どう考えても朗報。でも、怪しい。
大事な話というものは、なぜか最初から要点を教えてくれない。
人は笑顔でコーヒーを勧め、「少し時間あるかな?」などと尋ねる。その数分が、この先何年もの人生を変えるかもしれないことには触れないまま。
人間は、自分で思っている以上に焦らすのが好きらしい。
…
ダイレンの上司はオフィスのドアを閉め、机の向かい側へ腰を下ろした。
「新しいプロジェクトがある。」
もちろん、あるでしょうね。
会社という場所には、必ず「新しいプロジェクト」が存在する。
ただし今回は、複数の部署と海外のクライアントが関わり、ダイレンでさえ一瞬黙るほど大きな責任を伴うものだった。
上司は一冊の資料を机の上へ置いた。
「君に責任者を任せたい。」
ダイレンは資料へ目を落とし、もう一度上司を見た。
「私に、ですか?」
「君が最適任だ。」
その一言で十分だった。
もちろん、私はその場にいたわけではない。私が住んでいるのはアイリンの心の中であって、ダイレンのブリーフケースではない。
でも二十年以上も彼を見ていれば、このあと何が起きたかくらい分かる。
誰かが彼を必要としていた。
誰かが彼を信頼し、難しい問題を解決できると期待していた。
その時点で、ダイレンに勝ち目などなかった。
…
その日の夕方、ダイレンは資料を抱え、アイリンには見慣れた表情で帰宅した。
彼女はキッチンでワインを開けようとしていたが、ダイレンを見るなり手を止めた。
「何かあったのね。」
ダイレンも足を止める。
「どうして分かる?」
「笑うのを我慢してるから。」
「してないよ。」
「してる。」
ダイレンは資料をテーブルに置き、隠すのを諦めた。
「新しいプロジェクトを任された。」
アイリンはカウンターにもたれた。
「大きな仕事?」
「かなり。」
「どれくらい?」
ダイレンが資料を開き、最初のページを彼女へ見せる。
アイリンは概要を読み、それからもう一度彼の顔を見た。
「これを全部、あなたが指揮するの?」
ダイレンはうなずいた。
その瞬間、彼は少しだけ若返って見えた。
顔が変わったわけではない。まだ何もかもが初めてだった頃と同じ興奮が、その表情に戻っていたのだ。
アイリンは笑顔になった。
「すごいじゃない。」
「そう思う?」
「もちろん。」
ダイレンはキッチンを横切り、彼女を抱きしめた。
「まだ引き受けるとは言ってないけど。」
私は心の中でテーブルの横へ現れ、開いた資料をのぞき込んだ。
「もう引き受けたわよ。」
アイリンは笑いそうになる。
「まだ返事してないわ。」
「顔が二十分前に承諾してる。書類が追いついてないだけ。」
…
その夜、二人はささやかに祝った。
特別なことはしない。食事を注文してワインを開け、息子たちへ電話をかけた。
二人の反応は、両親から仕事の報告を聞いた若者らしいものだった。
長男は祝福した直後、昇給もあるのかと尋ねた。
次男は、これでようやく面白い場所へ出張できるのかと聞いた。
私は思わず感心した。
「実に感動的な息子たちね。」
アイリンは私を無視し、スマートフォンをダイレンへ渡した。
通話が終わったあとも、二人はキッチンテーブルに残り、プロジェクトについて話し続けた。
ダイレンはクライアントや目標、これから編成するチームについて説明した。話が具体的になるほど、その声は明るくなっていく。
アイリンも心から喜んでいた。
これは単に仕事が増えるという話ではない。ダイレンが長年かけて積み重ねてきたものが認められ、ようやく手にした機会だった。
「引き受けた方がいいわ。」
ダイレンは彼女の顔を慎重に見る。
「かなり忙しくなると思う。」
「この厚さの資料を見た時点で分かってる。」
「遅い時間の会議もあるかもしれない。」
「今だってあるでしょう?」
「出張も増えるかもしれない。」
アイリンはテーブル越しに手を伸ばし、彼の手を握った。
「何とかなるわ。」
