せっかく予定があったのに
しばらくの間、私は自分が考えすぎだったのかもしれないと思い始めていた。
認めたくはないけれど、そういうことも、ごくたまにはある。
仕事は相変わらず忙しかった。
プロジェクトは順調に大きくなり、そのたびに「ダイレンなら何とかしてくれる」という期待も膨らんでいく。
それでも彼は、家に帰ればちゃんと「帰ってきた」。
玄関を開けると最初にアイリンへ「今日はどうだった?」と聞くし、アンドレアから電話が来れば二人で笑いながら話を聞く。夜になるとノートパソコンを閉じて、「今日はもう終わり」と自分に言い聞かせるように仕事を切り上げようとしていた。
完璧ではない。
でも、ちゃんと努力していた。
それは私にも分かった。
だからこそ、少しだけ油断してしまったのだ。
その金曜日の午後、アイリンはパソコンから顔を上げた。
「ねえ、今夜、外で食事しない?」
ダイレンも画面から目を離した。
「二人で?」
「ほかに誰を誘うの?」
「もちろん二人で行きたい。」
「特別な日じゃないけど。」
「だからいいんだよ。」
……その返事は悪くなかった。
悔しいけれど。
アイリンは仕事を片づけると寝室へ向かった。
クローゼットを開け、少しだけ考えてから青いワンピースを取り出す。
高価な服ではない。
特別な思い出があるわけでもない。
ただ、ダイレンが昔から好きだと言っていた一着だった。
着替えてリビングへ戻ると、ダイレンはテーブルの上で車の鍵を探していた。
ふと顔を上げる。
そのまま動きが止まった。
「……きれいだ。」
アイリンは笑った。
「この服、何年も前から持ってるでしょう?」
「知ってる。」
「何度も見てるのに?」
「知ってる。」
「じゃあ、どうしてそんな顔してるの?」
ダイレンは彼女の前まで歩いてきた。
「何度見ても、きれいだから。」
アイリンは照れまいとした。
もちろん失敗した。
結婚して二十五年経っても、その辺りは全然成長していない。
ようやく鍵を見つけたダイレンが笑う。
「準備はいい?」
「五分前からね。」
「それは信じられないな。」
「鍵を探すのに三分もかけた人が言う?」
「あれは隠されてた。」
「テーブルの真ん中に置いてあったけど。」
「巧妙にな。」
二人は顔を見合わせて笑った。
私は少しだけ肩の力を抜いた。
もしかしたら、本当に何も起こらないのかもしれない。
そう思った、その瞬間だった。
スマートフォンが鳴った。
……もちろん鳴る。
ダイレンが画面を見る。
表情が変わった。
「仕事?」
アイリンが尋ねる。
「まだ分からない。」
電話に出る。
「もしもし。」
しばらく黙って相手の話を聞いていた。
笑顔が少しずつ消えていく。
「……分かりました。」
短い沈黙。
「今、ちょうど出かけるところだったんですが……。」
また沈黙。
「ええ。」
首の後ろに手を当てる。
「すぐ向かいます。」
電話が切れても、ダイレンはその場を動かなかった。
「ごめん。」
小さくそう言った。
「プロジェクト?」
アイリンが聞く。
彼はうなずく。
「クライアントが修正案を全部差し戻してきた。みんな会社で対応してる。」
「月曜日じゃ駄目なの?」
「間に合わない。」
「あなたが必要なのね。」
ダイレンは何も答えなかった。
答える必要もなかった。
「断ることもできる。」
彼はすぐに言った。
あまりにも早く。
一瞬だけ、本気なのかもしれないと思った。
アイリンは彼を見つめる。
彼が何を考えているのか、誰よりも分かっていた。
ここに残れば、会社のみんなを気にし続ける。
会社へ行けば、自分だけが我慢すればいい。
その答えを、彼女はずっと知っていた。
アイリンはそっと彼の手を握る。
「行って。」
「本当は行きたくない。」
「分かってる。」
「明日にしよう。」
「うん。明日なら大丈夫。」
ダイレンはまだ迷っていた。
彼女の顔を見つめる。
そこに怒りも責める気持ちもないことを確かめるように。
アイリンはもう一度微笑んだ。
「大丈夫。」
ダイレンは彼女の額にキスをした。
「埋め合わせはする。」
「楽しみにしてる。」
玄関のドアが閉まる。
部屋は急に静かになった。
アイリンはその場に立ったまま、小さく息を吐く。
それから寝室へ戻り、青いワンピースを丁寧にハンガーへ掛けた。
部屋着に着替え、昨日のパスタを温め始める。
泣かない。
怒らない。
ただ予定を変更した。
それだけだった。
私はキッチンまでついて行く。
「予約してたお店、かわいそうね。」
アイリンは冷蔵庫を開けながら笑う。
「そんなにお腹空いてなかったし。」
「嘘。」
「うん。」
電子レンジが止まる。
テーブルに座って食べ始めた頃、スマートフォンが震えた。
本当にごめん。こんな夜にしたくなかった。
アイリンはそのメッセージを読み返し、短く返信する。
気にしないで。また今度行こう。❤️
私は画面を見つめた。
「ハートまで付ける?」
「付けたかったから。」
「私を皮肉屋でいさせてくれないわね。」
「頼んでないもの。」
その返事に、思わず笑ってしまった。
ダイレンが帰宅したのは、夜十一時近くだった。
疲れ切った顔をしていた。
失敗した顔ではない。
誰かの期待を何時間も背負い続けた人の顔だった。
「ごめん。」
また同じ言葉を口にする。
「うん。」
「もっと早く連絡すればよかった。」
「仕事だったんでしょう?」
彼は静かにうなずいた。
青いワンピースの話はしなかった。
行けなかったレストランの話もしなかった。
二人はコーヒーを淹れ、キッチンのテーブルで並んで座る。
取り留めのない話をしながら、少しずつ笑顔が戻っていく。
私は向かいの椅子から、その様子を眺めていた。
その時、ようやく気付いた。
問題は、このプロジェクトじゃない。
ヴィヴィアンでもない。
ダイレンが仕事を好きなことでもない。
もっと静かなものだった。
誰かが彼を必要とするたび、
ダイレンは応える。
そして、そのたびにアイリンは、
何も言わず、自分の予定を少しだけ横へ置く。
二人とも、それが当たり前になっていることに気付いていなかった。
だから私は、
少しだけ怖くなった。




