私が彼女に教えなかった、たった一つの問い
「……わからない。」
その言葉を聞いた瞬間、私は思った。
私はずっと、アイリーンが口にする答えなら何でも知っていると信じていた。
怖がっているときの答え。
「私は足りない。」
罪悪感に押しつぶされそうなときの答え。
「もっと頑張るべきだった。」
怒っているときの答えさえも。
それらは全部、私のものだった。
いや――ほとんどは、私が育てた言葉だった。
でも……
「わからない。」
それだけは違った。
その言葉は、私の台本には存在しなかった。
リビングには静かな沈黙が流れた。
気まずい沈黙ではない。
誰かが慌てて埋めようとする沈黙でもない。
それはまるで、二人とも持っていない何かを、静かに待っているような沈黙だった。
ディランは彼女の手を離さなかった。
「そんな答えが返ってくるとは思わなかった。」
静かな声だった。
アイリーンは小さく息を吐き、少しだけ笑った。
「私も。」
ディランはしばらく彼女を見つめた。
「君はいつだって、答えを知っていた。」
「私もそう思ってた。」
その声に苦しさはなかった。
あったのは――戸惑いだけ。
そのほうが、ずっと怖かった。
希望を失った人には、たいてい答えがある。
でも……
変わり始めた人には、
まだ答えなんてない。
ディランはソファの上で少し体を動かした。
「最後に、そのことを自分に問いかけたのはいつ?」
「何を?」
「自分は幸せかって。」
アイリーンは眉を寄せた。
誕生日。
学校の行事。
仕事の締め切り。
買い物。
誰かの予定。
彼女はこれまで、それらを思い出してきたのと同じように、自分の記憶を探し始めた。
長い沈黙のあと、
ゆっくり首を横に振る。
「……一度もないと思う。」
その瞬間、
私の中で何かが静かになった。
一度も。
本当に、一度も。
ディランは目を瞬かせた。
「一度も?」
アイリーンは寂しそうに笑う。
「私は、いつも違う質問ばかりしてた。」
ディランは何も言わず待った。
彼女はつないだ手へ視線を落とす。
「子どもたちは大丈夫?」
「仕事は全部終わった?」
「あなたは夕飯を食べた?」
「お母さんは薬を飲んだ?」
「電気代は払った?」
小さく笑った。
「私はね……
誰かの問いに答えることだけは、本当に上手だったの。」
彼女は顔を上げる。
「でも、自分自身には一度も問いかけていなかった。」
もし、「その時すべてを理解した」と言えたら格好いいのだけれど。
残念ながら違う。
私はまだ、
間違った謎を追いかけていた。
私はずっと、
裏切りを警戒していた。
失望を恐れていた。
いつかディランが彼女を愛さなくなる日を想像していた。
そのための台詞なら、いくらでも用意していた。
でも……
こんな未来だけは、
一度も考えたことがなかった。
ディランは親指で、彼女の手の甲を優しくなでた。
「じゃあ……
今日が初めてだったんだ。」
「たぶん。」
「それで、答えは見つからなかった。」
「うん。」
アイリーンはもう一度笑う。
小さく。
どこか申し訳なさそうな笑顔だった。
「私は……
誰かに必要とされる人になろうとしてばかりいた。」
そこで言葉が途切れた。
ディランは続きを言わない。
ただ待った。
そして彼女は、静かに続ける。
「私は……
いつの間にか、自分が誰なのかわからなくなってた。」
まただ。
大げさじゃない。
劇的でもない。
ただ――
真実だった。
私はずっと思っていた。
人生で一番最悪の日は、
怒鳴り声から始まるのだと。
裏切りから始まるのだと。
ドアを叩きつける音から始まるのだと。
でも違った。
それは、
「自分が誰かわからない。」
そう静かに認めた、一人の女性から始まった。
人間という生き物は、
本当に予想外だ。
ディランは視線を落とした。
「僕は……」
言葉を止める。
そしてもう一度。
「もっと前に、その質問を君にするべきだった。」
アイリーンは静かに首を振る。
「違う。」
「違う?」
「私が、自分に聞くべきだった。」
そのあと、
二人は何も話さなかった。
外では一台の車が通り過ぎる。
どこか遠くで、誰かが笑っている。
世界は何事もなかったように動き続けていた。
少しくらい立ち止まってくれてもいいのに、と私は思った。
「これからどうなるのか……
わからない。」
アイリーンがそう言うと、
ディランもうなずいた。
「僕もわからない。」
不思議だった。
私がこれまで聞いたどんな会話より、
それが一番誠実だった。
約束はない。
計画もない。
「全部うまくいく」なんて言葉もない。
ただ、
これから先の道が見えないことを認め合った二人がいただけだった。
アイリーンはそのまま隣に座り続けた。
もう言葉は必要なかった。
初めてだった。
二人とも、
相手を救おうとしていなかった。
ただ、
今まで気づかなかった真実の隣に座っていただけだった。
外では午後がいつも通り流れていく。
でも――
この部屋の中では、
すべてが変わってしまっていた。
私はアイリーンを見つめた。
今までとは違う目で。
私はずっと、
彼女を痛みから守ることが自分の役目だと思っていた。
疑うこと。
慎重になること。
傷つかないよう備えること。
そればかり教えてきた。
失望も。
恐れも。
自信を失う瞬間も。
私は全部見てきた。
それなのに……
一番大切なものだけを見落としていた。
彼女は、
愛し方を忘れたわけじゃない。
戦い方を忘れたわけでもない。
自分自身を見つめることを、
忘れてしまっていたんだ。
そのことが怖かったのは、
どう直せばいいかわからなかったからじゃない。
怖かったのは……
私は何年もの間、
彼女に「生き延びる方法」ばかり教えてきて、
「生きる方法」は、
一度も教えられなかったのだと気づいてしまったからだった。