ダイレンもその手を握り返す。
「いつも何とかしてきたからな。」
私は腕を組んだ。
反対したい気持ちはあった。
このプロジェクトが悪い話だったからではない。
むしろ良すぎる話だった。
そこが怪しかった。
…
最初の数週間は、驚くほどうまくいった。
ダイレンはチームを編成し、予定を組み直し、信じられないほど多くのリストを作った。
アイリンも翻訳の仕事を続けながら、静かになった家での生活を楽しんでいた。ただ、ダイレンがダイニングテーブルを臨時の作戦本部へ変えるたびに、笑いをこらえる必要はあった。
ある土曜日の朝、彼女は書類と色分けされたメモ、二種類のカレンダーに囲まれたダイレンを見つけた。
私はその光景を慎重に観察する。
「今度は複数の形式でパニックになってる。」
アイリンはコーヒーを注いだ。
「整理してるのよ。」
「両方同時に成立するわ。」
ダイレンが顔を上げる。
「何か言った?」
「何も。」
彼は目を細めた。
「オスクリタか?」
アイリンは笑う。
「大体そうね。」
「このシステムはちゃんと機能してると伝えてくれ。」
私はカレンダーをのぞき込んだ。
「木曜日が週に二回あれば、もっと機能するでしょうね。」
アイリンが吹き出す。
ダイレンは首を振り、また資料へ視線を戻した。
…
プロジェクトが大きくなるにつれ、電話も増えていった。
会議は朝早くから入り、夜遅くまで続くようになる。時差のある地域で働く人たちは、どうやら睡眠を任意参加の文化的習慣だと思っているらしい。
それでもダイレンは努力していた。
二人で夕食を取る時は、スマートフォンを伏せて置いた。
後回しにできる電話には出なかった。
帰宅が遅くなった日は、アイリンに何も言われる前に謝った。
しばらくの間、均衡は保たれていた。
完璧ではない。
それでも、十分だった。
…
ある夜、アイリンは難しい脚本の翻案について説明していた。
原作の場面は特定の文化的な表現を使っており、そのまま翻訳すると不自然になってしまう。彼女は午後の大半を使って書き直し、ようやく解決方法を見つけたところだった。
ダイレンは夕食を取り分けながら話を聞いていた。
「冗談そのものを直訳する代わりに、登場人物が勘違いする内容を変えたの。意味は違うけれど、場面の意図は残せる。」
「難しそうだな。」
「難しかったわ。」
「でも、うまくいった?」
アイリンは笑った。
「やっとね。」
カウンターの上でダイレンのスマートフォンが震えた。
二人とも画面を見る。
ダイレンは少し迷ったあと、確認せずに端末を裏返した。
「よかったな。それじゃ、俺が分かったふりをしている部分をもう一度説明して。」
アイリンは笑い、話を続けた。
私は心の中からダイレンを疑わしそうに眺める。
正しい行動。
明確な優先順位。
相手を尊重した会話。
正直、落ち着かない。
…
十分後、再び電話が鳴った。
今度はダイレンも画面を確認した。
その表情が変わる。
「ごめん。クライアントからだ。」
アイリンはうなずいた。
「出て。」
「すぐに終わらせる。」
ダイレンはリビングへ移動し、電話に出た。
アイリンは一人で食事を続ける。
通話は十二分で終わった。
まだ、それほどひどくはない。
戻ってきたダイレンは席へ座り、アイリンの皿を見た。
「どこまで話した?」
「脚本の話。」
「そうだ。勘違いする内容を変えたんだった。」
アイリンは微笑んだ。
ちゃんと覚えていた。
その夜は、それで十分だった。
…
数日後、アイリンが仕事をしていると、アンドレアから電話がかかってきた。
彼女には、人が最も忙しい瞬間に電話をかけ、そのことを指摘されると驚いてみせるという珍しい才能がある。
アイリンは画面から目を離さずに応答した。
「仕事から逃げるために電話してきたの?」
アンドレアは傷ついたような声を出す。
「あなたを心配して電話したのよ。」
「つまり、そうなのね。」
