小さなホテル。
たった二日間の旅行。
それだけだった。
でも、
希望はいつだって、
大げさな奇跡と一緒にやって来るわけじゃない。
時には、
ただ一通の予約確認メールとして、
静かに現れることもある。
そして私は――
長い長い時間を経て、
本当に久しぶりに思ってしまった。
もしかしたら。
本当に、もしかしたら。
まだ、間に合うのかもしれない。