「完全に正解。」
アイリンは笑いながら入力を続けた。
アンドレアは失敗した会議や無理な締め切り、常識そのものに宣戦布告したらしい上司について話し始める。
話題はいくつも移り変わり、数分後、アンドレアが突然言った。
「あ、そうだ。誰がうちの会社で働き始めたと思う?」
アイリンは台詞を一行修正する。
「分からない。」
「ヴィヴィアン。」
キーボードの上で、アイリンの手が止まった。
「ヴィヴィアン?」
「そう。あのヴィヴィアン。」
私は心の中で即座に姿勢を正した。
「……あら。」
アイリンは黙ったままだった。
アンドレアが続ける。
「数週間前に入社したの。部署は違うけど、新しいプロジェクトがいろんな部署から人を集めてるから、これからよく顔を合わせると思う。」
「元気そう?」
「何も変わってない。」
アイリンは小さく笑った。
「それは、いろいろな意味に取れるわね。」
「全部よ。」
…
アンドレアはその後も話し続けていたが、私はもう聞いていなかった。
ヴィヴィアン。
元チアリーダー。
実際には大したことをしていないのに、かつてアイリンの不安の中で必要以上に大きな場所を占領していた女性。
大学時代の知人の多くは、仕事や結婚、誰も確認しないSNSのアカウントの向こうへ消えていく。
ところがヴィヴィアンは、再登場キャラクター用のボーナスステージを解放したらしい。
「気に入らない。」
アイリンはアンドレアの話を聞きながら、心の中で私に答える。
「あなたは誰のことも気に入らないでしょう?」
「違うわ。私は正確に人を嫌うの。」
「彼女は何もしてない。」
「まだね。」
「大げさよ。」
「私は語り手なの。多少のドラマは業務内容に含まれてる。」
…
通話が終わると、アイリンは仕事へ戻った。
慌てることもなかった。
秘密の会議や隠された関係を想像することもない。
その夜ダイレンが帰宅しても、ヴィヴィアンの話はしなかった。
話す理由がなかったからだ。
ヴィヴィアンは、たまたま同じ会社で働き始めた昔の知人にすぎない。
それだけだった。
たぶん。
…
その夜、ダイレンはノートパソコンを開いたまま、ソファでアイリンの隣に座っていた。
アイリンが本を読む間、ダイレンはプロジェクトチームから届いたメッセージへ返事をしている。
二十分近く、室内にはキーボードの音だけが響いていた。
私はダイレンが一通メールを送り、続けてもう一通送るのを眺めていた。
ようやく彼がノートパソコンを閉じる。
「これで最後。」
アイリンは本の上から彼を見る。
「三十分前にも同じことを言ってたわよ。」
「今度こそ本当に最後。」
その時、スマートフォンが震えた。
二人とも画面を見る。
ダイレンはため息をついた。
アイリンは笑い始める。
「出ないよ。」
「それがいいわ。」
「明日、問題になるかもしれないけど。」
「明日の問題は、明日のダイレンに任せればいいのよ。」
彼は笑った。
「意外と賢いことを言うな。」
「たまにはね。」
…
ダイレンはスマートフォンをしまい、ソファの背にもたれた。
アイリンも彼の方へ寄りかかる。
しばらくの間、沈黙は穏やかだった。
何も問題は起きていない。
プロジェクトは順調だった。
息子たちも元気にしている。
アイリンには好きな仕事があり、ダイレンは長年の努力にふさわしい機会を手にした。
ヴィヴィアンの再登場だって、まだ何の意味もない。
今のところは。
…
それでも私は観察を続けた。
有能な男というものは危険だ。
特に、その有能さを全員に知られてしまったあとは。
問題はプロジェクトではない。
ヴィヴィアンでもない。
世界中が当たり前のようにダイレンを頼り、彼もまた、求められるたびに自然と応えてしまうこと。
この物語は危機から始まったのではない。
一つのチャンスから始まった。
そういうものは、手遅れになるまで恐ろしさに気づけない。




